(さんにんぶん)
 米びつに計量カップを突っ込んで三杯。手で切り取って払った米粒がぱらぱら落ちていく。水道を捻って落ちてきた水は一種の凶器で、その冷たさに首は竦む。溺れる米と赤らんでいく指。底で少し混ぜてから水を切っていくあいだ、おさえた指のあいだを米粒が行き来してこそばゆい。すべての水を切ってしまってから砥いでいくその過程で、ひりひりと痛みを訴えはじめる手。しゃかしゃか、ざくざくを繰り返し三回。三回目のとぎ汁からは大分濁りも無くなっている。そろそろ米も透けて見えはじめたので水の量を測って炊飯器にセットする。つめたい手を擦り合わせ、予約ボタンに指をのせた。午前七時、三人分。


(目玉焼き)
 朝食のメインは薄っすらと伸びた卵白の湖に浮かぶ黄色い太陽。ぷるぷると震える半熟は一見食欲を掻き立てます。でも神楽に見つからぬようにそうっと箸を突っ込んでべろりと裏側を覗きこめば、まっくろくろすけ。新八も同じようにして覗き込んでから、そっと元に戻している。バリバリの目玉焼きも慣れればうまいのです。箸で割いて、(なかなか割けなかったのでほぼ引きちぎるかたちだったけど)、ぐにゃぐにゃと噛む。この苦みも病みつきですから。黄色い太陽のほうに箸をいれれば、中からとろりと溢れる。落とさぬように注意をはらって口のなかへ誘導、そこであってはならない歯ごたえがある。神楽がこちらに背中を向けたタイミングで舌のうえにカラをのせて、新八と見せ合いっこ。カルシウムだ、カルシウム。大体お前んとこの姉ちゃんよりは遥かにすばらしいからね。それに神楽ちゃんは平気なかおでバリボリ食べてます。目で会話をつづけ、食べる手はとめない。結野アナのブラック星占い、あ、最下位。


(冷凍うどん)
 午後二時、だるい身体をようやく起こす気になって、ソファにナルトのページでジャンプを置く。誰もいない部屋を横切って向かった冷蔵庫の前、引いた箱のなかで吟味する冷凍食品。水をいれた鍋を火にかけて適当な時間で、パッケージの封をやぶる。賞味期限が明日に迫ってるやつから。かちこちに凍ったそれを鍋のなかに沈めるとグシュウウと泡を吹く。移動するのもめんどくさいので床に尻をついて待機。見あげた天井が冷凍食品みたいにかちこちに冷たいものとしてそこにあった。水面にぶくっと泡が浮かぶ気配に、首を捻ると鍋の底で青い火。立ちあがって覗き込めば、かちこちだったやつがほどけてにゅるにゅると泳ぎはじめている。もうひとつの封をやぶって透明の腹を押すと、ダシの香り。火をとめ器に流し込み、また誰もいない部屋を横切ってソファに腰を沈めた。いただきます。箸ですくいとったにゅるにゅるをくちびるで吸い込む。片手でテレビをつけて適当にチャンネルをまわしていって昼のワイドショー。つるん、歯でちぎったやつが途中でダシのなかに落ち、跳ねて鼻に飛ぶ。
「たっだいま〜」
 ガラララララと急に騒がしくなった玄関、テレビから目を離さないままの背中に、「あっ銀ちゃん何食ってるアルか!私も!私も!」、ぶつかってくる大音量。「お前、食ってくるって云ってなかった」、「もうお腹すいた」、「神楽ちゃん、人間一日三食って決まってんだよ俺いまテレビに忙しいから」、なんちゃら口なんちゃら里の浮気現場あれそれが大袈裟に報じられているニュース画面を、だるい瞳で見やる。箸ですくったつるつるを口に運ぼうとしたら空振り。ずらした目に、横取りしようとくちびるを尖がらせている神楽、「何やってんだコラ」。あ〜もう面倒くせえな、と立ちあがる。上機嫌の鼻歌に包まれた部屋を横切って、もうひとつあった冷凍のやつを、ほったらかしにしていた鍋のなかへ落としいれて火をかける。「銀ちゃん、まだ〜?」、「んな早くできるか」、見あげた天井がオレンジの湯気でもうもうと暑苦しかった。


(買出し)
 レジ横で手分けして袋に詰めていくのも、いつのまにか生活の切れ端になっている。神楽ちゃんが切っていったビニールに僕が惣菜をいれる、それを隣に差し出すと銀さんが袋に詰めていくという流れ作業。ひとりだとモタモタとするこれも三人でやればあっというま、銀さんがいちご牛乳を下に敷いているのが少し危なっかしいけど。転がりおちそうになるジャガイモをひっつかみ、指でこすってひらいたビニールの隙間に落とし込む。店内を流れていく雑音、BGM、アナウンスも耳にすっかり馴染んだもので、この町で生きているということがこういうときふいに染みてくる。冷凍食品を生もののそばに置いているあたり、えらく庶民的だと唇はゆるんだ。最後に渡した長ネギを銀さんは袋の角に折れ曲がらないように入れて真ん中をテープでとめる。「あれ、酢昆布ありました?」 ふと気づいた足りないものを探して台をすべっていった僕たちの目線は、神楽ちゃんでぴたりととまった。その唇がはむはむ動いている。
「何テメーはもう食ってんだ!」
 僕を跨いだ銀さんの手が神楽ちゃんのあたまをはたく。ほら、こういうときだ。この人たちとこの町で生きているということが、まぶたをあっためて、呼吸がしづらくなるほどに。楽しくて楽しくて困る。


