2.ラグーン
「……なァ、お前の故郷ってどんなかんじ」
浴びていたシャワーをとめ、濡れて滴る髪のすきまから浴槽に沈んでるやつを見る。銀髪から落ちては波打つ薄いみどりが、そこに透けてる身体を歪ませていた。
「別に。なんもねえよ」
反射で済ませたその答えに、湯気で曇る横顔がなぜかひどく遠ざかった。表層にはなにも浮かべない瞳のなかで、何かが底に潜っていくような。
……あ。今、こいつ。何かを殺した。
理由は見当たらないのにそれが真実のような気がしてくるのは、男の口もとに浮かぶ、薄っすらとした笑みのせいだった。命を削るような生き方をしているこの男の身体は傷だらけで、そのことをまるで省みていないようなのに、たまに思わぬところでこんな笑い方をする。他人に対してよりも酷く、あくまで自分に牙を向けてるときの、底の見えない暗い笑み。
そのとき瞳に映ったのは、湯船から垂れてる腕の、傷ついた痕を伝っていく、しずく。
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ふせていたまぶたを読経の途中でふいにあげると、めずらしく正座も崩さずに膝のうえで数珠を絡めた手を組んでいる沖田の、どこか遠い目つき。どれだけ知っているつもりでもこういうときふと知らない沖田がまだいくらでもあるような気がする。どっか行っちまいそうだ、と、いつも。読経に包まれた空間で、沖田の指先でひっぱられている数珠の赤をじっと見つめていた。
かおが強張る身内の集まりでも、近藤の笑い声ひとつで助けられていた。すこし酔いましたと云って横たわってる沖田の色素のうすい髪が、陽に焼けた畳にひろがっている。
腕で目元を隠していても、狸寝入りなのはわかっていた。
この畳はめいいっぱい陽が射しこむので寝心地がよく、昔はよくここに横たわったものだった。そこに季節の果物をもってくるスカートが窓からの風にひるがえるのに目を細め、沖田はなんだかんだ無邪気だった。柔らかい毛布をかけてもらうために、わざと寝たふりをするような。
その光たゆたう記憶の畳を、足早に複数の靴下が行き来して、それを避けるようにテーブルのほうへ寝返り打つ沖田。そこから伸びてきた足にぼふっと蹴られた。つよくはないが、かるくもない。「十四郎さんはまだ結婚しないの?」という話を適当に流しながら、テーブルの下、沖田に蹴らせてやっている。
ある程度付き合ったあとは話の輪から抜けだしてひとり庭へと出た。ざやめく春の風に吹かれながらそこで一服してると、うしろで窓がスライドされてく気配がして振り返る。礼服に畳のささくれをつけた沖田が庭へとおりてきてそのままどこかへ行こうとするので「おい」と声かけたが足をとめない。溜息とともに部屋を振りかえってもだれもこちらを見ていなかったので、沖田のあとをついていった。
「なんか用ですか土方さん。人の散歩にまでついてきて」
防波堤を歩く沖田はいつもどおりだった。脱いだ黒を風に流しながらゆっくりと歩いてく、その白シャツがひかりに透けている。向かい風のため、吐きだした煙は沖田のほうへは届くことなくうしろへと流されていった。春とはいえども、海岸沿いはやっぱり冷える。
「べつに。俺も散歩だよ」
云いながら立ちどまって、新たな一本に火をつける。すこし先で沖田もとまって海を見ている。今なにも紡がない引き結ばれたくちびるは、昔ここで同じような瞳の翳らせ方で、
「海みてると、きもちわりい」
と、云ったのだ。それが意味するところを知らないし問いただしたりもしなかった。ただなんとなく納得して、沖田の視線を辿るようにそこに広がる海を見つめていた。今、何年ぶりかに見るここの海に、沖田が何を思っているのかは知らない。なにかを殺してきた横顔が、そこで揺れてるだけだ。
そのとき胸ポケットで震えた携帯に沈んでた意識をひきもどされ、なんとなく呼び戻しかと思って相手の名前も見ずにでたら「俺」と、あの声が流れこんできた。詐欺みたいなそのひとこえにより、いっしゅんで乱された目はしかしすぐ沖田を映してじわじわと凪を取り戻していく。
「手土産はアイスでよろしく頼むわ。ハーゲンでも可」
「行けねえ」
