5.トロボ

「……なァ。頼みごと聞いてくんない」
 夜明け前に待ち伏せていた男は、既視感のある立ち方でビル風に銀髪を掻き混ぜられていた。あらゆる光を跳ね返す死んだ目で俺を見据えたそいつは、どこか炭酸のぬけたような薄い笑い方で、こちらへ一歩踏み出す。そうしてしばらく互いの身体のあいだに吹きぬけていく風を沈黙にして、立っていた。目に入りそうになった何かを避けるように横を向いた男の、風にひっかきまわされてる銀糸に目を眇める。どの時間でもどこにも溶けこまず、はっきりと目に見えるその銀色を瞳に映しながら、
「……なんだ頼みって」
 めくれあがった銀色のすきまからちらつく、よわい眼差しに、目に映る世界が波打つ。そこからおもむろにビルを見あげた男が、すっと指差したのは。
「アレ、乗らせてくれよ」
 ……ゴンドラだった。



「おい、ヘルメット」
「いらねえ」
「いらねえじゃねーんだよ。クビ切られたらテメェのせいだからな」
 屋上からちょっとずつ降りていく景色になにか感想を漏らすでもなく、ただ無表情に眼下を見おろしている男につられて。作業中は拝むことのないその景色を見たら、あらためてどれほどの高度かを知った。夜明け前の、まだ眠りから覚めていない街の空気が、どことなく霧めいていた。夜でもなく、朝でもない、狭間にひそむ空気。今そこにこいつと立っていることが。いつもひとりの気分だったこの高さに、こいつがいることが。いつもの景色をひどく霞めて、まるではじめての場所になる。
「朝日は拝めそうにねえな」
「むしろ一雨きそうだ」
「思ってたより高くもねえし」
 煙った空を見あげてうしろへ傾きかけた身体が、ゴンドラをゆらす。
「はー……なんっもねえ……」
 肺に溜めた声を吐きだしながら突き抜けるような眼差しで空をみてる男と。
 ……ここから。
 また今日がはじまっていくのだと。十年後生きてようが死んでようが、いつかの宇宙がどうなっていようが、ここに、こいつと立っていたこと。
 瞳に映すものが、……重なっていたこと。


「なんか聞きてえんだろ、俺に。……いっこだけ質問ゆるしてやるよ」
 まだそこに空を焼きつけたままの目で、今になってそんなことを放つその面差しが、薄闇の空気に溶けかけていた。それを見つめて、本当に今さらだ、と、笑むくちびる。
「なんでもか」
「ああ」
 聞きたいことはいくらでもあったはずなのに、そのどれもが確かめても意味のないことで。それに俺はこの目で見たものだけを真実にしたかった。そうしてひとつひとつを消していくと最後に残ったのはたったひとつで。……今さら口にするのもバカげてるようなやつ。
「……名前」
「あ?」

「お前の名前、教えてくれよ」

 風に助けられるように伝えたそれに。
 目を瞠った男の。そこからじわじわよわまっていく眦は、もう誰にも。
 何にも。……縋ってなど、いなくて。ただ、よわい光で、俺をまっすぐに射抜いた。
 そして微かに口角をあげ、
「……名字?」
 と、ふせたまぶたで返してくる。
「どっちもだろ普通」
「いっこしか答えないつったろ」
「ケチくせえ。じゃあ下で」
「……あのなァ、他にねえのか。よく考えろよ」
「名前がいい」
 有無を言わさぬ早さで返せば、はあ、と呆れたように溜息ついて髪を掻き毟るその仕草。つよまってきた風に前髪をおさえてるその指のすきまで、かなしく波打つひかりを見たような気がした。
「……わかった」
 そのくちびるがすうっとひらく。そうして、一音ずつ動いてかたちになるのを。
 風にのって届いてくる、その四文字を。
 すくいとった鼓膜が震えて音になり、……俺のなかにゆっくりと、やさしく、沁みていった。

