1.イプ

 だれも届かない高い場所に立っていると、からっぽになれる。
 そうやってどっかのビルを外側から隅々まで磨くガラスに、今日も朝焼けが映される。ここには遮るものが何もないから、ただただ眩しくこちらを突き刺してくるそれは、おもわず跳ねかえしたくなるような痛さだった。すぼめた瞳から受けとめきれないひかりが、はみだす。こうして毎日毎日どこぞのビルを磨いては朝日を浴びるうち、淡々と日々は過ぎ、わかったのは飛行機がどこから飛んでくるかぐらいのもので、湿った洗濯物を畳みながらいつも見あげていた遠くのあれが、ここでは少しだけ近い。
 ゴンドラがゆれる。いっしゅん遠近感のなくした瞳がぶれた。そのうえを飛行機がとおっていって、見あげた空に責められてるような体勢でちょっとのあいだ立っていた。いつだって生活は、すこしの風でゴンドラがゆれるごとく不安定で、油断すれば瞬く間に足元から攫われてしまう。
「また痩せたんじゃないですか」
 箸の先にひっかかったネギを映していた目をもちあげ、すこし伸びた前髪ごしに山崎を見る。流しに浸けたままの皿や、ゴミ袋に溜まったカップ麺・弁当のから箱などのあれらがふっとよぎって、そんな一瞬の間でも目ざとい山崎は、溜息をのせたカツをこちらのうつわに足してきた。いらねえ……、箸を置いて灰皿をひきよせる手に、山崎の視線が落ちてくる。
 一日に吸うタバコの本数が増えてきていた。仕事の合間に吸っていた一服のそれとはちがってもっと投げやりで何も考えたくないときの、あたまをからっぽにするための喫煙。沈黙のままにそれを責めてくる目とは合わせぬようにして何もないところに焦点を置きながら、それでもじわじわと入ってくる山崎に、こいつはこんなツラだったか、と、ふいにそんなこと。眉と目と鼻と口。それぐらいしかないのにどうやって人は人を見分けているのか。そんな散漫な思考のなかに何故か急に、点滅するものがあって、それは血と銀髪、いっしゅんだけ合った空洞の目、俺が捨てたはずの傘をもってた……
「土方さん。あんたが戻ってこられるように俺は動きますから。だからタバコ吸う合間に味噌汁すするとか、そういう腑抜けたことせんでください」
 前屈みになっていたのをまた背凭れに預けて、二秒ほど山崎のことばを脳に溶かしてから、味噌汁の椀から手を離す。店のまえで立ちどまって品書を見てるカップル、その女のほうから垂れたマフラーが日なたに毛羽だって、真昼の空気。
 ……こいつ今、腑抜けって言ったか。
「だれが腑抜けだ、だれが。テメェこそこんなとこで俺にカツ譲ってる場合か、たいして余裕もねえくせに。お前が勝手に何しようが俺はもう戻らねえし、それに……、味噌汁にタバコは合うんだよ」
 箸先を衣のぶあついカツに伸ばす。陽射しの角度が変わったのか、店内にまで伸びてきた光のすじが至るところで反射して、ちかちかと瞬く。山崎の薬指で光るそれも、ふせた瞼ごしに瞳を射してきて、直視しづらい。齧りそこねたカツが箸のあいだから味噌汁へと落ちてった。ちゃぽん。



 ホームに滑りこんできた電車からおなじ色の制服があふれてきて、期末……いや終業式か、なんてことを年寄りくさく振り返りながら乗りこんだ車内はぬくい。閉まった扉にもたれかかり、そこに映る自分と、それにだぶっていく景色を瞳にながしていた。腕時計では夕方に差しかかっていたが、このあたりはビルが多くて空が途切れる。看板のあいだから見え隠れする夕日を追いかけてるうちに汗ばんできた首すじからマフラーを取ったところで、降りる駅のアナウンスがかかった。