瞬間、こちらに流れた沖田の視線からすこし距離をとるように再び身体ごと海に向かう。空気を薄めて棚引いたような春の海だった。「何。生理?」と冗談で返してくる声を耳に押し当てながら、「殺すぞ」とドスをきかせた喉がまた苦しかった。瞳におさめきれない海がひかりで潰れる。
「法事で帰省中だ」
「……へぇ。じゃあ夜なっても許すわ。ストロベリーで」
「行けねえっつってんだろ。今日中に戻るのは無」
「そこ海あんだろ。……波の音がうるせえ」
最後にそんなことを言い残して唐突に切れた。それこそ海に投げられたみたいな気分で、「り」のかたちのままの口からタバコを抜きとる。急にキレる意味がわからねえと呆然としながらもひとまず沖田を探したら、もうすでに何処にもいなかった。……ひとりで戻りやがったあの野郎。
/
あ、ここで、とタクシーをとめたのはいつも立ち寄るコンビニの前。ひらいたドアから出た靴が水溜りに浸かって、すそまで雨に染めあげる。カバンをかざしながら小走りでコンビニへ入り、雨で重たい肩をすこし手で払ってから歩く濡れた足音がきゅきゅと深夜に響いた。
これだけ濡れたら同じことだと傘は買わないで、雨のなかを行く。滑りやすくなっている踏切をわたるとき、足元で弾ける雨粒のひかりが瞳で跳ねた。膝にあたってゆれるコンビニ袋の底に浮きでる、アイスカップの輪郭。やがて見えてくるアパートも雨の圧迫に耐えるようにひっそりと夜のなかにあった。途中で過ぎたマンホールからは水の走っていく音が激流で聞こえる。階段の手前にはりついた不動産の広告を踏みつけて、カン、カン、と響かせながら鉄の階段をのぼっていく。シャワーみたいに降りそそぐ雨粒に瞬きしたとき、ふっとどこかの灯りが消えた。たしかに今ひとつの灯りがまなうらで消えた気がしたのに、あいつの部屋からは灯りが漏れている。だれも住んでいないはずの他の部屋に目を走らせても、そこはただの暗闇の窓ばかりだ。なぜか心臓をざわつかせながら、いつもどおりドアを蹴る。
「……」
無言で出てきた男の目が、こちらの濡れてはりついたシャツから膝のあたりで揺れてるコンビニ袋までをゆっくりと辿った。睫毛でふるえてる水滴がじわじわ眼前の男を吸いとって落ちていく。
「……笑える姿だな」
「テメェ。それが最初に言うことか」
どこか違和感のある空気をゆらしてる男の、うつむいた目がふいに右へと流れた。そこにあるのは白い壁だけだ。それは気にもとめるほどのない些細な一瞬だったのに、なにかがひっかかって同じく壁に意識を向けていたら、「……入れ」、急に低い声で腕をひかれた。たたらを踏みながら引きずりこまれた拍子に、アイスの入った袋が、玄関に落ちる。
そのまま玄関に突き飛ばされて組み敷かれるまで手加減がなかった。いつも自分本位な振る舞いをするドS野郎だが、今日はいちだんと見おろしてくる目に狂気がゆれている。それなのに、濡れたシャツを辿ってくる指先には少しの熱もこもってなくて、ぞっとした。
「っおい、シャワー、」
「ああ、後でな」
足首を掴まれたかと思うと、子どもの靴を脱がすみたいに片方ずつ靴下ごと抜き取られた。さらに馴れた手つきでネクタイを解かれ、抜きとったそれで両手首をきつく縛られる。下半身のほうでファスナーのさげられてく音。それらがあまりに淡々と為されていくので、思考が追いつかない。それでもされるがままになるのだけは避けなければ、また痛い目をみることは明らかだった。
「ほどけ……っ!」
「お前、暴れそうだし。きもちよすぎて」
「っざけんな、ンなことまで許してねーんだよ!」
「ハ、なんだそれ。ほんっとにテメェはいちいち面倒くせえ……今さら何を護るってんだ?」
あの日の俺についてきたお前が、
と、顎をもちあげてきた手がわずかに震えた気がして目をみはる。それはうまく銀髪に隠れて見えないのに、また、あの縋るような目つきをしているように思えてならなかった。そんなバカげた錯覚に無性に手を伸ばしたくなって、こんなことは普通じゃないのに、また許して。
この手に五千円札が握られていない今、差しだせるものは何もなかった。この手しか、なかった。……力がぬけていく。落ちてくる死んだ眼差しを身体で受けながら、俺もここでなにかを殺した。
「…っう、あぁ」