「満足したか」
「……ああ」
「はー……わかってんのか。お前は今またバカな間違いを犯したよ」
 最後にそんなことを付け足して、これまで見せてきたどれよりもそれらしく笑った男は。たとえ偽りだとしてもこれが真実でいいと思える。……そんな名前をもって生きてきた男だった。
「間違えることには慣れてる」
「だろうな。じゃなきゃあんなホイホイ男にケツ掘られたりしねえ」
「あぁ?!テメェがあまりにかわいそうだからケツ貸してやったんだろうが」
「ああん!?顔だけ男に言われたかねーんだよ!!今ここで犯してやろうか!!」
 ここがどこだかも忘れて胸倉つかみあったゴンドラがおおきく揺れる。
 いっきに冷えた肝でじりじりと体勢を戻しつつ。
 互いの息がかかるほどの距離で、俺を見た、あいかわらずの死んだ目は。
「……なんか今。お前はそうやって間違いながらバカみながら。十年後も、……その先も。しぶとく生きてんじゃねえかって、そんな気ィしたわ」
 なんてことを云って、そこに俺だけを映して笑うので、こっちは逆に笑えなくなって、ひりつく喉でふるえそうになる声を、どうにかおさえながら、絞りだす。
「……こっちの台詞だ。テメェこそ十年どころかジジイになるまで生きてらァきっと」
「じゃあ賭けるか」
「なにをだよ。死んだら終いじゃねえか」
「は、確かにそうだ」
 この高さにいても、やってることが大して変わらないバカは結局どこいっても一緒だろう。
 死んだら終い。それでも俺は、このバカに賭ける。
 お前がこれからも生きてくほうに、笑って賭けてやる。




/

 あれから毎週のように鳴っていた着信はなくなり、あのアパートにも行かなくなった。それから暫くのち持ちこんだトイレで水没させた携帯は、バックアップを取ってなかったため、役の立たないただの箱と化した。このまま二度と会わなくなる可能性を薄っすら予感しても、自らアパートに出向いたりはしなかった。それはそれでいいとすら、思っていた。たとえ、そこから続いても、このまま終わったとしても。
 近ごろまた沖田の当たりっぷりがひどく、深夜に鳴るインターホンや料理に混じる激辛ワサビなどに振り回されてろくに寝つけやしないので(おそらく夢にうなされるのもアイツの藁人形かなんかだ絶対)、ときどき意識が落ちてはゴンドラからも落ちかけ、危うく死ぬとこだった。早朝にシフト入れるんじゃなかったと後悔しながらようやく休みどきの午前十時、ゴンドラを移動しかけたときに、今度はべつのもんに殺されかける。ちょうど拭き終わった窓に、どんと何かがぶつかる音がしたので見ると、そこにべったりとはりついてる人間が、瞳に迫った。「ひっ!」、昨日も散々沖田にむりやりホラー映画の内容をリアルに聞かされてた俺はのけぞって、そして隣で口笛吹いてた大学生のバイトはかるくジャンプした。これは一歩間違えばマジで死んでる。……こないだからこんなんばっかだな、死ぬ前にやめようかこの仕事。
「久しぶりに他人に殺意をおぼえた」
「いや、ほんとすみません。何度叩いても気づいてくれないもんで。電話もしたんですけど」
「携帯は水没させた」
「あーどうりで。マンションにも何度か行ったんですよ。でもいつも留守で。死んでんじゃないかと思いましたよ。……まァ元気そうでよかったですけど。これ、どうぞ」
 山崎が差しだしてきたコーヒーを受けとって窓側の丸テーブルに移る。腰の高さのそこにヘルメットを置いてから見つめた窓越しの空は、また雪でも降りそうな色をしていた。喫煙欲をコーヒーの苦さで緩和しながら、「で、なんだ」、と、話をうながしたら急に山崎の歯切れが悪くなる。
「仕事の話か」
「いや、あのですね。土方さん、……もしかしてニュース見てませんか」
「ニュース?」
「……見てないですか。大々的に取りあげられたわけでもないんで仕方ないですけど」
「なんだ、はっきり言え」
「あんたのクビ切った重役、覚えてますか」
 またその名前が、しかも山崎から出てくるとは思いもよらなかったので少しの動揺を胸にひろげたあと、コーヒーをひとくち啜って頷く。
「まァ別に、アレだけでもねえだろ。人事決めてんのは」
「アレ以外ないですよ。土方さんを目の敵にしてたのは」
 ほんとうの理由は目の敵とかそんなレベルを超越した、思い返すのも身の毛がよだつもので。夏の日の、会議室。汗のにおいで近づかれたことや、肌を撫でられた感触、下卑た言葉とともに吐かれる息づかい、それらはいつまでもぬぐえない染みとして、残っている。
「……で、そいつがなんだ」
「死にました」
 耳に入ってきた非現実的な言葉。缶につけていたくちびるを離して、山崎を見た。
「……は?」
「死んだんです。正確には、……殺されたようで」
 心臓がいっきにポンプを働かせたのごとく、身体中の血液がそこに集まっていく気がした。
「なん、…でだ」
「わかりません。ただ、ずっと前からそっちの筋の者と繋がりがあったみたいです。それで今回、遺体で見つかってはじめて色々、悪事が露見したようで。おもに、……児童ポルノとか、そっち系の。それで今、うち、相当ヤバイことになってますよ。警察やらマスコミやらで」
「どこで見つかったんだ」
「え?えーと、たしかどっかの路地裏だったと。原型とどまってないほど殴られてたそうです」
 山崎のことばを聞いている耳だけがどこかに分離して、身体から切り離されたみたいに、ひどく遠い。夏のあの日からどこかで繋がってきたすべてが血をざわめかせ、そうして直感が叫んでいる。間違いなくそこに関わっている、あの男の。最後に見た姿が。何遍もまなうらをよぎって。
「それで、こんなときに話すことでもないんですが、土方さん。今はまだ無理でもいずれ、戻っ、」
「悪ィ、山崎。また今度な」
「え?」
 走りだした拍子に缶コーヒーが倒れた気がしたし山崎にも名前を呼ばれた気がしたがもう何も届いてはこなかった。……ただ、あのアパートを目指して。俺は、ひた走る。