「は?並べばいいでしょうが。そんなことでいちいちかけてこねえでくだせェよ、今、手ェ離せないんで」
 駅前のケンタの、外までつづく行列に辟易しながら電話をかけた相手は、さも鬱陶しげにそう言ってのけた。その声に混じって微かに聞こえてきたマリオのジャンプ音にイラっとくる。……おいコイツ、ぬくぬくとした部屋でゲームしてるっつうのが丸わかりだよ。
「んなに食いてえならテメェで並べ」
 いちおう列をたどりながら懐から抜きとったタバコを口に挟んだ瞬間に、何人かからの痛い視線が刺さった。なんでこんなに喫煙者にきびしい時代になっちまったのか。
「いや、べつにそんな食いたかないですが。こんな日にひとりもんの土方さんがさみしくチキン買うためだけに並んでんのが爆笑ってだけで」
「ふっざけんなよテメェ!!だれが並ぶか!!」
 その電話で、最後尾を探すのをやめてさっさとUターンでひきかえしてやった。そうして苛々とひきかえしながら延々ブレてつづく人のあたまにケチつけたくなってたら、一箇所すきまのあいているところがあったので、そこを見た。そうしたのは本当になんとなくの、牛が同じところで右を向くのと同じくらいのアレにすぎなかったのに、そういうものがあとから人生に響いてきたりするから、一瞬の引力は重い。この一瞬もそうだった。通り過ぎてくはずの足はそのままそこにとどまった。
 人と人とのあいだにヤンキー座りしてる銀髪。
 を瞳に映したまま、早歩きのせいで切れてた息がこぼれる。
 そのとき進みはじめた列にうしろから促されて「あー、すんません」、ふらり立ちあがったそいつの声は、あのとき鼓膜を震わせたのと同じのに違いなく、「おーい土方さん、聞いてます?買ってこなかったら、こないだやってた『2001年宇宙の旅』の録画消しますよ。wowwow契約してねェ!ってアンタが嘆いてたやつ」、耳に当てていた携帯をすっと降ろす、その腕が異様に重い。
 赤の他人を凝視してどうなるものでもないのにその銀髪から逸らせずにいた。チキンを買うためだけに虫のように寄せ集まってきた人間の行列にそいつは混じり、細長い影を、通りに伸ばしている。それを踏んでいる自身の靴底が、まるでそこに縫いつけられたかのようだった。よくわからない夕方の引力も働いている。そうだ、今日はやけに夕日が落ちていくのが遅い。電車から見えた夕の残滓が、まだ溶けきらずに、あたりに蔓延っている。あの銀髪も他と違わず、この夕日のかすに飲まれていた。それを背後からバカみたいに見ていた。
 邪魔そうに避けていく他人にぶつかられてはじめて、ようやくこの場にいることの無意味さに気づく。ついこないだまで、一秒だって無駄を生きたくなかった人生なのに。
 ……なかば剥ぎとるように靴をうしろへ引いた。
 そうして別の道へ踏みだしかけたそのとき、それはいたって突然に、なんの前触れもなく。
 ……振り向かれた。
 ……え。
 一歩ひいた靴底はそれでもまだそいつの影から抜けだせず。
「ん?お前……」
 そして間違いなくこちらをとらえてきたあの気だるげな目が、徐々に傾いていくそいつの首が、なにかのシーンに似てて、なんだったか、えーと、とりあえず『2001年宇宙の旅』ではねーよな。
「……あ。えっとアレだ、多串くんだろ」
 多串くんでもない。
 って……、これはもしかしなくとも話しかけられてたりすんのか。
「あー、あのときは悪かったな。いやー、でも、うん。残念なことに今すっからかんでさァ、返せるもんが何も……あ、ここ並ぶ?チキン買うんだろ。入れてやってもいいけど」
 まさか、覚えている?
「えーと多串くんはなんか、なんかの同級生だったか」
 なんかのって何だよ。ちげーよ。
「それともあんときのアレ、ダーツの的にされてた……多串くんか」
 ……不憫すぎるぞ多串。

 つまり、この男はいろんなところで色んなやつに何かを借りながら生きてるらしい借金だらけのクズ野郎で、それなのにこのだれにでも使ってそうな適当さにまんまと乗っかって行列に加わってしまった自分が史上最強のバカなのだった。この冬、二度目の失態。行列のそばを横切っていく幾つものスーツを目で追いかける。いまや、あれらとは別次元の人間に成り果てた。
「たかがチキンのためにこの行列とはイカれてるぜ」
「俺達もそのイカれたお仲間だけどな」
「俺のは命に関わる。三十分以内に買って帰らねェと指の一、二本もってかれちまう」
「……どんな世界に生きてんだ」
「まーそれは冗談だけど。でも女にキレられんのは確かだな」
 まるで十年来の腐れ縁みたいな、気安い会話を交わしてしまっていた。すこしずつ進むチキンの列にあわせて踏みだしたそいつの足元はきょうはサンダルではない。ほどけたスニーカーのひもを指摘したらすぐさましゃがみこむ、そのやわらかそうな銀糸を見おろした。見た目にもかじかんでいるとわかる、ところどころ皮がめくれて赤身が剥きだしの痛々しい指先が、ひもをきゅっと結ぶ。立ちあがる支えとしてごく自然に掴まれた腕。布越しに筋肉がかすかに動くのがわかった。
「あー……思いだした」
 そいつから冬の白さでこぼれてくる呼吸を目のはしにとどめながら、近くなるチキンの匂いを鼻腔に溜める。ポケットのなかで擦り合わせていた指先に、ICカードの角が刺さって痛い。
「悪ィ、ちょっと用事」
「は?もう順番くんぞ」
「うん、だから買っといて俺のも。これ金な、30本でよろしく」
「さ、30本?、どんだけ油ギッシュな女だよ……、ってオイ」
 あっというまに駅の喧騒にまぎれこんで見えなくなった銀髪を、それからおよそ十分後、あほみたいな量のチキンの袋を両手にぶらさげながらぼけっと待っていた。そもそも赤の他人、それなのに奇妙な距離の詰め方で、はじめからなんでか素が漏れまくってる。戻ってくるかもわからないのに苦でもない。他人の視線がどうでもよくなって気づいたらタバコにも火をつけてるし、膝にあたるチキンのぬくさに食欲もそそられてきた。噴水の飛沫を見ながら、あれに飛びこみたくなる夏の衝動にちょっと思い馳せたり。夏はまだスーツを身に纏ってて、アイロンのかけたシャツを汗のにおいでいっぱいにしていた。腕時計を巻いていた手首には、そこだけ日焼けしなかった痕がまだちょっと残ってて、それは、ひたすら分刻みで時間と戦っていたそのころの名残りだ。行列に並ぶのも、こうして立ちどまってだれかを待つのも、とっくに自分のなかから失われた概念だった。こないだ定食屋で感じた真昼の空気といい、今、夕日が落ちきって、そこらじゅうの建物から滲みだす灯りといい、……冬でも世界はきちんと眩しかった。
 それからさらに五分ほど待って、ひょうひょうと戻ってきたそいつは、さっきまではなかった傘をぶらさげてた。噴水の向こうから近づいてくるそいつの輪郭が、じんわりぼやける。タバコを咥えたまま、また映画でも見るような目つきでそれを眺めてた。まばたきしたら、もう目の前にいて、もってる傘をこちらの手首にかけるかわりにチキンの袋をそこから抜き取っていく。
「こんなんしかなかったけど。そこのホームセンターで398円」
 ぶらさがってゆれてるビニール傘の、ピンクのイチゴ柄を見おろす。
「……何だこれ」
「いや、思いだしたからよ。アレだろお前、あんときゴミ捨てにきてたヤツだろ?……まァ俺にも色々あって。そのちょっと前に、お前んちのゴミから傘パク……拝借したんで一応」
「……あれは俺のじゃねえよ。うちはマンションだから」
「そうなの?まァどっちでもいーけど。傘なら使えんだろ」
「使えねーだろ!なんで女物だ」
「捨ててあったのがそうだったから。武器にしちまったけど」
「はァ、ゴミ返すやつがいるかよ」
 あーーー、無性に笑えてきた。
 あの傘は、うちに彼女が置き忘れていったものだった。やっとの思いで捨てたところへ、こんなふうにべつのかたちになって返ってくるなんて人生とはつくづく思うようにいかない。






