4.マジン

 いつだって想像するのは永久よりも終末だった。


 あの日の部屋に俺がいたことはあいつのなかからまるごと抜け落ちているようで、それについてとくに言及することもなかった。何週間かぶりにかかってきた着信はいつもの声音で、蝉の鳴きやんだアパートからは、あいつのくしゃみが聞こえてきた。そのバカでかさに階段の途中で立ちどまったりしながら微かに笑ったりしてしまうような、そういう無意識が芽生えはじめた秋。
 だからセックスのあと、いつもよりも治りの遅い傷をさすっている男の性器を咥えたのも、その近くにあったえぐい傷痕にそのまま舌を這わせたのも、ごく自然に為された行為だった。
「……変態かテメェ」
 衝撃の走った頬にふれながら見あげた男の目ははじめて戸惑いにゆれていて、そのあとすべての光をひっこめたかのような暗さに満ちた。アレはやっぱり夏の幻覚にすぎなかったのかもしれない。血のにじむ頬をぬぐう。男の傷痕を舐めた舌が、じんじんと痺れていた。

 つぎに呼び出されたのは九日後のことだった。
 いつかの噴水のそば、青空文庫で太宰の『ア、秋』に目を落としていたら、案外はやくにやってきたあいつに脛を蹴られた。ゆるりと目をもちあげるとそのまま何も云わずに歩きだしたので、そのあとをついていく。どうせまた部屋に直行だろうと瞳を濁らせていたら、ヤツが入って行ったのはコーヒー屋で、「帰るんじゃねえのか」「喉渇いたんだよ。何、そんなにシてえの」「お前が呼びだすのはそれしかねえだろ」「来んのはお前だろうが」、という会話をレジの列にて小声で交わす。
「……それ隠してるつもりか」
 レジ上のメニューを見あげながら、鼻まですっぽりと覆う大きめのマスクについてを問うてくる。そのとなりで、色鉛筆で描かれたカプチーノを見あげてた俺はあえて何も答えない。小指のふれる距離だった。うしろにいる高校生のグループの笑い声がどこか別次元にあるようで、時々かすめる小指同士が、擦れ合う皮膚が、マスクのしたの殴られた痕が、この世では背徳でしかなかった。
 順番が回ってきて注文しようとすると、
「ブレンドかアメリカンかエスプレッソ。どれだ」
「は?」
「奢ってやるよ」
 いっしゅん思考をとめたあと、「……ブレンド」と反射で答えてしまったのは店員の目があったからだ。すぐに選択肢が220円に限られていることに気がついたし、あとから足りない10円を払わされたりもして、なんなんだと思いながらちょうど二人分空いていた窓側のカウンター席に決める。
 横目に映したあいつはいつもどおりの眠たげな眼差しで向かいのケンタを見つめたあと、「つーかお前、飲めんの」、とマスクを指す。そして今日はじめての目が合った。
「……あ」
「お前ってたまにバカだよな」
「……どうりでテメェが奢るとか気色ワリーことを」
「おいおい気色悪いはねーだろ。俺の奢りなんだからちゃんと飲めよ」
 構えるより早く伸びてきた手にマスクを剥ぎ取られた。急に流れこんでくる空気。途端あらわになった痣を隠そうとしたその手も掴まれ、その反動でゆれたカップから数滴跳ねる。
「なんなんだテメェは」
「ひっでえツラだな」
「おかげさまでな。返せ」
「舐めさせてやってもいい」
 掴まれている手首が痛い。血管に当てられている手のひらからその脈打ちが伝わっていくようで剥がしたいのに、この目から逃げられない。四方八方から話し声のする、人の目線があるこの場所で。これが普通なのかどうかもわからくなってきた神経がおそろしかった。
「舐めてえんだろ?俺の傷」
 コーヒーからのぼりたつ湯気で曇っていく窓に、この男に殴られた痕が、淡く映りこんでいる。






「あ、ゴム買うの忘れた」
 アパートの階段で急に立ちどまったかと思えば、くるり振り返って降りてくる。コーヒー屋からこみあげはじめた違和感はいつかと同じ。鳴り響く鉄の階段と、自分の鼓動とが重なって身体をざわつかせていた。いつもそこになにかを秘めてる男の目が、さっきから妙に、真実のように光るから。
「……いつも買わねえくせに」
「なんだ、ナマがいいってか?やらしいなお前」
「んなわけあるか天パチンカス野郎」
 馴染んだこの距離感も、今はどことなくつくられたような、何かをなぞっているような感覚。いつのまにか握らされてる鍵に、擦れあった指の冷たさに、言葉がでない。
「……先あがってろ」
 ふれた手に一瞬、力をこめられた気がした。引き返していく背中をしばらく見送ってから、いつものアパート、すっかり踏み慣れた階段をひとりのぼっていく。カン、カン、と響く鉄の振動。