 この歳になって全力で走るものではないと痛感する駅からの道、横腹に刺しこむ苦しさをおさえながらこの過ぎてきた一年のことを景色に走らせていた。
 ゴミ捨て場であの声に震わされてから。死んだ眼差しの奥に、縋るような影が見えたあの日から。どれだけ傷ついても飄々としていた男があのときだけは痛ェと吐きだしたこと。なみだのような体温。笑ったときにひっぱられる頬の傷。自分から底に沈んでいく目で、天国が怖いと言ったこと。
 ひっきりなしにこぼれていく白がたなびいて、左右に過ぎていく景色に、あいつに腕をひかれて歩いた残像が走ってく。祈るようなきもちで、駆け抜けていく。
 もう一度だけ。もう一度でいい、ひとめ見れたらそれで。また、生きていくから。

 踏切の遮断棒が降りていた。
 足止めされたと同時に膝に手をついて嘔吐くように咳き込み、そこを過ぎていく電車の風が前髪を掻きあげた。いつのまにか降りはじめていた雪がそれに舞いあげられて宙を踊る。とまってはじめて自分が作業着のまま来ていたことにも、そこにコーヒーの染みがにじんでいることにも気づき、ようやく冷静さをとりもどしながら。それでも早鐘で打ってる心臓は、遮断機があがる頃になっても、おさまってはくれなかった。胸をおさえて渡りきった踏切の向こう、入り組んだ分かれ道の手前。この一年、何度もここに来た足はとまることなく右の道へと滑る。その瞬間、激しく打っていた心臓が、ふ、と静まった。

 ゆっくりと近づいていく鉄階段、その雪に埋もれた一段目に足をかけてジ、と見あげる。

 見あげたそこに。
 ……アパートは、なかった。

 途中で切れた階段が、どこにも届かずにただのオブジェのようにぽつんとあって。ひしゃげた手すりの、ところどころについた焦げ目にふれると、ぼろぼろと灰がこぼれていく。それさえも意識の外で、ただただ階段を見あげて何もない空間を凝視しながら。ここに来た最初の日のことを。
 ……最初、天国への階段みてえだ、なんて、思ったことを。
 ただの錆びかけの鉄の階段が。
 あの夜は暗くて熱にも浮かされてて、先を行く銀髪しか目に入っていなかったから。それしか、ひかりはなかったから。天国みてえだ、なんて、思ったことを。
「……」
 その階段はもう、どこにもつづいていない。
 今、そこから降ってくるのは雪だけで。それをかおで受けとめる冷たさが頬を伝っていく。あとからあとから落ちてくるその白は、そんなわけもないのにあたたかく、ほのかに光っているようにさえ見え、冷たさが過ぎるとそうなるのかもしれない、と、俺は、それがやむまでずっと。
 あたりが白銀に包まれるまで、ずっと……