 玄関先でその傘を見ながら、
 「あと五分遅かったら待ちくたびれて2001年の宇宙の旅ごとアンタの命も消すとこでしたけど、雨も降ってねえのにそんなファンシーな傘もちあるいてる土方さんの病んだこころに免じて許してあげますよ、なんかもう色々かわいそうすぎるんで」
 と、それこそ死んだチキンを見おろす目で迎え入れた沖田はなんだかんだ一緒に映画をみてくれたあと、油まみれのくちびるを人の袖でぬぐいながら今度は『クリスマスの約束』にチャンネルを切り替えた。55インチから響いてくるラブソングでチキンをひきちぎる。昔からこいつのこういうところはいっそ清清しいほどで、こんな調子で歳を重ねてきた俺たちは、いわゆる世間でいうところの恋人たちのイベントにはなんでか一緒にいたりするからゲロ吐きそう。ちょっとチキン食いすぎた。
「土方さんみたいな人は、音痴ですよね」
「みたいな人はってなんだよ。少なくともテメェの前では十年は歌ってねえ」
「じゃあ今、歌ってみてくださいよ。ほら小田和正に合わせて」
 そんなくだらないやりとりをしてる輪郭が、湿気の窓に滲み、濡れたしずくとなって垂れていく。ソファから投げだした裸足のかかとで、ローテーブルにこぼれてるビールの泡をつつつと伸ばした。部屋のあかりを吸いとったように反射するコップのふち、そこに映しだされた沖田のあくびが伝染する。……時々、窓のガラスやコップのふち、そういうものを通して見た沖田のすがたに内臓のどこかが軋むときがあって、それはあの沖田を知っているからだとわかってはいた。彼女ごしに見る、あの沖田を。
「総悟。寝るなら布団、」
 と云いかけた口をつぐみ、終盤に差し掛かかり湿っぽさの増してきた『クリスマスの約束』の音量を徐々にさげていく。テレビを消したら消したで目の覚める厄介なやつなので。




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「お、年明けましたよ土方さん。ハッピーニューイヤー」
 そんな棒読みで耳の穴にイヤフォン突っ込まれてもこちらはとってもアンハッピーニューイヤーですテメェのせいで。晦日から風邪で寝込んでいるところにうるさい来訪者がやってきて「鐘つき行きやすぜ。ほら」と叩き起こされた挙句ほぼパジャマにコートとマフラーだけ着けた状態で、押しこまれて乗りこんだエレベーターでの会話:「……さみい死ぬ」「鐘つきにいったら生き返りますよ」「その鐘を撞きにいくことで死ぬ」「じゃあ毎年鐘を撞きにいくことで払われてる土方さんの厄はどうなるんですか、それこそ死が待ってやすぜ」「ん……んん?」「来年も健やかに生きるためには今すぐ死を選んだほうがマシでしょう」「……うん??」、というかんじでチキンの行列にひきつづき今度は鐘つき待ちの行列におとなしく並んでいるわけで、そうして待たされてるあいだにハッピーニューイヤーだった。めでたさゼロ。
 さっきから一定の間隔で聴こえてくる地鳴りみたいなあれは果たして?と朦朧と考えていたら自分の撞く番がやってきて「はいチーズ」と沖田に棒読みでシャッター切られたのと同時に撞いた鐘の音が、まさしく地鳴りの正体だった。毎年撞いてんのに忘れるもんだなと思っているところへ、小学生しかもらえないはずの菓子を渡されてとりあえず反射的に受け取れば、その階段を降りる途中で、
「ラッキーをラッキーとわかってないのはそれこそが一種の幸運ですよ」
 というようなことを耳打ちされて危うく踏み外しかけた。舌打ちで振り返れば、火の粉まじりの風に吹かれて縮まる沖田の瞳の、わずかに揺らすその陰影に見おろされ、皮膚がチリチリした。

