3.ダイバー
噴きこぼれてくる汗が、一粒、また一粒と染みこむことでベランダの色を変えていく。入道雲が息をしている夏の青がすぐそばでぎらついて、茹だりそうな熱が身体にこもる。唾を飲みこむ渇いた喉には、ほんとうは冷たい麦茶を流しこみたい。でもそれは部屋のテーブルで、すっかりぬるくなっている。
「んっ、うあ、ああ……っ!」
「……っ、声だすなっつってんだろ」
うしろから塞いできた手のひらは湿気でべとべとだった。「んぐ……っ」、苦しい舌で舐めてしまった汗のしょっぱさを飲みくだす、その喉の凹凸が小刻みに震えた。いくらひと気のない道沿いだといってもたまにバイクの通る音だったり話し声だったりが耳に入ってきて、そのたび気が遠くなった。
しがみついた洗濯機のなかでは、ふたりぶんの服が絡まって渦を巻いている。それを見おろすうなじに噛みつかれ、声があがりそうになるのを手のひらで殺された。
突きこまれるたび、踵が、あがる。
肉が擦れあってぶつかる音が、鼓膜を犯す。
繋がるふちを指で辿られながら出入りされて髪を振り乱した。回る洗濯機が五分前の合図をのんきに鳴らす。えぐりこんできたそれが深くで回された。
「ふっ、うあ、ん……っ!」
「…ぐ……っ、また注ぐからな……っココに、」
俺の、
と耳に吹きこまれながら掻き回される体内と、終わりが近い洗濯の掻き回る音とが、すぐそばでゆれる夏を巻き込んで。よりいっそう、ぎらつくベランダの影を深めていく。
/
「土方さんの最近の相手は、公衆電話ですか」
「……あ?」
考えごとでチャーハンを掻き混ぜてたスプーンをとめると、とっくに食べ終わってたらしい沖田が携帯をいじっていた。あれ、こいつ携帯変えたのか……と、沖田の手のなかの、カバーのかけられてない黒の艶をちょっと見てから麦茶の瓶に手を伸ばす。そこで、いつも無意識に時間をたしかめる癖が働いて、手元の携帯を見ようとしたのだが、置いてた場所に見あたらず、
「あれ、俺の携帯どこだ」
「ここです」
いじっていた携帯を掲げてみせた沖田の無表情がまたなんでもないことのように手元の画面に落ちた。思わず、ああそうと納得してしまいそうになるほどの、飄々っぷり。
「って、なに勝手に見てんだテメーは!!」
「見られちゃ困るものでもあるんで?」
奪い返した携帯に映ってるここ最近の着信履歴を目のはしにとどめつつ、それをカバンに放る。なんで自分の周りには、悪びれもなく人の携帯を見るやつばかりなのか。
「公衆電話相手に何してんですか」
「……間違い電話だろ」
「へえ、それは毎週、律儀なことで」
繰り返しスプーンを運ぶ口もとから、何かを探るような沖田の視線がさげられていって、鎖骨のあたりを彷徨う。薄着の夏はあけすけで、もし今、沖田がいるのが背後だったなら、うなじにうっすらと残る歯型を見つけられたかもしれない。食べるのが遅いのも、おなじ痛みが舌に残っているからで。
「別にアンタがどこの誰とナニをよろしくやってようが知ったこっちゃねえが、」
まだ三分の一ほども残るチャーハンを置いて、ガラスのうつわからトマトをすくう。その光沢をスプーンのうえで傾けながら、ふってくる沖田の言葉に何かが潰されていく。
「近頃のアンタの目つき、どうかしてるぜ」
トマトをスプーンの尻で潰した。そのとき銀の光沢に映りこんだ、……自分と目が合う。
/
連絡の途絶えた八月、三十度を超える猛暑にぎらつく窓を磨きながら、なんでかアイツがひとり部屋で死んでいる映像だけを繰り返し流していた。これまで生きてこられたほうがどうかしているような男の存在を、俺の想像が勝手に殺す。三十度が、それを助長した。
だから、はじめて公衆電話からの着信なしであのアパートに立ち寄ったのだ。
駅からの、陽炎のような道のりで歩きタバコする。見えてくるものすべて揺らめいて、車のガラスで反射する陽にさえ目が眩む。裸足で踏んだら火傷じゃすまなそうなアスファルトや踏切のレールを進んでいく途中で、何度か過ぎてった自転車の風に、過ぎし日の夏をみた。
いつもどおりのぼる鉄の階段はそれこそじりじりと焼かれてくみたいな温度で、季節を溢れさしていた。ちょっとだけ手すりにふれた小指が、ジュウウと焼けて赤く膨れた。いつもやかましく鳴り響く足音が、それよりもうるさい蝉のせいで、となりのビルで鳴る警報なみに遠い。
ほとんど倒れかかるようにあの部屋のドアを叩いたが、いつまでたっても出てくる気配がなかった。茹だる脳味噌は、まだ血みどろの妄想の具に浸かっていた。そのせいか、ふと見おろした足元にそういう幻覚をみる。そこには、なにかの紋様みたいな、血の痕。靴をずらすと、そこにも。すっと視線を走らせた廊下にもそれはあって、階段のほうまで点々とつづいている。
顎から滴り落ちる汗が、そのすぐそばへと落ちていった。
考えるよりも早く、鍵を壊してでもこじあけようと手を伸ばしたドアノブはあっさりと回る。土足のままあがった部屋は蒸し風呂みたいで、鼻を突いてきたのは日常ではあまり嗅ぐことのない鉄錆のそれだった。朝からずっとバカみたいに脳味噌で再生していた部屋が現実として迫り、そうしてそのまま妄想を切り取ったみたいな鮮明さで、眼前にひろがっていた。