 ……ドアが、開いていた。
 いつもの部屋の、そのとなり。あいつ以外だれも住んでいないはずのアパートで、右隣の部屋のドアが。俺を誘いこむように、薄っすらと。内側からひかりを漏らしている。
 唾を飲みくだす喉がねばった。この程度の階段で、息が乱れていた。
 時も忘れて暫くその前に立ち尽くしていたが、頭上をカラスが通ったのをきっかけに機械的に足は動く。そこを俯き気味に通り過ぎ、いつもの部屋の前。きつく握りしめていた拳をひらくと、手のひらに鍵の痕が赤い。それを目の前の鍵穴に挿しこもうとするがなかなか入らない。
 その行動の裏では、意識はまったく別のところに飛んでいた。
 ……ずっと前。あいつがここで、視線をやった壁。時々、殴ったり蹴ったりしてた壁。通り過ぎざまによろけてみせるドア。まるで誰かに知らせるように。なにかを合図するように。
 ゆっくりと右へと滑らした眼球に、まぶたに溜まってた汗が落ちてくる。
「舐めてえんだろ?俺の傷」
 さっき、コーヒー屋で、痛いぐらいに手首を掴んできたあの目が、急に胸に迫った。






 ――踏み入った部屋にはだれもいなかった。
 部屋中に陽の飛沫が射していて、そこを踏んでいく靴下からは足音ひとつ漏れなかった。となりと造りは同じだが、生活のにおいは一切しない。ただ、何かの目的のために、使用されている……そんな印象を与える部屋の中心にあったのはテーブルと、そのうえに雑に積みあげられた数枚のコピー紙。それらにも、こぼされた陽のひかりが、そこに記された部分部分のインクを透かしていた。
 その紙束の一枚を取りあげ、目を落とす。
 ……崩れるのは、たやすかった。
 知ってしまえば、この九ヶ月の日々はあっけなく、目で見る真実はどれも滑稽で。
 つぎの一枚をめくる。ざっと目を通して、まためくる。
 そうして、そこに記された単語のひとつひとつを淡々とインサートしていく時間は、自分のなかの何かを殺しながら血を流す時間でもあった。
 「土方」「十四郎」「出身地」「家族構成」「経歴」「住所」「携帯番号」「タバコの銘柄」「週末は」「ゴミ捨て」「やってくる」「××駅を」「よく使う」「頻繁に」「出入りする」「関係者リスト」「映画の嗜好」「男性経験は」「クスリ・要」「依頼人の要望」「時間帯」「合図の方法」……
 あいだあいだに挟まっていた複数の顔写真はすべて前の職場にいたときのものだった。そこに記された依頼人の名前もよく知っていた。威圧的な態度も、伸ばされる太い腕も、吐きだされる卑猥な言葉も、最後に見せた、憎悪に血走る目も、忘れられるわけがなかった去年の夏。
 テーブルに紙を戻す。陽のひかりが重かった。わずかにすぼめた目をあげて、そこにぽっかりと空いた一点の穴を見た。壁紙の剥がされたそこに片目を近づけると、それはとなりの部屋まで貫通していた。最初からそういう造りになっているみたいに、となりの部屋のようすがよく見える。

 靴に足をとおしてゆっくりとその部屋をあとにした。さきほどと同じぐらいのすきまをきちんと開けて。次に、鍵穴に挿しっぱなしだったそいつを今度こそ回して、いつもの場所へ踏み入る。そこから勘を頼りに見てまわった部屋には、至るところにうまい具合に小型カメラが隠されてあった。コンセントのいくつかに盗聴器も仕掛けられていた。笑ってしまうほど死角がなかった。
 最後にガラスに擦りつけた前髪のうちがわで、ほんとうに俺は笑っていた。きっとその姿を、部屋中のカメラが、あらゆる角度から撮影している。




