徳利に酒を注いでいる途中に身震いがきた。液体が透明のカウンターに数滴落ちる。あーあー何してんの、横にいる坂田が袖でそれを拭いながらそういう自分も肘で酒を溢している。暖簾の隙間から店員らしき女が呆れ果てた視線を寄越してくるのを全身で感じながら、長谷川は頭を垂れた。零れた液体を額が吸い込んでべたべたと張り付いた。長谷川はだらだらと酒を煽って空になった徳利の底をただ見つめていた。坂田が濡れた袖を絞りながら言う。アンタさあ、アレだよアレ、マダオじゃなくてダメオじゃなくてグラサンじゃなくて、えーとアレだよ、ほら、アレ、淋しいんだろ、そう淋しいんだよアンタは……坂田はまた酒を溢した。長谷川は立ち上がり、お勘定、と店員を呼んだ。坂田はサミシイを連呼している。
店を出た途端、長谷川の頬は引き攣った。肌が冷えた風に曝される。ふいに足首がぐにゃりと曲がり長谷川は道路に倒れた。眩暈。倒れこんだ場所には小さな紫がいくつも点滅していた。ああスミレだ、長谷川は痛む頭をおさえてそれを見た。その散らばる紫に触れようとして途中で手をとめる。触れてはいけないような気がした。酔いが一気に冷めていくような心持に長谷川は立ち上がる。一緒にもつれ転がっていた坂田も無表情に変わっていた。そういうところが互いにだめなのだと長谷川は苦笑した。じゃあな銀さん、長谷川はひらひらと手を振りながら歩き出した。サミシイ、サミシイ、マダオくん。坂田の鼻唄が響く真夜中。
アパートの階段を登り、鍵穴に鍵を差し込んで、長谷川はそのまままっすぐに万年床に倒れこんだ。風呂に入る、とか服を着替える、だとかは浮かんですぐに消えていく。どうでもよかった。なにもかも面倒だった。足指が寒く、身をくの字に縮こまらせてまるくなる。長谷川の意識はすぐさま沈んでいった。
長谷川が目覚めたのは正午をとっくに過ぎた頃だった。頭痛よりも喉の痛みが酷い。ごそごそと起きて、嗽をして、歯を磨いて、風呂に湯を溜めた。シャワーを浴びて、お湯に浸かる。裸のまま洗濯機の横に掛けてあるポンプを取って、溜めたお湯を捨てずにそれで吸い込んでいく。自動的に洗濯機が動き出して、長谷川は湯船の中でぼんやりポンプが吸い込む音に耳を傾けた。
洗濯物をカゴに取り出して、長谷川は狭いベランダに出た。空は今にも雨が降りそうに曇っていたが、構わず洗濯物を干していく。灰皿がわりの缶を取り出して一服をする毎朝変わらぬ光景に目を細めた。上唇と下唇の隙間から煙が風に流されて、まだ春には遠い気温を肌で感じながら思った。生きている。アホみたいに生きている。生きているから触れるのに躊躇われるんだと長谷川は気付いた。サミシイ、サミシイ、マダオくん。自然と鼻唄を紡いでしまう。短くなった煙草を最後まで吸いきることもできやしない。
2009.04.01/物思い種