 初詣に向かう組に逆らうように辿り着いた駅で、「じゃあお大事に」、ここで徒歩の沖田とはあっけなく別れ、ふらふら這うように地下への階段をおりていく。この疲れはなにも風邪のせいだけじゃなく年明けの熱にあてられたのもあり、来るべき新年に感謝するのは朝まで動いてくれるダイヤぐらいのものだった。初詣ラッシュは過ぎたのか無人のホームのベンチにひとり座ってる景色、そこで点滅してる自販機で酒のひとつでも買って飲みたいところだが立ちあがる気力はすでに失われてしまった。残すところ、電車に乗り込む力のみ。……何やってんだこんなとこで、という、いつでも誰もがぶつかりうる疑問をじわじわ閉じて。静寂という耳鳴りをやり過ごして。
『……まもなく1番線に電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側までお待ちください』
 ずり落ちてた意識をそのアナウンスで浮きあがらせたものの、ほんとうはこのまま見送ってしまいたい。うちの柔らかなベッドよりも固くて冷たい駅のベンチのが寝心地いいってどういうことだ。それでもなんとか持てる力を振り絞ってベンチから離した身体は、つよい光とともに滑りこんできた電車でよろめきかけた。まばたきの狭間。車体のオレンジの線が吹き流れていく風。
 座ってしまえばもう立ちあがれる気がしないので扉付近の手すりを握りしめ、発車アナウンスを混濁する意識のふちで聞いていた。……そのとき。そこに微かに入り混じってきたものは、はじめ幻聴か何かかと思った。しかしあまりにどんどん耳のなかで膨れあがってくるので、閉じきっていた目蓋を今いちど開けたならじんわり這入ってくる薄明るいホーム。
 そこでひときわ、それはもう身体の芯から目覚めるほどの怒声が耳をつんざいた。
 そのなかに聞いたことのあるものが混じっている、そんな気がして声のもとを辿った階段のほう。そこから男たちがもみくちゃになって飛び出してきたのと、発車ベルが鳴りひびいたのはほぼ同時で。
 ……あの目と合ったら、理性より先に身体が動いてしまう。
 汗がひどいことになっているのにもかまわず、ほとんど発作的にこの手を伸ばす。
 男たちを振り切って走ってくる銀髪がコマ送りに、だんだんと近づいて。その汗の粒、向こうからも伸ばされる手。それらを秒刻みに切りとりながら指先にふれた感触をおもいきり引きよせ、閉まりゆくドアの内側に取りこむ。服のすそが挟まりかけたのにひやっとしたもののギリギリ閉じたドアの向こう、「待てコラ」という声が遠ざかるホームを置いて、車両は電光石火のごとく暗がりへと潜りこんでいった。
 ……ホラーかよ。いや、任侠ものか。
 ガラスについた手形にそんな感想をもらしながらずるっとしゃがみこむ。
 やべえ、めまいがする。
 ぐじゃぐじゃと溶けてるような車内の揺れをほんの数秒だけ遮断して、またうっすら取りこもうとしたら誰かに覗きこまれていた。
「おおい大丈夫か」
 ……あの声だった。
「助かった。……えっと。多串くんだっけ」
 間近から見つめてくるその目を、朦朧と見返した。くちびるのはしっこにある赤黒い塊。繋いだままの手が血まみれで、離したいのに逆に力をこめてしまう。
「多串じゃねェ」
「あ?」
「……土方」

