ささくれた指の先を見ていた。爪の隙間はどす黒いもので詰まっていて、洗っても取れなかった。先程から人間の燃える匂いがしている。なるべく鼻から息を吸わぬようにしていても駄目だった。もくもくと空に昇っていく煙のなかに人魂が紛れ込んでいるとは思えず、坂田はただ自身の指のささくれを見ていた。爪の根から少しはみ出した此のささくれが妙に引っかかるんだよな、なぞと考えている。どうでもいいことだった。どうでもいいことを考えるほど、あの饐えた匂いに意識が向くのだった。
 酷い音がした。爆弾でも落されたのかと思って外に出てみると、おおきな穴がひとつ増えていた。遺体を燃やしていた場所のはずだった。奇襲じゃ、と坂本が外に飛び出していった。空が赤かった。太陽の落ちる時刻だった。夕焼に、ぽうぽうと巨大な船が浮いていた。そこからふたつめの爆弾が落ちてきて、また酷い音がした。鼓膜が震え、眼前が目まぐるしく動く。身体が真っ二つに引き裂かれてしまった。そういう妄想が脳を駆け巡った。刀が錆びてしまっている。たつま、と叫んだ。視界が赤いのは、太陽のせいか爆弾のせいかわからなかった。突如、頬に触れるものがあった。それが執拗に頬を撫でるので、触れてみたら冷たい。髪の毛だと気付いた瞬間、目の前にぬうと桂の顔が迫った。奇声を出すと共に、坂田が一歩下がると桂もまた一歩迫ってくる。銀時、おまえ変な顔をしてるぞ。……は? その桂の背後で、閃光が走る。いやおまえンなこと言ってる場合じゃねェだろうが!と言いかけた坂田の視界に、天人の乗る巨大船が傾ぐのが飛びこんできた。地面に黒い影が走っていく。口を開けたまま坂田が見ているあいだ、次々と緑や黄や赤の天人たちが船から落ちてくる。おいおいおい、あれこっちに来てない? 坂田は小さく呟いた。次の瞬間には船が小爆発を繰り返しながら此方に突っ込んでくる。うじゃうじゃとそれに交じって天人たちが地上に激突し、それを避ける間もなくなにやらヌメヌメとした感触の肌をもつ宇宙生物と人間でその場は揉みくちゃとなった。桂は順応が早く、すでに次々と天人たちを切り伏せていく。坂田にも銃を向ける者がいたので、とりあえずそれらを斬っていたら、なんだかもう現実なのか夢なのかわからなくなってきた。坂本は生きていた。あの巨大船に飛び移り、操縦士を薙ぎたおし船ごと地面に突きさしたのは坂本の仕業だった。桂も坂本もなにが可笑しいのか笑いっぱなしだった。ああもうバカばっかネジ外れたやつばっかだな、と坂田は敵を斬り、その返り血を浴びながら思った。空が赤かった。坂田の耳奥からネジがぽおんと飛び出た。人間の燃える匂いがしている。天人の口に突っ込んだ肘が唾液でまみれて光った。桂と目が合う。その瞳孔が三日月形に歪んだ。
 まだ変なかおをしているな。火のそばで桂が言った。俺はどこぞのアホどものせいで疲れきってんですアホどものせいで。夜になって空気は鋭利になり、少し掠れば切れてしまいそうなほど冷えきっていた。坂田の頬を、桂が指で突いてくる。……うっぜえな何だよ!あのな銀時、昨日おかしな夢をみたぞ。火に手のひらを翳し、じわじわと指先に神経が戻っていくのを感じながら坂田は桂の言葉を聞いていた。たぶん雪が降っていて、たぶん俺は童に戻ってて、たぶんお前が出てきた気がするんだけどな。ぜんぶ多分じゃねェか。でも、その夢が今も続いている気がする。桂の横顔が火に照らされて白く浮き上がっていた。何故だかはわからなかったが、坂田はその桂の横顔を見ていられなくなり視線を背けた。飛び散った火の粉が坂田の手の甲についた。これが現実だ、と呟いた。ああ、そうだな。桂の笑う気配がする。
 何日も風呂に入っていないので、桂の髪の毛から艶というものが消えていた。少しべたついた桂の髪の毛を坂田は見ていた。先程から匍匐前進をし続けているので、至るところが擦りむけていた。先に進む桂の髪が仄かな匂いを放っている。空に三日月が出ていた。その周囲に天人の船が無数に浮いていた。帰りたいなあ、と坂田は思った。なんかもう面倒くせェから帰りたいんですけど、と思った。斬るのも殴るのも潰すのも諦めるのも殺すのも焼くのも面倒くさいと思った。草叢のなかを腹這いになって前進しながら、思い出すのは昔のことばかりだった。ヅラはあんときからアホだったな。あんときからどうしようもなくアホの塊だった。艶を失った桂の髪が揺れている。坂田は目を閉じた。それでも進むしかなかった。後から後から押し寄せてきて、止まることなどできなかった。進んでいるようで、戻っているのではないかと思った。あの月は、何処に浮いているのだろう。俺は、何処にいるんだろう。
 銀時、と幼い桂が笑う。その虹彩が歪に光る。雪が降ってきた。桂の手のひらに、ひとかけらの氷がのっている。坂田は呆れて、それを見おろしていた。ヅラ、霜焼けなんぞ。ヅラじゃない、桂だ。そう言いながら桂の目線は手のひらに集中していた。四角い氷がゆっくりと溶けていき、桂の手のひらを濡らす。つべたい、と桂の青紫になった唇が言う。おまえ、馬鹿だろ。と坂田は溜息を吐き出す。白い塊が空気中に浮かびあがり消える。やがて桂の手のひらのなかの氷がすべて溶けきったとき、桂は頭上を見上げた。灰色の冬空から雪が舞い落ち、桂の鼻頭に溶けていく。溶けたら同じだ。雪も、氷も、溶けたら皆おなじだ。桂の目線が、空から坂田へとずらされる。俺たちは、どうなっていくんだろう。……さあな。坂田は奥歯を噛み締めた。じわり血の味。ずっとこのままでいられるだろうか。桂の瞳が揺れる。……さあな。
 ひたすらに匍匐前進。夜を進む。前に手をずらしていく途中、黒土が爪の隙間にびっしりと入り込んでくる。饐えた匂いが鼻につく。擦り切れた肘や膝がひりひりと痛む。これが現実だと坂田は目を開ける。そのとき、ふと前を行く桂が止まった。おいヅラ、と呼びかけると同時、坂田の瞼に強烈な光が刺す。見上げると、一隻の天人船が此方の方角を照らしていた。反射で刀の柄に触れ、坂田は息を整えた。桂が、立ち上がる。瞬間、すべてを遮断する。進むしかない。坂田は眼を細めた。

2011.12.28/夢浮橋