(焼きトウモロコシ)
 神楽ちゃんの暴れっぷりに下駄のほうがついていけなかった。鼻緒がぷつんと切れて裏返った下駄の歯が取り残されてもなお、神楽ちゃんは随分と遠くまで走っていってしまった。数秒のち、泥だらけになった裸足でひょこひょこ戻ってきた神楽ちゃんの手にはたぷたぷと揺れる水風船、「おまけでもらった」と呼吸を乱しているのだった。空いているベンチに座らせて水道水で濡らした手ぬぐいで足の裏を拭うと、鋭い蹴りが飛んできて不条理。その手ぬぐいを引き裂いて捻り、五円玉と下駄の穴にとおして強めに結ぶ、とりあえずの応急処置。ふいにかぶさった影がふたりのかおを切り取って、同時にもちあげた眼に、見知った銀髪があらわれる。点々と散る祭の明かりに溶けこむ銀色、眼球を窄めた。「銀さん」、「鼻緒切れたのか」、その目線が神楽ちゃんの裸足にいって、合間にがぶりとかぶりついているのは黄色の粒。「銀ちゃん、何ひとりだけそんなもの食ってるアルか」、「僕たちのは」、同時に訴えかけると、「ない」と一蹴。食いたかったら自分で買え、と云い終わる前に、下駄の歯が銀髪のひたい目がけて飛んでいった。「じゃあ今すぐ先月分の給料払えやアアアアアア」、寸でで避けられたのでもう片方の下駄を脱いでいる神楽ちゃんに、「わ、わかったわかった冗談だよ」。食いかけのトウモロコシを放り投げられる。ひとくちずつ齧っていけ、ということらしい。銀さんが齧りとったであろう黄色が抜け落ち白いのがぼうぼうと生えている、その近くに、そっと歯をたてる。まだすこしの熱があった。黒い焦げあとのついた黄色を口のなかでむしゃむしゃしてから、神楽ちゃんに手渡す、受け取った彼女はがぶりと遠慮なくかぶりついている。ひゅるひゅると花火があがったのはそのあたりだった。川のほうで派手に散ったそれは、僅かにしか目にはいらなかった。銀さんから、また僕にまわってきたトウモロコシ。醤油の焼ける、ぷんとした匂い。……オイ、よく見ると根こそぎ黄色もってかれてんだけど。毟り取られて冬の大地さながらだよ!
「あの、たった一周で食べるとこ微塵もないんですけど」
「ほら新八、花火が綺麗だぞ」
「いやどうでもいいんでそんなの」
「情緒がないアルな、ぱっつぁん」
「何ごまかしてんの」
 なかばヤケで冬の大地に歯を立てた。夏なのに。味気なさのなかに残るしょうゆの香り。さて、やつらのくちびるのはしについた黄色い実を食ってやろうかどうしようか。ひゅるるるる、遠くで花火。


(アイスプール)
 アイスクリームを舌ですくいとる。太陽をちかくに感じる。齧りとったところからぶくりとチョコが溢れて指のあいだを伝って手首まで流れていった。つるつるの床に点々と散らばるのは溶けたアイスと水滴と。肌がひりひりと熱をもっている。デッキチェアの影と、パラソルの影と。
「銀ちゃーん!」
 ぱしゃん。波打つ水面から勢いよくのぼった拳は、水滴をあたりに散らせて、ぶんぶんと揺れた。眼球はいろんな眩しいものにやられてしまっていた。舌にはりつく甘いアイス。プールサイドに水溜りをつくりながらべたべたやってきた新八がバスタオルをあたまにかぶせてデッキチェアに沈んだ。歯でぺちぺち揺らすアイスの棒はとっくにただの木の味だった。「暑い」 両腕を別々の方向から思い切り引っ張られる、嫌々身体を起こすとあたまから落ちたバスタオルがプールサイドで濡れる。白い歯を剥きだしに満面の笑みのガキんちょふたり、空と太陽とみずいろ。「暑苦しいんだよてめーら」 くちびるから棒を抜き取られて数秒後には、みずいろにドボンと背中から蹴り落とされる。そのうえから宙にキックで落ちてきたバカどもあとで覚えてろ。ぶくぶく飲み込んだプールの水は甘いし冷たいしでオーイ誰か助けて溺れる。


(たなごころ)
 うう〜ん、寝返りを打っても逃げられないべたべたとした生温かさを振り切って身体を捻ると肌がひやりと粟立つ。その冷えた指先をべろりと濡れたものがすべっていって、寒さとはちがう意味でさらにぞわぞわ粟立つ。明け方に帰ってきてからまだ二時間ほどしか経ってない、細めた眼球で確認した時計が伸ばした腕でバタンと倒れた。その手にまたヤツが攻撃をしかけてくる、ううううう勘弁して。
 やめろお前、向こう行ってろ。かすかすの声が喉をとおっていった。ぶんぶんと振り回してくる尻尾が鼻先をぼふっと掠める、なんでそんなはしゃいでんの。頼むから寝かせてくれよ。布団に潜り込もうとした髪の毛をひっぱられ、イダイイダイイダイ。そしてまた執拗に舐められる手のひら。そんなに俺の手は塩分でべたべたなんですか。どでかい舌がべろべろと異常なまでに舐めてきて、べたべたのピークを迎えた頃、とうとうがぶりと食らいつかれたところで飛び起きる。「俺の手は餌じゃありません!」


(豚玉)
 キャベツ豚肉たまごの三十層、そろそろ焼けてきた頃合に両手にもったコテでひっくりかえすと豚肉がすこしはみ出る。たまごの卵白がじゅわじゅわ焼けて固まっていくのを見て、あそこ絶対うまい、と溢れでる食欲。「もうソースつけていいアルか」、「まだ」、立て膝をついて壁に凭れかかるようにして待つこと数分。再びひっくりかえしたそれはこんがりといい色に焼けて、素早く神楽がそこにソースを塗りたくった。「ちょっとお前それ激辛って書いてんだけど」、「ウン」、「食えなくなってもしんねえぞ」、「いやこれ銀ちゃんの」、「なんでだよ!」 チャレンジ精神も必要ネ、そんなもん俺にはないから、よしもういいや新八に食わそうそれは。マヨネーズを絞ってタテタテヨコヨコにぶっかけ、青海苔を指につまんでパラパラ、最後にふわふわの鰹節。そこに遅れてやってきた新八が草履を脱いで座敷にあがってくる。「遅い」、「すみません姉上につかまっちゃって」、「お前のこれな」、「えっ焼いてくれたんですか」 鉄板にのせたコテを上下に震わせながら切っていく新八をなるべく見ないようにしてビールを啜る。神楽も何食わぬ顔で店のテレビに目を向けている、おい肩ふるえてっけど。新八のくちびるが、はむっとコテにのっかったそれにかぶりついた。ゆっくりと噛んでいるうちにメガネが曇っていく。「あっおいしい」 と云ってから暫くして、ウッと喉を鳴らす。みるみる赤くなっていく顔にこちらはこちらで別の意味で喉を詰まらせかける。
「ぶっほ!かっ辛ッ!!!!!」