 そこからの記憶はあまり現実味がなく、ただブランコのような揺れ方でつり革がずっと瞳の中心にあったのと、熱があるときのよくわからない饒舌さでもって惰性のように続けられる会話が奇妙に心地よかったこと。いくつかの少し踏みこんだ質問に答えたあと、「……問題ねえな」、ぼそり呟かれた言葉の意味もわからないうちに、「……うち来る?看病してやろうか」と、耳元で囁かれたから「うちなんてあったのかお前」と駄々もれた正直を窘められたりして揺れるつり革がブランコのようだとそんなことを思って。手首に浮いた静脈を辿っているのは、たぶん男の指先だった。その普通じゃない気配に、男から向けられる色のついた視線に、職場で辱められた夏とダブらせながら。腕をひかれるままに電車をおりる。承知したうえで自らのぼる駅の階段が、目のさきで歪んだ。血のついた袖から覗く、男の手首に巻かれたミサンガがぶれる。紫に編みこまれたそれはかなり色褪せていて、こいつにも辿ってきた過去があるんだなという当たり前にミサンガがぶれる階段を、一段一段のぼっていった。
 そこに着くまでにマフラーが三回垂れてきたこととコンビニが二軒あったこととろくに人とすれ違わなかったことは覚えていて、ただただ男の引力にひっぱられ足を前へ前へと運んでいるうちに今度は、思ってたよりもまともなアパートの外階段をのぼっていた。先をいく銀髪を見あげながら、なんとなく天国への階段みてえだと思った。口もとに笑みがにじむ。
 ……手前からふたつめの部屋。
 見あげたネームプレートは透明のまま何も記されていない。
 「イテッ」と静電気にひっこめられた手によってその部屋のドアノブは回される。引きかえすならここが最後、だとわかった。それなのに、この手を引き剥がす理由が見つからない。そうしてる間にそこへと踏み入っている両足は駅をでたときからずっと浮ついて、まっすぐ立てているのかも危うかった。閉じゆくドアとともに影になっていく男の表情がなんとなく笑ってるようにも泣いているように見えて。背中で、引き返す道が完全に閉ざされる音。玄関先、足元だけを切りとってる淡いひかりは月光?……そこから目の前の男へと移っていく眼球に、まためまいが押し寄せた。
「……すげえ熱」
 伸びてきた指先に耳の軟骨を這うようになぞられて、駆け抜けてった感覚がくちびるのあわいから生ぬるくこぼれおちる。鼻が擦れ合うくらいの近さに他人がいるのはずっと忘れていた感覚で、どこに意識をもっていけばいいのかわからない。暗がりから感じる眼差しをどう受けとめたらいいのか。
「さっ、きから頭ン中にレッド・ツェッペリンが、」
 そうして唐突にくちびるは塞がれた。
 なんでもいいからなにかと紡いだのがなんでレッド・ツェッペリンなんだろうか。
 無防備にひらいていたそこだったから、いとも簡単にもぐりこまれてガムを噛んだときのような粘っこい音がくちゃりとこもる。口のなかにひろがる血の味に、喉仏がくだった。ひっこめかけた舌を吸いとってくる荒々しさがどこまでも男くさくて、こんなことはタバコを吸うのと変わらねえ、口さみしいのを満たすだけ、と、すぐさまそんな暗示をかけて思考を鈍らせていったのは、そうしたほうが楽だからだ。惜しくもなんともないものを護る必要がないだけ。
 ……そんななか点滅する、階段が。
 ここまでのぼってきた。アレが、天国への階段みてえだって、そう思ったからこそ再生したレッドツェッペリンだ。口の中を這い回る舌の動きにだんだんと溶かされて狂ってくる音符がまともを遠ざけていく。息継ぎのときに漏れでてしまう声にたまらず、つまさきが伸びた。そういえば、まだ靴も脱いでいない。部屋のなかも、どんなか知らない。
 ンン、は、あ。最後に上顎に擦りつけるように抜けでていった舌先から、ひいていく透明の糸に徐々に熱がおりていくのを感じた。そのとき口のなかに痺れるような違和感があって、なにかの塊がはりついたみたいなそれに舌をあててみてるこちらのくちびるを、男のおやゆびがなぞる。
「あー溶けきらなかったか」
「……んだこれ」
「風邪薬みてえなもん。飲まずに舐めろよ?」


