「……なァ。金貸してくんない」
 ゴミ袋が裂けた。静寂を切り裂くような音が足元で跳ね、散乱したそこから尾をひくようになめらかに転がりはじめた空き缶の。その行く先をぼんやり追いかけた眼中に、色褪せたぺらぺらのサンダルが、ぐしゃり、踏みおろされる。それはなんとなく缶蹴りの鬼を連想させた。そこにすっと、半袖から伸びた擦り傷のむごい腕が降りてきて、拾うために屈んだ銀髪がつよめの風にかき混ぜられる。めくれあがった銀色のすきまでちらつく冷たい眼差しに、目に映る世界が波打った。
 切れて血のにじむまぶたを手のひらで雑にぬぐいながら、こちらへ一歩踏み出す。身体中についた無数の擦り傷は空気にふれてるだけで沁みるだろうに、いちいち剥き出しだった。凹ませられた空き缶からも、ひきずってる傘の先端からも、そこはかとなく暴力の匂いがした。もしかすると、あのポケットのふくらみはナイフかもしれない。風がきつかった。男の足首にまとわりついた何かのチラシが今度はこちらの眼前で揺らめいて、いっしゅん視界を遮られたその隙に、いちだんと近まる距離。
「あー……五千しかねェ」
 そんなマヌケな返答で、財布からの金を突き出したのは恐怖や哀れみなどからではなく、そうしたほうが楽だからだ。惜しくもなんともないものを護る必要がないだけ。
 こちらの手の中ではためく紙幣を、じ、と見おろす双眸はどこか空洞で、なにかを失いつづけた果ての、あらゆるひかりを跳ね返す影そのものだった。悪ィな、あとで返す、と、まるで十年来の腐れ縁のように伸びてきた指先に、はしっこをつかまれる確かな感触。紙幣のざらりとした手触りが、そのまま男の指紋のようにも思えた刹那、五千円札はただの紙切れのごとく手から離れていった。
 そのとき、そいつのまくった裾のしたから何かに轢かれたようにも見える肉の浮き彫りが見えた。そんなんでよく立っていられると思うが早いか、ふらり。揺らめいた身体が、もってる傘を支えに力尽きたようにしゃがみこむ。服を脱いだらもっと酷いことになっているにちがいない。
 今そいつを支えている、血に染まった傘をじっと見おろす。
 たぶん生きてきた世界は全然ちがうのに、そこにはおなじ夜明け前の空気が、これからまた一日がはじまってくための、痛いぐらいに澄み切った空気が、ひとしく落ちていた。




ヒズ・ヘヴ

1.イプ   2.グーン   3.イバー   4.マジン   5.トロボ