(ネバーランド)
 たまごかけごはんからやっと解放されたかと思ったら、次に待っていたのはとろろかけご飯で口まわりが痒くなって散々だった。そうしてまた巡ってきた神楽の食事当番の日。買い物を済ませて階段をのぼっていくあいだ「お腹すきましたね」なんて気楽に云う新八に、「あんま期待しないほうがいいぞ」とだけ伝えておく。互いに両手が塞がっているので足で無理やり引き戸をずらして足首を擦り合わせ靴を脱ぎ捨てる。どすんどすんと定春が走ってきて買い物袋をぐいぐい歯でひっぱってくる。お前のエサあっち、と新八のほうを指させばそっちにのしかかっていった。ぐえっ、と押しつぶされる新八の悲鳴。奥まで行くとソファのうえの神楽の背中が丸まっている。「おい帰ったぞ」 おかえり〜と振り向いた神楽を目に入れた途端、げっ!と一歩引きさがった。「ごはん出来てるヨ、はいどうぞ」 その笑顔の口元、粘ついた糸がぶらさがっている。「おまっクサイ、あんま近づくな」 顔を押しのけたら手のひらにもネバネバがうつった。ぎゃあ。「っていうかなんでそんなネバネバばっかチョイス!?」 もう勘弁しろよ、と云いながらも洗ってきた箸でぐりぐりとソレを掻き混ぜる。「いいじゃないですかネバネバは身体にもいいんだし」 同じようにぐるぐる掻き混ぜている新八がソレをふっくらごはんのうえにかけはじめた。すでに食べ終えた神楽が冷蔵庫から戻ってきて何かのフタをぺりぺりとめくるのを横目で見て、「ものには限度ってのがあんだよ、俺なんか、もう指からネバネバ出せる気する」、云ってから違和感を感じて再び神楽のほうを見る。
「おまっ!何、俺のアイス食ってんだ!」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと銀ちゃんの分は残しとくネ」
「ぜんぜん大丈夫じゃねえ!そのネバネバの口で食ったもんなんて食えるか!」
 糸をひく食卓、ネバーランド。


(あーん)
 両手にふさがった大荷物、特にトイレットペーパー、十キロの米、持ち替えた腕には赤い痕が残る。もうもうとのぼる煙は、目の前の網焼きからで肉汁がぼとぼとと落ちていくのが見てとれる。すでに二本目に突入している神楽は雨上がりの水溜りで長靴をばしゃばしゃと遊ばせていた。いま荷物を置いたら濡れてやぶれて大惨事の中、はいよ、と伸びてきた串を受け取ったのは新八で、はふはふと歯で抜かれていくネギを横目に見た。くちびるのはしについたタレが目に入る。指に食い込む袋、ずりさがった着流しに雨粒が染みこむ。
「食えないんだけど」
 そこでようやく新八の目がこちらを捉え、「あっ」とこぼした。あっ、じゃねえよ。
「すみません気づかなくて」
 そうして自分の食いかけの串を、こちらに向けてくる。くちびるのちかくで揺れるそれに無言になった。……いやそうじゃなくて、荷物もち交代してくれって意味だったんだけど。首を傾げて「食べないんですか」と問うてくる天然ボケのメガネに「あー……」 面倒くさくなって差し出された串から牛肉を歯で抜き取っていく。抜き取る寸前に串先が頬の内側を刺してきて痛い。噛むと溢れる肉汁。
「おいしいですね」
 なんつうか心臓に悪いこのメガネ、と逸らした目にざっと入ってくる神楽の長靴の残像、ばっしゃあ…跳ねた水で湿った袋から抜け落ちるトイレットペーパー…結局こうなる。


(わらびもち)
 わ〜らび〜わ〜らびも〜ち〜、と耳に届いた瞬間、すぐさま床を蹴って「いってきます!」。ひとつだけな、と上司の伝言をあとに、草履を踏んでそのまま玄関を飛び出る。何故かそのあとから駆け出してきた神楽ちゃんが追い抜いていって、遠くに見える軽トラックに突進している。入道雲の手前で、のぼり旗が風に揺らめいて夏模様だった。遅れてそこまで辿り着くと、乱れた息を整えて「ひとつ」と吐き出す。「三で割れないネ」 数えるのどんだけ早いんだよ。目視で数えたパックの中の塊、う〜んたしかにひとつ余る、「すみませんもうひとつ」。上司から受け取った金では足りなかったので仕方なく自分の財布から出して釣りを受け取る。入道雲に向かってゆっくりと歩いていく帰り、神楽ちゃんのひたいに汗の粒が浮いている。わっらびもち、ぷるんっぷるん〜、とわけのわからない歌を口ずさんでいる。きなこのかかったぷるぷるとした透明に爪楊枝を差し込んで舌にひんやりと染み渡っていくだろうその感触を楽しみに、陽炎のなかを歩いて帰った。定春がべろりと舐めとったので結局、三では割れなかったのだけど。


(ぜんざいパフェ)
 座敷からブーツに足をとおそうとして面倒くさくなる。勝手に新八の草履を拝借。歩きはじめてすぐ、つんのめりそうになる。曲がりくねった廊下をふらふらと歩いていく途中、通りかかった店員をつかまえて便所の在り処を聞く。無駄に豪華なぎらぎらと光る便所で用を足して、手を洗う鏡がまたデカイ。帰り道も同じようにつんのめり、途中で草履が脱げ落ちそうになりながらも、なんとか辿り着いたその座敷にあがりこむと、若い男と年増の女がキスをしていた。「あっ間違えましたすみません」
 隣だった。履き慣れたブーツがくたっている。草履を乱暴に脱ぎ捨てて座敷にあがりこめば新八と神楽が同時にびくっと肩をあげる。振り向いたその瞳は、悪いかおだ。スプーンを手にもったこいつらのあいだにあるのは、おいまさか。もぐもぐむしゃむしゃと口を動かし続けるガキふたりの背中を思いっきり蹴った。微妙に避けられ、アイスと生クリームとぜんざいの大好物に勢いあまって顔から突っ込むはめに。ぶははははは、ぎゃっははははは、と腹を抱えて爆笑するやつら。このあと無茶苦茶バトルした。