「はあ……っ、は、っ」
乾いたそこを唾液と精液だけで男のかたちに拡げられた。痛さで逃げていく腰をひきもどされ打ちつけられる。馴染むのも待たず何度も往復されて視界にいくつもの雨粒が見えた。そこにはどうやら涙も混じっているようだったが元々濡れそぼってぐちゃぐちゃだったからどれが雨でどれが涙かもわからない。押し潰すように挿入っては出て、入っては出て、の繰り返しのなか、さっきまで履いていた靴下が腹のしたでゆれていた。ゴムがわりにかぶせられた。先走った自らのもので汚れていく靴下の裏がわ。
「あッ、ぁ、ぁ、んん、……っ…っ!」
「……っここだろ、お前の」
「やめっ……!んああ……ッ!」
「は、擦るたび漏れてんぞ…っ」
靴下越しにすっと撫ぜられて腰からいっきに駆けのぼるままに喉をそる。抜けかけたものをひきとめるようにナカを動かしているのは紛れもなくこの身体だった。ありのままにさらけだすのを隠せない辛さで、手首を擦りあわす。濡れた目で見あげた男の顔がぶれつづけ、うまくとらえることができない。床についていた手を滑らすように折り曲げて、さらに奥へと男が落ちてきた。これ以上ないところまで入りこまれた場所で激しく腰を動かされる。うすい膜を介してじゃない、直接的な熱を送りこまれていることには気づいていた。ここでコイツがひかない意味もわかっているのに呑まれたふりをして。
「……っ死にそ、」
そんな声を聞いた。ちぎれそうな声だった。
思わず背中に手をまわして引き寄せたなら、震える男のぬくもりがじわりと入りこんでくる。そうして苦しげに吐きだされたものが、自分のなかを濡らしていく感触を。
……涙みたいだと思った。
/
ファミレスの窓を眺めながら、これから何時間か吸えなくなるタバコを吸い溜めておく。親子でファミレスに来てる日曜日が昼下がりに眩しくて、吐きだす煙もどこか春めいていた。こうして遠目から見てみるとあの人もちゃんと父親だった。子どもがこぼしたジュースを拭きとってるその眼差しなんかが。やがて窓越しにこちらに気がついた近藤がいっきにいつもの目つきに戻ったので、それがちょっとだけ惜しい。
「とちも、うちくる?」
「ママが許してくれたらな」
「ゆるすよ!ママ、とちのことすきだもん」
たたたたたーっと駆け出していきそうになる身体を近藤がとめて、そのままむりやり手を繋いでしまう。嫌がる素振りをみせられても決して離れないその繋がりは、そのまま血の繋がりに見えた。ほんの数年前まではじめてのおつかいを見ながら「ガキってなんですぐ走り出すんだろうな?総悟とかもそうだったけど」とか云って酒煽ってた男の、今の日常がこれなのだった。公園見たら動かなくなるからあっちの道から行こう、なんて遠まわりして歩く道も、子どもに合わせてさがりきった左肩も、車の通らない赤信号をいつまでも待つのも。血の繋がった子どもをもつということがどういうことか、この人をとおして垣間見る。
「しかし、とちがこれ選んだんだよね……このモコモコ靴下……」
「なんでアンタまで、とち呼びだ」
「いやァ、うちの子どもが可愛くて」
律儀に待つ信号で、あらためて箱を覗きこんだ近藤が最初と同じ感想をもらしたのに「しつけえな」と空を見た。暇をもてあますとタバコ吸うか空見るかしかない自分はタバコが吸えない今、空を見た。あわい水色にコットンをちぎったような雲。まなうらを塗りたくる、太陽のオレンジ。
「これ、俺が履きたいぐらいだよ」
「……近藤さん」
「いやいやそうじゃなくて!奥さんが買ってくるやつ、すぐにやぶれちゃうんだって」
「アンタ、奥さんに靴下買ってもらってんの?」
出産祝いを靴下セットにした経緯はとにかく回想したくないものが付き纏うのですぐさま思考から振り払おうとしたのに、つぎの話題もことごとくヤツの回想へと繋がるものだった。
「そういえば、こないだ渡した食事券使った?」
「チッ、使った」
「なんでそこで舌打ち?!美味くなかった?」
「うまかったよ」
ただし一緒に行った相手がアレじゃなければ。