 女いねーってことはご無沙汰?とDVDの音量をあげながらまるで料理の準備でもしてるみたいにのんきに人の体内を掻き混ぜる。休日に映画を見るのと変わらない、そういうたやすさで進められていく前戯はたしかに男相手へのそれだった。実際に要りもしない映画が再生されてるのは「ちっとは気ィ紛れるかと思って」。まったくそんなことはなかったし、みっともなく漏れてしまう自分の声を掻き消すには音が足りない映画だった。今度はレッドツェッペリンじゃなくボブディラン。ここでも天国。
「っ、……ん、っあ」
「まだ痛ぇ?指足して平気」
「……っは、ちょ、まて」
「いけそうだけどな、こっちは」
 動きをとめられるとかえって意識してしまうそこが男のゆびを咥えこんだまま収縮するのが居た堪れない。浅いところへひいていったゆびの横からチューブをむりやり差しこまれ、とめるよりも身構えるよりも早く押し寄せてきた冷たさに声が上擦る。残りすべてを絞って空になったそれを抜きとってすぐ、足された指がぎちぎちと這入ってきて裂けてしまいそうだ。痛みをやわらげるように鳴っている映画音楽にあわして耳のふちを噛まれる。逃げそうになる腰をひきもどされて擦れた皮膚のどこかがたぶん皮剥けた。中をひろげるような指の動きからは次第に遠慮が剥がれおち、これまでの肉体を解剖されてまったく別のものに塗り替えられてくような、そんなえぐり方でもって。ひっかくように出ていってはまた突きこまれる指のはらが、あとちょっとでなにかとんでもないところに触れてくるような気がして、怖かった。今さら、なんでこんなことになっているのか、どういういきさつでこんなことをしているのか、こいつはいったい誰なのか。何も知らないのにわからないのに気づけばここへとつづく階段をのぼってきてしまった。
「ほら映画みろ。カフェから逃げるシーン」
 そんなもの見る余裕があるか。なんて言葉はもちろん紡げない。
 そこに触れたくてたまらないのをまとめて拘束されている手首がつらい。耳の穴に埋められた舌によってぴちゃぴちゃと鼓膜が泳いでいる。プールの水面に浮きあがったりまた沈められたりの音に似ていて、それは呼吸のし辛さでいっても。首を絞められているわけでもないのになんでうまく空気を吸えない。まるで生命線を握られてるみたいだ。溶けた熱がぼたぼたと床を濡らしていく。わざとらしく膨らみのそばを押しこむ指のかたちに激しく乱されて、ねだるような声がのびた。
「……はは…、どっかイっちまいそう」
 床が波打つ。
 この声は、はじめて耳にしたときからどこか狂っていた。
 ようやく解放された手首とともにずるりと指が抜けていく。さんざん塗りこめられたおかげで湿りをおびたそこになぞるように押し当てられる熱の塊を、男として嫌というほど知っていた。緊張がゆびさきに伝って床をひっかき、そこにつけたままの膝がぬるりと滑る。はー…はー…、と獣のうめきのようなものは自分がだしてるはずなのにどこか遠い。触れあっているそこがいやらしい音をたてたのにわずかに息を飲んだとき、腰をつかむ手に力がこめられたのがわかった。
「ッあ!!」
 声をだすまいと噛みしめていたくちびるは、その衝撃によってこじあけられた。押しだしそうになる動きに逆らってずぶずぶと進んでくる。少しずつ確実に飲みこんでいく。息の仕方を忘れてひゅうひゅうと鳴る喉仏を外がわから撫でられ、「おいおい俺のも息できねーから」とあの声で耳の穴に吹きこまれた。それで喘ぐように吐きだしたらもっと挿入りこまれ、ひ、と上擦る。かけられた言葉のせいでよりいっそう体内にある自分のとは違う脈打ちを意識してしまい、改めて繋がっているのだと感じたそれは泣きたいときのそれに似ていた。わけのわからない情感が吹きでてくる。体重を支えている手首が限界を迎えて崩れかけたとき、腹にまわされた筋肉の腕にひきもどされて落とされる。
「んあっ、は……っ」
 入りこんできた深くまで。触れてはならないところまで。よりいっそう、えぐるように。そこから駆け抜けてったものをとても受けとめきれない身体がびくびくと痙攣するのを抑えられない。この感覚の正体がなんなのかも。引き裂かれたみたいな痛さだった。でもそれは物理的な痛みとは違う、もっと奥のほうから、自分でも覗かないようなそんな場所から、かなしくこみあげてくるような、
「っは……、動くぞ」
「む…っりだ痛ェ……ッ」
「…あー……お前さ、麻酔とか効きにくいほう?」
 うまく飲みこめない言葉をなんとか噛み砕く。ああやっぱりさっき舐めさせられたのはそういうやつか。動かずにただじっと埋まっているだけのそれが少しずつ馴染んでくるまで。
 じわりと濡れた視界では、ゆらゆらと映画がつづいていた。
 もうすぐ果てるふたりはそこへ向けて旅をする。
 天国で仲間はずれにされないために、見たことのない海を目指して。
 ……「苦しくていいの。何もないよりかはずっと」
 そのとき意識のふちに彼女を浮かべたのは刹那のことで、つぎの瞬間には前のほうに伸びてきた手にひきもどされた。触れることのゆるされなかったそこを握られ、さんざん焦らされた果てにもたらされた刺激は強烈過ぎた。滅茶苦茶にぶれた字幕がひゅっと線でながれる。
「うあ、っあ……ッ」
「ん、…、ちょい腰浮かせ」
「っなん、」
「んで、落とす……っ、」
「ま……っ、……うあぁッはっ、ああ……ッ」
 それから絶え間なく俺のなかを出入りしはじめた男は、そこに伝う汗の一粒だって逃してはくれなくて、うなじごと吸いあげられて。剥がそうとしてもまったく引かない手のひらに、同じリズムで扱かれつづけて。だんだんと意識が霞みがかってきた。ふっと何かが遠のいてはまた倍になって打ち寄せる波。
 あ、あッ、ああッ……!
 ナカを擦られるたび声帯がひくつく。
「う、あ…ッ、……っ……ッ」
「…っすげ、締め…つけ」
 すべてを暴かれた身体は脆かった。気づかぬうちに、触れてほしいところへ自ら落ちはじめている。角度を変えながら滅茶苦茶に腰をふっている。うなじにかかる男の呼吸も徐々に乱れて、奥深くまで挿入りこむ音が拍手のごとく耳朶を打ち、聞くに堪えないほど小刻みになっていった。
「んああ…っ、あ…ッも、…っ、」
 最奥を穿たれたながら先走っているところへ爪をたてられ、それが中でひとつにつながった刹那、どこからきてるのかもわからないほどの荒波があらゆる臓器を駆けのぼっていった。
「ぁ…ッ!ッ、ッ…!…イ……ッ!んん…っ、」
「…っ、く、」
 爪先まではりつめる、痛いぐらいの絶頂がごぷりと溢れだす。そこを塞いでいる男の爪を押しのけるようにこぼれてくる精液はとめどなくて、それに呼応するように震えてる体内の存在も達したようでさらに数度打ちこまれる。荒い呼吸音のなかに時々混じる呻きが、耳にこもった。
「…は…あ、重…」
 互いに出しきったあと、全体重を預けていた男の身体がとつぜん傾いてバカみたいにゆっくり反転していく部屋。ぐえっ、とカエルの潰れたようなのが聞こえたが、もう一ミリも残っていない体力では起きあがれず、男ふたり仰向けに重なったままハアハアと。なにもない一点をじっと見あげながら、もし今きゅうに地震がきたりして崩落する天井に潰されたりなんかしたら最悪な死に方だなと薄っすら。
 ……目を開けているのが困難になってきた。
 どちらのものかわからなかった鼓動が、次第に落ち着いてくるにつれて別々に打ちはじめるのを。背中越しに感じる心臓を。どうしようもなく無意味で、かなしい音として聴いていた。




/

 土曜日の昼過ぎにまたもや着信が入る。
 午前の窓拭きを終え、休憩中の広場にて五百円の弁当をつっついてるときに胸ポケットで震えだした。一応たしかめてからベンチに置いたそれを横目に、味噌汁のカップに口をつける。ぬるくなったワカメを舌で巻きとりつつ、考えたのはイタズラの可能性。携帯をよく紛失する沖田の可能性。他にも色々。そしてそのどれもが違うという予感がある。だからこそ昨日から再三の着信をとるべきかどうか考えあぐねていたが、ベンチのうえで小刻みに動いているそれに結局は手を伸ばす自分がいた。
「……はい」