(立ち食いそば)
 ひとりで仕事の日は食事は簡単に済ます。肌を刺してくる夏の光線から逃れられて安かったらあとはどうだっていい。駅近くの立ち食いそばの店にふらりと入って、ひたいに浮きでた汗をお絞りで拭ってから、ひとつ注文する。会社員や土方仕事の汚い男たちの熱気で噎せかえっている狭い隙間で、氷の浮いた水を飲み干していると、よお、と声をかけられた。「あ?」 流し見た隣に、前髪で目を隠した忍がぬっと立っている。「目つき最悪だぞお前」 ほっとけ、と一応答えて、店員からソバのはいった器を受け取り、箸を割る。隣の男の前に置かれた器はあと僅かで、どうやら自分が入ったときからいたらしかった。たいしてウマイともいえないそれを啜りながら、「あれか、痔のせいで立ち食いしかできねーのか」、鼻で笑う。「余計なお世話だ」、つゆを一気に飲み込んだそいつは、小銭を置いて、一瞬だけこちらを向いた。
「さみしそうにしちゃってまァ」
「は?」
 次はこちらが鼻で笑われる。じゃあな、出て行く忍装束の背中、む、むかつく、あいつムカつく。器を掻きこむようにして飲み干し、底に残った煮卵を丸呑みして噎せてから、小銭を置いて店を出た。また肌に刺し込んでくる、ありったけの夏。早く帰って風呂で汗流してウチの飯を食いてえなチクショウ。


(そうめん)
 夏真っ盛り、セミのやかましさにとっくにやられている耳は常に蓋をかぶせたみたいに、あらゆる生活の物音を遠ざける。ひかりと命と蔓延るみどりと。失せる食欲、さすがの体力バカどももそれぞれのテリトリーに沈みこんで扇風機と団扇でなんとか生き長らえている有様だった。そのド真ん中に置いた底の深い透明の器から、ちゃぷんと水が跳ねた。汗まみれのふたりが目だけでそれを見て、なんだかんだのそのそと起きあがってくる。ちいさい器につゆを流し込んで少しの水で薄めてから、「はい食べましょう」。三膳の箸が一斉にうつわに突っ込んで、余計めに麺をすくいとる。散った水滴、沈んだ氷、箸のあいだから滑っていくつるつるの麺。ミーンミンミンミンミン。食べながらも絶えず浮いてくる汗を時折、扇風機が攫っていく。だんだんと生ぬるくなってくる口のなか、「新八、氷」、はいはい取ってきてあげますよ。重い腰をあげ熱くなっている床をぺたぺた進む、ひっついては離れる湿気。振り返ったあたりに見える、銀色と夕焼け色。製氷皿ごともってきて親指に力をこめる。そこからぽろぽろと真四角の塊が落ちていった。
「毎日そうめんしか食ってない気すんだけど」 あと一週間で八月も終わる。


(水と油)
 溶き汁に浸けて小麦粉の海を泳がせてから、油の沼へとぼちゃんと落とす。じゅわじゅわ、から、パチッパチッ、と雨音に似たそれへと変わっていくのを耳にいれながら、睫毛を伏せていた。伏せた睫毛のすきまで油が不穏に跳ねつづけ、腕に巻いた包帯にまた血が滲んでくる痛みがあった。手当てのあいだ泣くのを堪えているかのような暗い眼で、あいつは溢れでる血をとめてくれたのだった。ずきずきとした重い痛みはいまだ腕にある。あんな顔をさせたいわけじゃない。ひとりだった頃には気にもとめなかったその痛みが腕に絡みついて視界は狭まった。そのとき、ひときわ強い油がびちょんと跳ねあがる。
「銀さん」
 背後に気配。振り向くのと同時、指に衝撃がある。「熱ッ」 跳ねた油に思わず引っ込めた手を掴み取られて驚く。強い力で、捻った水道水のしたへ持っていかれて目を丸くする。「舐めてたら治るって」と云っても聞きやしなかった。振りほどくことはせずに黙って水を受けつづけていると、蛍光灯のしたで伏せた新八の睫毛が透きとおって見える。ざあああと流れ落ちる水と同じぐらい、それは澄んでいた。
「……痛ぇよ」
 本音は、水の音に掻き消された。
 掴んでくる手の力はますます強まり、目の内で濁った油が跳ねた。


(お茶漬け)
 「茶うすいんだけど」、緑色がこぽこぽと落ちるのを期待していただけに、殆ど透明のそれが茶碗にそそぎこまれたのは頂けなかった。そりゃ三番煎じですからね。薄くもなるでしょうよ。湯飲みからわざとらしく啜った新八の言葉には棘があった、茶葉も買えない万事屋の現状を遠まわしに当てつけにきているのか。箸先で茶碗のふちまわりについた米粒を剥がしつつ坂田はテレビの音量をあげていく。茶碗のふちにひっつけたくちびるから啜った液体は舌を熱くしたが、どちらかというと白湯に近かった。「新八、なんか漬物」 「沢庵か御浸し」 「沢庵」 台所へと消えた気配に、テレビの音量を再びさげていく。無言の圧力をかんじる。あれ絶対怒ってるな。べたべたと、やけにおおきい足音が戻ってきたかと思うと、投げやりに置かれた透明のタッパ。の中に、沢庵がひときれ。「……」 ちかくに腰をおろした新八の横顔に、「あの」、訴えるまえから返ってきたのは据わった目。なんですか。いやなんでもありません。箸を、ひときれの沢庵に刺す。すこしずつ味わうようにして齧っていけば、いつもより沢庵の香ばしさが白湯のなかに溶けていった。茶碗のなかでぷかぷかと揺れる水面に映っていたのは新八だった。それを吸い込む。うすい。吸い込む。うすい。新八がテレビの音量をずんずんあげていった。ひとりではない木曜日の昼。