/

 淡々と日々は過ぎ、歳を重ねるごとに季節はかなしさを深めながら巡ってくる。
 駅前のコーヒー屋で、先に立った山崎のあとから歩いていく通路。窓側のカウンターのそばを通るときに横目でとらえていく、サラリーマンの背中。噴水のそば、ケンタの看板を見ながら、
「今年もどんな嫌がらせされるかわかったもんじゃねえ」
「沖田さんでしたっけ。ほんと仲良いですよね」
「どこがだよ」
 そんな会話で過ぎる。人混みの改札売り場にてまだしつこく仕事の話をする山崎に別れを告げてから、途中にあった転職情報誌を適当にとっていった。こないだ沖田に爆笑された写真はまだ履歴書に貼れないままテーブルにだしっぱなしになっている。
 前を行く女子高生の手首に巻かれたミサンガをちょっと瞳にぶれさせる階段の途中、電車が来たことを告げるアナウンスが鳴り響いたので急いだ。ぎりぎり閉まりかけてた電車に滑りこみ、扉によりかかりながら、そこに映る自分と、それにだぶっていく景色を瞳にながしていた。横殴りの雪に追いかけられている電車のつり革が、時々、ブランコのように揺れている。
 さっきよりも冷えてる空気に襟を寄せて、遠まわりで人の少ない道を行く。まだすこし風邪の名残りが残っている喉から出はじめた咳がなかなかやまないので、タバコを口にもっていった。咳き込みながら火を点け、ふかく吸いこむと、すっと咳はひいていく。「変態」、と、どこかからつっこまれた気がする。吐きだす吐息と煙がしろく混じりあい、目の前が曇る光景は、ただしく冬の季節だった。
 帰ってもラーメンしかねえな、と、スーパーの前でちょっと立ちどまったが早く帰って映画が見たかったのでそのまま過ぎた。入口でカートを押したがる子どものわがままが自動ドアの向こうに遠ざかる。歩きタバコの俺を避けていく人々からおなじ白がこぼれ、そのひとりひとりの呼吸とすれちがうたび、ここに生きる者たちの、命のひかりを見た気がした。
 それらも、進むたびにぽつりぽつりと消えていき、最後はだれもいなくなった雪ふる坂道をひとり踏みしめていきながらポケットのなかでICカードの角をなぞっている。のぼりきったところで吸い終えたタバコを靴底で踏んだ。まだ溶けきらずに、そこにうっすらと残る雪の結晶。
 もうすこしでマンション、というところのゴミ捨て場でカラスがたむろってたので追い払う。汚く羽ばたきながら曇天へと吸いこまれていくカラスたちが、影絵になるまで。
 やぶかれたらしいゴミ袋から、尾をひくようになめらかに転がりはじめた空き缶が、そこにある電柱にぶつかってとまる。それを拾うために屈んだそこに、つよめの風が吹きつけて掻きまぜられる髪。ばきぼきと凹ませたそれをゴミ袋に放って、横殴りの雪にぐしゃぐしゃにされながらマンションへと帰る。そこの自動ドアをくぐった途端にかおにはりつく前髪をよこにふったら、雪があたりに散った。
 エレベーターの手前で、肩に積もったそれも払っているとあとから入ってきた住人が「ひどくなってきましたね、雪」と挨拶してきたのに愛想を返す。やがて降りてきたエレベーターに乗りこんだその人に、「あ、どうぞ。先」と促して、閉じゆくそれを見てから鍵をとりだす。
 たしかに入る前よりもさらにひどくなっている雪は、ボタンになりつつあった。アスファルトに溶けてくそれはどこまでも静かで、耳のなかは奥まで冷たい。
 靴のなかで、かじかんで感覚のない爪先。
 郵便受けの鍵穴に挿したマヨのキーホルダーがぶらぶらとゆれている。うつむいたマフラーから覗く、うなじ。さっきの人が一階に戻してくれたらしいエレベーターが、ひらく音。
 ……ひらり
 脇を抜けていった封筒が足元に落ち、薄い茶色をひかりに透かす。だれかの指紋のような手触りに擦れる親指のしたで、おぼろに明滅する、乾いた赤。
「っ……は、」
 震える右手。瞳に映った。血のこびりついた五千円札が、ぐしゃり、ひしゃげる。




2016.03.19/ヒズ・ヘヴン