 ……たしかここのコンビニの角を曲がるはず。
 おなじ道でも昼と夜ではおおいに違うから記憶なんて頼りにならないし、あの日は熱がでてたうえに二度目の可能性なんて考えなかった。さらに駅を降りたら大雪ときてる。時間が逆行したかのように降るそのなかをフードをかぶって進みながら、ひとつき前に通ったはずの景色と重ねるように。うちと二駅しか違わないのに、眼球を巡らせた住宅棟はところどころ寂れたかんじのする。吐息と煙を交互にしろく吐きだしては目の前が曇る光景は、ただしく冬の季節だった。時々タバコを握る手を左右で変えて、冷たくかじかんだのをポケットで緩和する。あっても意味のなさそうな信号のところでこれまた意味もなく振りかえると、自分のつけてきた足跡がここまでずっと続いていて、すうっと目を眇めた。

 踏切の記憶が全然ないのが可笑しい。
 道を間違えたかと疑いながらも遮断棒が降りてなかったためそのまま渡ってしまえば、その先に、見たことのあるようなないような入り組んだ分かれ道。大体においてこういうとき迷って道をひきかえせばあともうちょっとで目的地だったという教訓があるので、勘だけを頼りに右を覗きこむとあっけなく見つかった。電柱の影に見え隠れするその見覚えのあるアパートを瞳の中心に置きながら、タバコはそこで捨てて靴底で揉み消す。あの日とおなじ速度でゆっくりと近づいた外階段、その雪に埋もれた一段目に足をかけてジっと見あげた。フードが外れる。鉄骨の階段はどうしてこう響くのか。
 ……手前からふたつめの部屋のそこに、やっぱり名前は入っていない。
 どこにも呼び鈴が見あたらなかったので気分的にドアを蹴った。
 雪に吸いとられてるのかなんなのか、あまりに静けさが過ぎると逆にだれかが息を潜めてそこかしらに居るような気がしてくるから居心地が悪い。足元の剥げたモルタルをただ見おろしていたところに、それから程なくして開けられたドアのすきまからの影が落ちる。ゆるりと目線をあげたら、ひとつきぶりに見るその顔。そこに、また新たな傷ができていた。左頬に、ナイフでひっかかれたような切り傷。
「よお。迷わず来れたか」
 それには返さずに、ドアを支えてるそいつの肘に目を落としながら「なんで番号知ってる」と電話でも聞いたことを繰りかえした。鼻から吸いこんだ空気がひやりと肺を満たす。
「お前が寝てるあいだに携帯見た」
 悪びれた様子もなくそう言い放った目と目を合わして二秒ほど。わずかに動かした靴底の雪がきゅ、っと鳴いた。ありえないほど寒いのにポケットのなかの手はじっとり汗ばんでいる。
「入れば」
 ドアに凭れるように首を傾けている男の目から逃れるように、無意味にだれもいない廊下のほうへと視線をすべらしてみても、完全に視界から外すことはできず、
「用ってなんだ」
「さみい。入ってきてんだよ雪」
 有無を言わさずかぶさってきたそれが直後に残していく余韻で、ことばも詰まる。やっぱりだれもいない廊下とそこに吹きつける粉雪がひかりもないのに眩しくて、ここでの情景がまたひとつ勝手に刻まれた。そこからゆっくりと男へと戻した瞳はすこしの眩さを含んでいたにもかかわらず、目の前の影に射抜かれてひどい落差だった。思考するよりもはやく諦めた身体がそこへと傾く。一歩ひいて部屋のなかへと迎え入れる男への警戒心は解くことなく。