(フランダース)
 買い物を済ませて帰ってきたらすでにふたりはズビズビに泣いていた。鼻を噛んだティッシュだらけの海だった。横目で流したテレビに映る映像はあの名作中の名作で、今まさに天に召されるシーン真っ最中だった。出かける前に下ごしらえしてあった餡と、買ってきた餃子の皮を黙ってテーブルにひろげ、ふたりに無言でスプーンを突き出す。っていうかまだ天に召されるところだよ。台所いってるあいだに巻き戻したにちがいない。画面から目は離さぬままふたりの指がスプーンの柄をひっかけていって、餃子の皮に薄っすらと水をのばしていく。器用ですねアンタら。神楽ちゃんがティッシュと間違ってギョーザの皮で鼻をかみかけたので全力でストップをかける。ちらと流した目に飛び込む天使たち。メガネが曇ってみるみる水で溢れてくる、うっ見ちゃだめだ。それでもぽろっとこぼれたのが餃子の皮を濡らしていった。
「さだはるううううううううううう」
 とつぜん神楽ちゃんがそう叫んで、びくっと肩が跳ねる。定春も尻尾を逆立てている。いや定春じゃないからアレ、定春の身体にひっしと掴みかかる神楽ちゃんを尻目に餃子を包む。ビデオを抜き取る銀さんの背中が震えている、まだ泣いてるんですかアンタ。結局ほとんど餃子を包んだのは僕だった。フライパンに水をひいてじゅうじゅうと焼いてくあいだ頭上を天使がぐるぐるまわって鼻水がとまらなかった。


(とんがり)
 濡れたヒゲの男にうえから熱風を当てつけているのが滑稽だった。
 そういやあなたもクセ毛ですね、ほぼ毎日一緒にいたのに気づかなかったよ。熱いけど我慢してください別に俺は悪くないんです文句ならあのメガネに云ってください。
「いや僕は悪くないですから」
「あ、いたの」
「何そのわざとらしいかんじ」
「え?ドライヤーの音で聞こえないんだけど?」
 発端は今朝の洗濯だった。明け方に酔って帰って脱ぎ散らかしたやつを洗濯機に向かって放り投げた。その数時間後に、風呂水と洗剤で洗濯機をまわされ太陽のもと干された。俺は昼からパチンコに出かけるつもりだった。新台が今日からだからね。今日は勝つ気がしてるからね。昨日の飲み代の釣り三枚、そうそうたしかポケットにいれて、ん? と、そこではじめて問う。「新八ポケットの中身どこ」
「あんとき、しまったって顔したよなお前」
「してません」
「いやしてた絶対してた、つまりいつもは確認するのに今回は忘れてましたってこったろ」
「ごちゃごちゃうるさいな、大体脱ぐ前に自分で確認したらどうなんですか」
「あっお前そうくんの、へえそうくんの」
 濡れてひっついた三枚をそうっと破けないように端から剥がしていきながらも口論はつづく。なんで俺、四つ折りなんてしたんだ。もう三枚っつうか一枚だよこれ一枚の薄さになってるよ。
「あ〜ほんと面倒くせえ」
 向こうの言葉を遮るようにしてこぼれた強めの一言は、その場に重い沈黙をつくりだす。新八のかかとが床を静かに移動して部屋から出て行った。温まってきたアイロンに手をかざして熱を確かめてから、しわくちゃの紙幣にそっと押し当てた。しゅうっと蒸気。べつにこうやって乾かせば元通りになるし銀行に行けば取り替えてもらえることはわかっている。でも膨れていく苛立ち。「銀ちゃん、開かない」 さっきから神楽はそればかりをしつこく訴えてくる。「力ずくでいけよ」 「絶対パアンてなるヨ」 そこへ新八の足が戻ってくる、視界のすみっこによく知る気配があってアイロンからのぼる蒸気がまぶたを濡らした。
「銀さんすみませんでした、だめそうなら僕が銀行行ってくるんで」
「いやいいよ、もう少しで復活すっから」
「でも」
「いいっつってんだろ、しつけえ」
「……ネチネチ根に持たれても嫌なんでやっぱ行ってきます」
「は?誰がネチネチしてるって?」
「だからそういうとこですよ!」
「ぐぬうううううう開かないいいいいい」
 うるっせえ!とふたり同時に振り向いた瞬間、神楽の手のなかでぱんっと弾けたそれが宙に舞うスローモーション。ばらばらと頭に降りかかる、スナック菓子。「あ、開いたアル」 神楽があたりに散らばった、とんがりを拾っては摘まみとって口に放り込んでいく。新八のあたまにもそれがのっかっていて、つい指を突っ込んでしまう。齧ると、さくっと塩味。「……銀行いってくるわ」 「……僕も一緒に」 「うん」


(ヘタクソ)
 午前七時、炊きたてのふっくらごはんに突っ込んだ手が一気に燃えあがった。ボウルにいれた水に指を浸すというのを繰り返しながら適当な分量をとって手のなかで素早く握っていく。足の裏は冷え切っているのに、ひたいには汗の粒が浮かぶ。先に仏壇に供えにいっていた新八が戻ってきて、隣から米をすくいとっていく。
「あっつ」
「そりゃな」
 水ぶくれしてきた手が忙しなく働き、浸けてあった梅干の瓶から減っていく。皿のうえに並んだ三角形のひとつを味見に齧りとれば、その熱さに今度は舌が膨れあがる。そのあとからやってくる酸っぱさ。
「おいサランラップ」
 冷蔵庫のうえから掠めとったやつを神楽がびりっとやぶったら、くしゃっとひっついて丸まった。
「へたくそ」
 貸せ、と奪ったそれをびりっとやぶいたら、湿っていた指がひっついて失敗した。
 へっと笑われる。