ひらいた窓。そこから入ってくる、虫の息ほどの風が、動かない銀髪をそよがす。
俺はゆっくりと、それに近づいた。
床を踏みしめてく靴底が、落ちてつづく血痕を擦る。その靴先がアイツの丸まった背中にふれたとき、銀髪をそよがせていたのと同じ風をうけて視界がひらけた。ながれる前髪の透き目から見おろすそこに、男は死体のように転がっていた。鳴きやまない蝉の声が、まるで目覚ましみたいだった。
その身体のしたに靴を差し入れる。
そうして爪先に力をこめ、荒っぽくひっくりかえした。
「……」
ぱふん、と床に落ちて、跳ねる腕。
ところどころにべったりと血のついた銀髪。
鬱陶しげに眇められた目が、あいかわらず死んでいた。
ひたいに手の甲を当ててるそいつは鼻から血をだしながら、幽霊でも見るような目つきで、
「……なんでいんだ」
と、口をひらいた。そこからも血があふれる。それに咳き込んで押さえた指のあいだからも赤が伝っていく。首筋からシャツにかけても、乾いたそれでべっとりだった。
窓から射す陽が視界を薄めるなかで、いつもより乱れた呼吸で上下する胸を見おろす。
「……、テメ、何勝手に、呼んでねえんだけど」
「うるせえ」
「ああ?!ゲホッ……っグ、…ハア、」
また血の痰を吐きだしている男のひたいに異常なほどの汗が滲みでていた。床の木目を汚した赤が、陽射しに透けて血管のように伝っていく。そこに濁った咳がつづいて、なんでもいいから何か咳をとめるもん、と思いついたのが口に咥えてたタバコだった。それを男の口もとに差しだしたら、
「……テメ……殺す気」
と蚊の鳴いたようなのが返ってきた。
「俺はこれでとまる」
「それはテメェが…ゲッホ、変態だからだ、ンなもんより、そこの枕」
「あ?まくら?……って、ジャンプか」
言われたとおりにそれをあたまのしたに入れてやると、しばらくのち咳はおさまったようだったが汗はますます滲みでてきた。鍋をした日のガラスの結露のような大粒のそれを無意識におやゆびでぬぐうと、反応する力もないのか、ゆるゆると、まぶたをあげるだけで。
「医者は」
「ほっといてもくっつく」
「……折れてんのか。どこだ」
「たぶん肋骨」
呆れてしばらく黙った。
それから改めて床にひろがる血の海をみていると、「あー……それはちげーから。鼻血が気管はいっただけ」、と途切れ途切れに話すことそれ自体が響くのかシャツの胸を摘まんでいる。
「医者、行けよ」
「だから……いいっつってんだろ。大体、医者にはロクな目に合ってねー……こっちは痛みで悶えてるっつうのにあのヤブ医者、巨乳のナースかレントゲンとしか喋ってなかったからな」
苦しげにシャツを掴んでる拳の皮がべろべろにめくれていることや、耳のふちが裂けていること、その他にも目につかない細かい傷が無数にありそうな男は、痛みが日常だとでも言うような目つきで、「はー……お前、そこ眩しい。逆光」とこぼした。今、影はこちらのはずなのに、こいつの目はそれさえも認識できていない。逆光はテメェだよ、と教えてやりたい口が吐いたのは溜息だった。
「言っとくが、今の歳ぐれえが限界だからな。ンなことしてるといつか死ぬぞ」
「いつかっていつだよ」
「少なくとも十年後には生きてねえだろうな、って……なんだこれ」
銀髪が敷いてるジャンプのすきまから透明の角がはみでているのを見つけ、それを抜きとったらあたまの角度がいちだん落ちた。「…ッぐえ……」「あ、悪ィ」、云いながら裏返したそれは、いつかの映画のDVDで。ボブ・ディランの曲と同じタイトルの。
「お前、これまだ返してねえのか。延滞ヤバイだろ」
「あ?、あー……それ俺が借りたやつじゃねェ……」
「……?じゃあ誰が、」
そのときほんの僅かに動いた瞳はそのまま、こちらの手のなかのパッケージに落とされた。陽を反射する男ふたりの写真を見て「こいつらって」、と血のくちびるが動くのに吸い寄せられる。
「……死んだ、あとも行ける場所がある、しかもそれが天国だって本気で信じたかったのか、……それともそんなのはどうでもよくて、ただ自分の死に場所を」
そこでいちど詰まった言葉が咳になる。そのくちびるをぬぐって、
「……地獄より天国のが怖くね?」
その目はひどく眠たげで、今にも落ちていきそうなまぶたの重さで、とっくに意識はべつのところを彷徨っているらしかった。急に話が飛んだことにも気づいていない。言葉にも脈絡がない。でもこいつのなかでは確かに、なにかが繋がっている。
「……地獄は容易に想像できるが、天国って……なんだよ」
「……」
「……いや。お前のさっきの話」
このとき知らぬまに奥歯を噛みしめていて。
ひろがる鉄の味はこの部屋の匂いで。
「十年後に生きてるって……信じられるヤツのほうが……不思議…じゃ、…ね」
残り僅かの生命を燃やす蝉たちに掻き消されそうになるその声に。
……耳を、澄ます。
「……まったく想像できねえもんは、こ…え、…よ…」
とうとう腕で隠されてしまったその、ろくに息もしてなさそうな目を、海の底で溺れているような目を、死にそうな、目を、こちらがわに、俺のいるほうに、ひっぱりあげたいのに。