ちょっと思いだしただけで胃の腑が動き、口を覆った手のひらが、ぬるい息でじっとり湿る。「それならよかった。子連れじゃ、ああいうとこ無理でさあ」、と笑う近藤は、きっとろくに味わうこともできない日々のうるさい食卓でウンザリとした幸せを享受しているのだろう。そのころ高級ホテルのビュッフェで、「ああいう幸せって噛みすぎると味しなくなってくんだよな」とすぐそばのテーブルのカップルを指差すような男と昼食を摂ってた自分は、どこに向かっていくのだろうと思う。
やわらかく吹いた風にめくれた髪の毛から覗く小さな耳。子どものそれを見たあとに、となりで欠伸かましてる人のをたしかめたらそっくりだった。「血ってすげえな……」と思わずこぼれた感想を近藤は笑ったが、それを云ったこころは影そのものだった。この世には分けないほうがいい血もあって、吐きだした種をみる虚無感が果てしないのは、この種はどこにもいかずにここで死ぬしかないからだ。
……すこし捲れていた袖をひきのばす。
手首に残るアイツの痕は、しばらく消えてくれそうになかった。
「何おまえ、少なすぎだろそれ。女かよ」
ウーロン茶をそそいでるときにうしろから覗きこまれてイラついたがそのまま無言でテーブルへと戻る。そのあとからついてくる男の両手にのった皿にはイカれてんのか?というほどのプチケーキが詰まってて、さっきまでの、バカなのか?と思うほどのローストビーフのほうがまだマシだった。
フルーツだけとってきたものの口をつける気にならず、フォークの先端で弄びながら、「それ何かかってんだ」「ハーブマヨドレッシング」「ハァ!?イカれてんのか?さっきのサラダんときも若干思ったが、お前それイチゴだろ、え、イカれてんのか?」と二度もイカれてると云われてそれはこっちのセリフだと言い返したくもなるが今はとにかく体調が優れない。
「うるせえなマヨはなんにでも合うんだよ」
「食い物への冒涜だからなそれ。イチゴに謝れ」
「ああ、このハーブはマヨへの冒涜だな……」
「おーい、会話が噛みあわないんですけど」
マヨをたっぷり絡めたイチゴをフォークの先端で刺したら、白いのと赤いのが混じりあって溢れだす。吐きたいような気分だったがそれを目の前のやつに悟られるのも癪で、機械的に赤い粒を口に運ぶ。近藤からもらった食事券の存在なんてあのタイミングで思い出すんじゃなかった。
「ああいう幸せって噛みすぎると味しなくなってくんだよな」
虚無の視線とともにそんな言葉を吐かれたカップルは、周囲の音など何も入ってきていないように和やかに食事をしていた。噛みすぎると味がしなくなる。マニュキュアの指先にちぎられるパンを見ながら男の言葉が渦を巻く。渦を巻いたバラのケーキが男の口のなかへと吸いこまれ。
「……お前が食欲ねえのって」
目の前で動く喉仏からすっと視線をあげていくと、どこまでも薄暗い笑みをのせた口もとがごく普通の、ありふれた日本語をかたどった。その音を、この耳が拾う。
「俺のがまだ、そんナカに残ってるからじゃねえの」
昨日、今まで薄い膜で守られてきた最後の境界がやぶられたのだ。
ここに出された感触は、泣きたくなってくるようなどうしようもなさで内臓を震わせた。どこにも辿り着かずに死んでいくしかない種は、なんの意味も持たない。
自分の口もとにも笑みが浮かんでいるのがわかる。何処からこみあげる笑いなのかは知らない。するとそれにつられるように眼差しに影を深めた男が、すうっと歪めた目つきで、
「そんな、この世の終わりみたいなツラすんなよ」
と、笑うのだって、何処からこみあげてくるものなのか、知る由も。
生まれてから笑い方を覚えるまでにおおよそ二ヶ月というが、そこからの環境と生き方で人の笑い方は細かく枝分かれしていくと思う。最初はだれだってこういう笑い方からはじまったはずなのに、いつからか暴力を匂わせたり人を見下すために使ったり悲しみを深めたり憎悪を灯したり、そういう笑みを覚えていく人間の性はどこからそうなっていくのか。
そんなことを考えながら近藤の子どもを見おろしている自分だって、今どんな目で笑っているのか。少なくとも子どもを見る眼差しからは遠い気がして、うつむく髪で表情を隠す。
ベビーベッドに寝かされた赤ん坊の、やわらかそうな手足は見ているだけで優しい輪郭だった。近藤がふうっと息を吐きかけると、なんにも知らない瞳の透明さで笑ってみせる。