(以心伝心)
 そこのアレ取って、からはじまる朝食。醤油が卓のうえをすべる。
「銀さん」
 名前を呼んだだけ。なのに食塩が卓を華麗に移動。
「おい神楽」
 同じく呼びかけただけ。蓋があけられた状態で宙を舞うケチャップ。
 頬にべちゃっと飛散。
「ぱっつぁん味噌汁ちょっと辛い」
「あ、すみませんお湯まわします?」
 俺がやろう、と立候補すると、じゃあお願いします、と渡される椀からの湯気。
「おい立ったついでにアレ取ってきて」
 銀時からの「アレ取って」命令にキタキタとはりきって、冷蔵庫から黄色い容器を取り出して嬉々として手渡すと、「なんでマヨネーズ? こんなもんかけたら犬の餌になるわ」と受け取ってもらえなかった。その横で、新八ィとリーダーが呼びかけただけでテレビのリモコンが目の前をすべっていく。
「邪魔」
 リモコンを向けられ言い放たれた。「そこのヅラどけて」で、蹴り飛ばされた。
 すごいぞ銀時、そんなことまで以心伝心するとは!


(インスタント)
 冷たい折りたたみ椅子で冬の風に晒されながらひたすらに親指だけを動かす。鼻の穴の左からズルっと飛び出てくるやつを啜って、マフラーを顎までずりあげた。そのあいだも無駄に人間たちは通り過ぎていって、そのたび忙しなく上下させなければならない親指はそろそろ限界だった。つーかあいつらどこまでいったの。うう凍え死ぬ。身体の芯が凍ってきてる。ちんこも縮こまってる。あ、カウント間違った。奥に見えるちいさな彼女、ちっカップルかよ。どうかバナナの皮ですべってください。滅びろ。
「あれ銀さん、こんなとこで何やってんの」
 ぬっと現れたグラサンはカウントしない。おい邪魔なんですが。
「交通量調査のバイト?」
 よし俺もやる、と勝手なことをつぶやいて勝手に折りたたみ椅子を広げて居座るグラサンのおっさん。じゃあ俺は女やるから銀さんは男で。これまた勝手な振り分けをしはじめるおっさんのグラサン。もう言い返す体力も残ってやしない、カチカチカチカチ親指。 
「あれ長谷川さん」
 ようやく戻ってきたあいつらはすでに堂々と春雨を啜っているわカップ麺をごくごくと飲み干しているやら。「はい銀さんの分」 湯気のたつそれは伸びきってるし。「ねえ俺のは?」 あるわけねーだろマダオ。くちびるをつけたカップがぱきりと鳴って、そこからズビと啜ったスープが喉をあたためる。そこに団体の群れが足早に過ぎ去っていって一斉に親指運動カチカチカチカチ。「ちょっと押しすぎじゃありません?」、「いいんだよ大体で」、麺を啜って腹八分目までスープで満たした頃、となりのグラサンにカップを横流し。残り汁やるよ。新八がそれに少しだけ春雨を足してやっている、神楽はネギを手づかみで散らしてやっている、濡れはじめるグラサン、えっ泣いてんの?


(枝豆)
 ハツう、戻って来いハツう。こうなってしまってはあとは寝るだけのオッサンだ。項垂れたグラサンが本体から抜け落ちカシャンと崩れたのを横目で把握。眼で合図すると、伸びてきたバーさんの手が縋りついていた長谷川さんの腕の中から酒瓶を抜き取っていった。黙って盃をすべらすと、「アンタもいい加減やめときな」と悪態つきながらも一応はそそぎいれてくれる、並々とではなかったが。啜ると喉に熱。肘であたまを支えるのが億劫になってきて、いよいよ落ちかかろうとするまぶたを寸でのところでもちあげてはというのを繰り返していたら、ふいに控えめにガラララと鳴った入口。暖簾をくぐってきたのは新八だった。「どうした」 「いや神楽ちゃん帰ってこないから」 「そこ」 顎で指したソファ、眠りこけている神楽の身体が今にもそこからずり落ちそうだった。「あーもうこんなとこで寝てたら風邪ひくよ」 白目を剥いてヨダレまで垂らしてるからあれはもうダメだ。爆睡モードだ。あきらめた新八がこちらにやってきて隣の椅子に体重を沈ませ、頬杖をついて落ち着く。「いや帰れよお前」 ついでにアレもつれて帰れ。
「銀さんは」
「俺はまだほら酒が残ってるから」
 無言。ぶらぶらと文句ありげに揺らしている足から草履が抜け落ちそうだ。
「おい新ぱ」
「小腹がすきました」
「はい?」
 突然の空腹宣言。
「小腹が すきました」
 いや聞こえてるから二回繰り返さなくても。あーうちに酢昆布あったろアレでも齧ってたら、神楽ちゃんに殴られます、一刀両断。さらにはバーさんが余計な気をきかせ器をふたつカウンターに置いてきた、ひとつはぷくりと膨れた緑の盛り合わせ、ひとつは空の。ありがとうございます。新八の指がそれに伸びていって摘みとる。むにゅっと膨れたところを押すとぴゅっとそれは新八のくちのなかへ吸い込まれていった。「……それ食ったら帰れよ」 ひとつ掠めとって唇に押し当ててから膨らみを押す。塩がほどほどに効いている。生温かい塩分が指のはらについてそれを舌で舐めとってから、皮をもうひとつの皿に放り込む。いつもほとんど噛まないそれを妙にゆっくりと味わっているのはお互い様だった。神楽と長谷川さんの寝息がBGMだった。むしゃむしゃ、ぐうぐう、むしゃむしゃ、ぐうがあ。最後のひとつになって、無遠慮に同時に伸びた爪先がかつっとぶつかった。「俺のがはやかった」 「銀さんまだ口のなかいっぱいじゃないですか」、しゃべると黄緑のカスがべしゃべしゃ飛んでいった、「うわ汚ッ!」