/

 どんなときでも季節はめぐり、じわじわと近づいてくる冬の気配のなか、毎週のようにあのアパートへ通った。あいかわらず公衆電話からの呼び出しは愛想がなかったし、部屋に迎え入れる目にはひとつの情も浮かぶことなく、為される行為のひとつひとつも手酷く、鬼畜だった。以前よりずっと減った会話だけが、必要のなくなったものとして穴をあけ、そこに冷たい空気が吹きぬける。行為の最中に時々合う目が、ぐっと歪められたかと思うと、ひっくりかえされた床に、顔面ごと押しつけられた。ぶつけた鼻から血が伝い落ち、ぼんやりとした目でぶれつづける景色をみる。耳を澄ませばカメラの回る音がしてくる部屋で、内臓を揺さぶられるままに、生理的な声をあげつづけた。
 そんな日々が何週か続いたある日、行為を終えたあとの精液にまみれたシーツのうえで、乱れた息をこぼしながら窓越しの群青を見あげている。あの高さを飛んでいる鳥は楽しいのか苦しいのかせつないのか、……それとも何もないのか。
 布擦れの音がして、シーツが波打つ。見えていないが、背中で、男の気配が離れていく。
 群青と鳥を映していた瞳を閉じた。暫くそうしてから、すうっとあげてく目。
「天国なんてねえよ」
 そう、呟いた。
 そうして重い身体をひきずるように立ちあがる。
 薄暗い部屋をゆっくりと横切って、トイレの下のすきまから漏れているひかりを見おろした。そして。ノックも何もせず、そのドアをあける。下着もおろさずただそこに腰をおろしているだけの男が渇いた目をあげた。その顔が、真実だった。今まで見たことのない、ひとりだけの空間ゆえの。想像よりもかなしい真実。それをすぐに奥へとひっこめた男のふるえる喉が、枯れた声を漏らす。
「は……? 何、お前、」
 狭い空間に入りこみ、後ろ手でドアを閉めたら完全な密室だった。
 ここにはカメラも盗聴器もない。お前と俺しかいない。
「おい、なん、」
 立ちあがりかけた男を突き飛ばし、再びそこへ落とすと、すこしの傷みに顔を歪めてるあいだに乗りあがる。「な、にしてんだテメ、……っぐ」、がっと首を押さえて黙らせた。ゆびに触れた頚動脈がどくんどくんと打っている。伸び縮みする虹彩が瞳孔をひろげる様を、ひどく落ち着いた気分で覗きこむ。
「舐めていいんだろ?」
 さらに瞳孔がひろがった。
 くちびるのあいだから出した舌先。それを見ている男の目は、たしかに恐怖していた。拒もうと押し返してくる手のちからが、肩に食いこむ。それは、今までこいつが生きるために使ってきた暴力と比べたら、断然によわかった。やめろと訴えてくる目を無視して、俺は舌先を近づける。
「っう、……ッ」
 まずは、ひたいのそれから。銀髪を掻き分けたところにある縫い傷。押し当てて、つつつとなぞる。そこからおりて、まぶたの切り傷。これは先週についたもの。何度も何度も開いた傷はもう簡単には塞げなくなっている。痛みにふせた、まぶたの膨らみ。そこから頬へ。湿布のうえから丁寧に舐めると、じんわりと血が染みてきた。端のめくれたところに爪をいれ、べりっと剥がす。殴打特有の紫に腫れたそこに舌を這わすと、跳ねたあたまがタンクにぶつかった。二度折れたことのあるという鼻筋を舌先でおりていき、切れた口角にこびりついてる塊へ。こそぐように舐めたら、手のひらに喉仏が当たる。
「……っ、は、やめ…ろ、変態」
 ひらいたことで切れそうになる塊に、吸いつく。
「い、……ッアタマ、イかれてんじゃ、んう」
 今度はくちびるをこじあけた。まだ腫れてる歯茎をつつき、頬の内がわの炎症をなぞる。
「ふ……っ、は、んむ」
 痛みのせいか異常なほどに舌の奥からせりあがってくる唾液が、濡れた音をたてながら伝い落ちていく。首におしあてた手のひらをとおして何度も喉仏がくだるのがわかった。押し返してくる舌に舌を絡め、ざらざらのえぐれたところに擦りつけていく。歯をたてると僅かばかり身体がずりさがる。
 散々えぐるように掻き回したあと舌を抜きとった。ようやく黙りこんだ男の、カミソリで切りつけられたような顎の傷を伝い落ち、首筋へ。汗に濡れたそこはしょっぱくて、放たれる男臭が鼻を突く。
 そうして浮きでた血管をくだって肩の、……自分がさっきつけた爪痕まできたところで、
「……やめろ」
 あの声が、低く落ちてきた。
「痛えって……」
 あとからあとからこぼれてくる熱い息が、男の傷にかかる。ふるえる舌で、その傷痕を、
「……は、」
 なかば噛むように舌でおしつけながら、こみあげてくるものに震えて。
「…今までで、一番痛ェ……」
 いつのまにか、まわされていた手に、ふれるかふれないかほどの感触で抱きしめられた。どこからこぼれてきたのかしれない、ぬくい液体が、睫毛を伝って、この男の傷痕を濡らしていく。