 靴を脱ぐつもりはなかったのに、さっさと部屋の奥へと入ってく裸足にそれも諦めざるをえなかった。雪とはいっても午前中のあかるさに助けられてる部屋は、こないだとは幾分ちがう。最後まで部屋のあかりを点けられなかったのが唯一の救いだったのに今日は、と考えてる自分にどうにかなりそうだった。ローテーブルに手をつきながら膝立ちで座るのを見て、足にも傷を負ってるらしいと悟る。かなりの体重をかけられたそれが振動して、そこに置かれた鍋の中身が波打つのをじっと見おろす。
「あー伸びてら」
 鍋から直接ラーメンを啜りはじめ、「座ったら。落ち着かねんだけど」と見あげてくる目。しかたなく、なるべく遠い斜向かいに腰をおろす。こないだ映画を映してたテレビ以外にはあまり見るもののない殺風景な部屋のなか、はらはら雪の落ちるベランダに目を据えた。狭すぎるそこに置かれた洗濯機の古さが目立つ。ずるると啜られては汁をのむ音がすぐそばにあって、ベランダに溶けてく雪はぼたんに成りつつあった。目のはしでぼやけてる存在が、今なにを考えているのか。見られている気がして、ベランダから眼球を動かせない。
「……靴下なしで寒くねえのか」
 凍りつきそうなベランダを見ていたら、そんなことが口から滑りでた。
 啜る音がやんで、「あ?靴下?」と麺を口にいれたまま喋ってるらしい滑舌の悪いのがすぐに返されたあと、勢いよく咽はじめたので思わず見たら、メンマを吐いてる。汚ぇ。
「んん、ゲホ、ぐ、…っ」
「……なに笑ってんだテメェ」
「ふ、いやお前、ようやく捻りだした話題がそれなわけ」
 かすかによわまった目尻で見られて、再びまともに頬の傷を直視することになった。笑ったことでひっぱられたその傷を二秒と見ていられずに、用がねえなら帰るぞとだけ云って。「あるから呼んだんだろ」、そこから背けた目に今度は床についた傷が入りこんできた。「じゃあ早く言え」、その、爪で引っ掻いたような痕をみて、矢継ぎ早によみがえってくるここでの、生々しい行為が。
「セックス」
「帰る」
 立ちあがった勢いのまま歩きだそうとした足に、男によって蹴り飛ばされたテーブルの角がおもいきり当たって走る痛みにしゃがみこむ。その一瞬に詰め寄られた距離はあっというまで、つよい力で薙ぎ倒されて反転する部屋がこないだより倍速で過ぎた。至るところをぶつけた痛みが口よりこぼれでて、それがおさまるよりもさきにブルゾンのジッパーを勢いよくさげられインナーのなかまで入ってこようとする手の感触に、背中で床を擦った。見おろしてくる暗い目から逃れるように腕で押し返す。
「……っやめろ」
「なんで。こないだよかったろ」
 あくまで冷静に降ってきたそれが雪よりもつめたく胸に沁みていく。テーブルの影、そこに少しずつ水滴が降ってくるのに目を彷徨わせた。さっきので、鍋が倒れたんだろうか。
「触んな」
 渇ききった喉から絞りだしたつぶやきには何の強みもない。かたちだけ拒むように捩ってみせてる首筋にそっと触れられ、ねこのそこを撫ぜるのに似た動きで辿られる。
「……っう、」
「ここに来ちまってる時点でそんな抵抗、なんの意味もねェんだよ」
 触れられているだけなのに絞められてるかのような窒息感が喉元を襲い、頬にかかる生温かい言葉の息に粟立ってく肌。さっきとは違う笑い声が落とされる。
「それともわざとか。ひどくされたくて」
「ちげ、っ……」
「喋んなよ。期待どおりにしてやっから」
 皮膚ごしに触れていた指にすこしの力をこめられ、それだけで喉はひゅうっと死にそうな音を漏らした。ぼやけた視界で、時たま落ちてくるラーメン色の粒だけが鮮やかだった。苦しさからその手を引き剥がそうとしても余計に力をこめられただけで、逆に、床に向いてたこちらの目をその力でもって引き剥がされた。焦点がひろがったり縮んだりするなかで強制的に合わされた目は確かに笑っているのに、また泣いてるようにも見えるからどうかしている。はじめて声をかけられたときもそうで、どこまでも渇いた暗さなのに、なんでかどうしようもなく、縋ってるようにも見えた。見えて、しまった。
「ん、ぐ……っ」
 或いはあのとき、縋りたかったのは自分のほうかもしれない。
 喉元を絞められたまま荒々しく口づけられるなかでそう思う。押しあげられた舌を音たてて吸われ、呼吸ができないぎりぎりのところで力をよわめられるその繰り返しに。
「っは、タバコくせ……」
 息継ぎの合間に漏らされた言葉に、口のはしからこぼれていく唾液を感じた。






 どのくらいの時が過ぎたのかわからない部屋で、雪の降りしきる窓をぼんやりと見あげている。こいつにとってセックスは、かりそめの快楽のためだけにあるものでそれ以上の意味なんてないのだということ。「朝のラーメン完全に消化したなこれ」なんてこぼしながらコンドームを括ってる男の、うすあかるい横顔を透過して降る雪。ふいに伸びてきた指先に顔についた精液をぬぐわれたあと、そのままそれはくちびるまで降りてきて、「噛みすぎて皮べろんべろんじゃねえか」、と云われた。その手を払って「舐めてりゃ治る」と背ける顔はどこまでも無表情であったし、すでにそれについて興味が失せたらしい男の顔もたぶん微塵も情など浮かべていない。冷蔵庫の中を覗きこみながら「なんっもねえ……」とぼやいてるのを横目に、タバコを咥えた。「おい、吸うなら外行け」、ライターを探ってるときに声がかかる。
「ヤニくせェの嫌いなんだよ俺は」
「じゃあ鼻栓でもしとけ。立つのがだりぃ」
「お前、急に態度悪くね?」
 そこで、そういえばこいつの腕にそういう火傷の痕がいくつもあったことを思いだして、火をひっこめた。そのまま腹ばいで床を進み、窓をスライドさせると同時に顔に吹きつけた冷たいのが思いのほか火照った身体にはきもちよかったので、まァいいと思う。咥えたフィルターが、うすあかく濡れていた。それで、ひりひりと痛むくちびるを擦るとそこにも同じのがついた。「さみいって」、そばに立った男の手によってまた窓を閉められたことで、喫煙欲も忘れて目を細める。ななめしたからの角度で見あげた。「こりゃ積もるな……」、雪をみてる男の目を。暴力に曝されてきた男の身体を。
「雪見だいふく食いたくなってきた」
「てめぇ、バカだろ」
「はー……セックスで食欲も満たしてくりゃあな」
「ラーメン啜ってただろうがテメェは」
「何。欲しかったわけ」
「いるか。……そういや最後に食ったの、いつだ」
「あー……早死にしそうだよな、お前って」
「テメェがな」