(ドッグフード)
 「酔っ払いは連れて帰ります」、「はいはいそうしとくれ」、「すみません遅くまで」、「もうひとりの酔っ払いはここに寝かしとくよ、ところでアンタひとりで大丈夫かい?」 まだ舌の先がしょっぺえなあ、と意識の底で思いながら曖昧に聞こえてくる会話を耳にいれ、さらにとてつもなく重力を感じる。ぶらぶらと腕が揺れているのを感じる、狭まったり広がったりする視界にチラチラとはいってくるのは、どっかでいつも見ている夕焼け色の髪だった。靴がずるずると引き摺られ痛いのなんの……。はあっ、はあっ、と耳にうるさい冬の吐息に、がつんがつんと膝がなにかにぶつかって、だからもう痛いのなんの……。ガラララとこれまた聞き慣れた、帰る合図の音があたりにひびいて、その途端に身体は何かあたたかいものにのしかかる。「うわっちょっと!」 なんだ新八の声か、と思ったときには冷たい床に顎をおもいっきりぶつけてめちゃくちゃ痛い。ちかくに新八のメガネと、神楽の寝顔と、あれ、ここどこ、あ、玄関……。そこに突然べろりと三人いっぺんに舐めてくる、定春の舌。「重い」、とすぐちかくで声がした、「ワオン」、と頭上から鳴き声がした、「う〜んむにゃ」、と横から足の裏が飛んできた、そのとき定春のへっへと垂れる舌から濡れたものが落ちてくる。枝豆? とぼんやりとした意識で手を伸ばそうとしたら誰かによって遠ざけられた。
「俺の枝豆……」 いやちがうから、とあたまに落とされるチョップ。


(カボチャ)
 朝から二回吐いている、もうお酒にはこりごりです。胃をあまり動かさぬように寝返りを打ったつもりでも内臓が蠢くのを感じます。「かぐらあ……」と弱弱しくこぼした生ぬるい息が布団を湿らせる。暫くのち、ずらされたふすまの隙間から覗いた丸い瞳に冷たく見おろされる。「水……」 黙ったまま強めに閉められると余計に胃にこたえる。にぶく痛む頭を枕にこすりつけて大人しく待っていると、再び強めに襖がずらされた。「ハイ」、神楽のもつコップの底から落ちてきた水滴がひたいに染みこむ。「つめたっ」 ひたいを袖で擦りながら上体をそっと持ちあげると再び吐き気。なんとか受け取ったコップにくちびるをつけていると、「新八がちょっと台所こいって」、と伝達される。俺のこの状態がわかるか、すこし動くだけで吐きそうなんだよ。喉から胃に落ちていく冷たい水の存在をありありと受けとめながら訴えようとしたらその相手は既にいなかった。飲み干し、ずるずると引き摺るように布団から這い出て、足の甲をすべらして踵を畳につける。立ちあがるとまたせりあがってくる胃液が酸っぱい。
 踏み込んだ台所、新八と神楽がふたり並んでああだこうだやっている。「何」、ヘビのような声を這わせると、ふたり同時に、あの冷たい軽蔑を湛えた瞳で振り向かれる。だからそれが胃にこたえるんだって。
「これ固くて」
 覗きこむと、包丁が途中まで突き刺さったカボチャひとつ。目をぱちくりさせたら視界が歪み、あ、また吐きそう。「どけ」、割って入って力任せに奥まで包丁をすすめるとヘタまで到達した感触がある。そのまま手前にひいていくと、たしかにこれは固い。寝間着が汗で吸いついて余計に気分が悪くなってきた。どんぶらこ、どんぶらこ。と謎の効果音による耳鳴り。それは桃太郎だから、と吐き気ピークのところでストンと包丁が落ちる、その反動でまな板が震えた。反対側も同じようにして、どんぶらこ切りでいく。あっさりストンと落ちる。カボチャから離した手でくちびるを覆い、再び便所へ駆け込む。胃から出るもんがなくなるまでオエオエやってから水で流して便所を出ると神楽と鉢合わせ。「カボチャ二日酔いにいいらしいネ」 「……そう」 寝る、と言い残して踏み入った畳、後ろ手で襖を閉めると音が遠ざかる。皺くちゃの布団に潜り込んで寝転べば胃がまた蠢く気配。襖の向こうで水を流すのやコトコトと煮込む音、移動する足音、ぼそぼそと話す声。まぶたのうらを流れていく、ひかりの川。眠れそうな気がする。「銀さんご飯ですよ」と次に起こされたら、そのときにはたぶんあたたかくてやわらかい黄色で飯が食える。


(ゆき)
 夕暮れのつくえに置かれた透明のうつわは濡れていて触れるとさぞや冷たいのだろうなと。なんでこのくそ寒い日にカキ氷?とこぼしかけた言葉は、赤いシロップのしたで光るものを目に入れて、「これ何」、に変わった。「雪です」 いや見たらわかるけども。「お前な、そりゃ雪は一見とてもウマそうに見える、ガキなら一度でいいからあれにシロップぶっかけて食ってみたいと夢みることもあるだろう、でもよく考えてみろ、雪には不純物がいっぱいだからね、それにもしかしたら犬が小便かけてっかもしんねえというそういうアレも」、「タバコ屋のまえに雪だるまあったでしょ、あれが溶けかかってたから貰ってきたんだよ」チャイナとメガネ同時にあーん。え、銀さんは無視ですか。シャクシャクシャキシャキシャクシャク、あきらかに雪を食べる音ではないものが混じっているのでは。「腹こわすの決定だなお前ら今夜は便所合戦か?」 ふたりのガキはにんまりと笑った、シロップがこいつらの歯を赤や青に染めていた。かと思うと、いっきに雪を掻き込んでしまう。え、何、もしかしてウマいの。自身の手元で次第に溶けつつあるソレの匂いを嗅いでみる、さむい日に嗅ぐあの匂いと同じ、無臭のはずなのに鼻の奥が刺激される類の。銀さんも食べてみたらどうですか。「え、いいよ」 そう云わずに。騙されたと思って食ってみろヨ。 「いやだからいいって」 突然、メガネがくちびるにスプーンを突っ込んできた、「うっ!」 ぐえっとなって思わずひらいたそこに、つめたい、つめたすぎるソレが雪崩れ込んでくる。歯茎から脳にかけて痺れが駆け巡った、そのあとから甘いやつが舌のうえにじっくりと広がっていった。どうですか。メガネの奥で真剣な色を秘めた新八の目があった。なんでこんなことに真剣になるんだ、どこぞで拾ってきた雪でつくったカキ氷、こいつの考えることはたまにわけがわからない、喉に落ちていく冷たい塊が身体に伝っていくのを感じていた。
「染みる」
 いろんな意味で、と付け足す。すると、ぼうっと曇ったメガネの奥の眼がやわらかく笑った。なにがそんなに嬉しいんだ。実のところウマイとは決して云えたものではなかったし、ただただ冷たいだけでどちらかというと泥くさい味がした、あとから舌にひろがった甘いやつがなければなんともくるしいものだった。
「その味、忘れないでくださいね」
 もうすぐ春ですね、と更にわけのわからないことを付け足すメガネだった。


(見ていたあの日)
 便所に立ったときだった。廊下をころころと回転してきたそれの穴に指をひっかけ台所を覗けば、ざくざくと上下運動していた包丁をとめ火を弱めた新八が振り返って、「あっすみません飛んじゃって。入れちゃって下さい、もったいないんで」「へいへい」 水道水で軽く汚れをとってからレンコンの穴をとおして新八を見る。引いていた糸がぱちんと弾け、穴のむこうで新八が笑った。
「見通し、どうですか」
「あ?」
「先を見通せるって云うでしょ」
 あーそうだっけ、坂田は穴からずらした眼を新八に向け、
「今のお前なら見えてるよ」
 何の気なしのことば、見開いた新八の瞳が揺れに揺れたのだった。そこから今にも何かが溢れてきそうに震えたのだった。え、何だよ。云いかけた坂田のあたまに重みがのしかかる、匂いにつられてやってきた神楽だった。新八はまぶたを袖で擦って、はやく入れちゃってください、と鼻声を搾り出す。へいへい。沸騰した鍋にレンコンを落とす。ぽちゃん。穴から吹き出た泡はまるで蝶のすがたをしていた。


(ひとり鍋)
 夜更けに帰ったのにあいつらはまだ起きていて「どうせ食べてないんでしょう」とすこし機嫌のよろしくない新八が台所に立った。とろとろのまぶたで神楽が肩に凭れかかってきてはまた頭をもちあげている、「もう寝ろよ」、そうやってちかくにいられると血の匂いに気づくだろうと思う、こいつのことだから。神楽は黙ったまま、まぶたを擦って鼻をひくひくさせた。ミトンをはめた手でそうっとテーブルに置かれた土鍋からは湯気が揺らめいていて忘れていた食欲がからっぽの胃を刺激する。「……お前いま何時だと」、「いいから食べろよ天パ野郎」。ドスのきいた声で言い放たれ唾を呑む。ちなみに肩にある気配は、眠気で凭れかかってくるというよりほぼ頭突きに変わっていた。黙って出て行ったことにむかついてんのはまあ仕方がないとして、目の前にある土鍋は些かいつもよりも具沢山で、こんなの食う余裕あったんですかウチ…まあいいや面倒くせえ食っちまおうとお玉ですくった具を小皿に沈め、くちびるに持っていったところでピタリとまる。両隣からの圧迫感。右に新八、左に神楽。右にメガネ、左にヨダレ。近い…なにこれ…構わずかっ食らうと予想以上の熱さにくちびるの裏がわを火傷した。左右からじりじりと寄せられる視線はさっきまで眠気眼だったくせに今ではばっちり開かれていて汗をかく。あーもうわかった、とつぶやいて、適当にエノキあたりをひっつかんだ箸を左右順番にガキどもの口に突っ込んだ。はふはふと天井に向いた顎でエノキを噛んでいる、満足ですかコノヤロー。つぎに豆腐を割っていると、またも物欲しげに注がれる視線に、いやもうお前ら勝手に取れよ面倒くせえ、小皿を左右にすべらしながら鍋を掻き回す。
「そしたら僕らが銀さんのぶん取ったみたいじゃないですか」
「いや取ってんだろうが」
 それでも一向に箸をつけようとしないので、みっつに割った豆腐のきれはしをガキどものくちのなかへ押し込む。何、この雛にエサ与えてる親鳥みたいな図。ぶくぶくと煮え立つ鍋のなかを覗きこむ。ハァ、いつのまにかこいつらと当たり前に飯食ってんな、毎日。


(食っては生きて)
 銀さん起きてください。肩を揺さぶられ覚醒。まだもうちょっと、と布団に潜り込む。その布団をひっぺがされ、それでも愛しのシーツにしがみつくと、それごと畳のはしっこまで転がされた。容赦がないし、寒い。頬からぱらぱら落ちたイグサの匂いとともに仕方なくだるい身体をひきずって布団をたたむ。慌しく新八が動き回っているのを横目に台所に行き、歯ブラシを手にとって粉を搾り取っているところへ、寝癖ぼさぼさの髪で半目の神楽がぬっとあらわれて、水でじゃぼじゃぼ顔を洗いはじめる。その隣で新八が魚を焼いている。歯磨き粉のミントと、じりじりと焼けていく魚のにおいが、混じりあって混沌とした。
 テレビをつけていつものブラック星占い。まだ覚醒していない眼に結野アナの明るい笑顔がぼんやりかすむ。運ばれてきた朝食、まず味噌汁に口をつけて、熱い液体を啜る。わかめが舌にはりついてぬるぬるとする。テレビから目は離さぬまま甘すぎる卵焼きを割った。占いの結果に神楽のあたまがかぶさって邪魔。ばたばた行き来していた新八もようやく腰をおろして海苔の袋を開けている。食卓からのぼりつづける湯気、騒がしくなりはじめる外の喧騒、足元でがつがつとドッグフードを掻きまわす気配、テーブルについた肘から伝わってくるこいつらの振動、まぶたが再び落ちかかる。身体を撫ぜてくる眩しいやつにとろとろと意識を溶かされる。銀ちゃん食べながら寝てるヨ。えっちょっともう行儀悪いですよ。舌にのこるものを飲み込む、あたたかいものが喉を落ちていって内臓をとおってじゅっと染みこむ。そのたしかな熱はなんというか、今ここに生きていることをゆるされているようで、たまに、ひどく苦しい。

2014.04.04/食っては生きて