今にもプールに吸いがら投げいれそうな手。ガラスの隔たりこそなければ。
 そうして高杉の指の間で煙草が動くたび坂田の眼球もかすかに揺れた。
 とめるつもりのない目だった。ガラスの隔たりがなかろうが。
 背後をながれていく車のライトもまばらな夜更け、ちかくにコンビニも見あたらない街角で、プールを見かけてから立ちどまったままそのガラスに凭れていた。そこに貼られた、スイミングスクール、という字の『ミ』を爪先でひっかきながら舌打ちしたのは坂田のほうだった。その銀髪を擦りつけるようにして覗いてる目に、プールサイドの闇が広がる。昼間は子どもがつかまっているはずのレーンも今はパーティーで飾る輪つなぎのように弱弱しい。
「なんでガキはビート板を噛むんだ」
 なにも言わない高杉は、スイミングスクールの『ク』のあたりに背を擦りつけたまま銜えた煙草の先端を見ている。夜のプールから滲みだす淡い発光のようなものが、高杉のその横顔をよわっているように見せていた。頬についた傷痕は風ひとつでまた切れて血が噴きだしそうだった。ポケットに突っ込まれたままの坂田の拳の皮もべろんとめくれあがり、冬のつめたい空気に五秒と晒していられない。立ってるだけで痛い冬は、ただ日々を生きるだけのことにでさえ行き詰まってくるようなバカには優しくできてない。ハ、としろい息を散らす。あのころプールに上級生を沈めてた高杉はあいかわらず何を考えているのかわからないような目つきで、そこに佇んでいた。

 あの日、暴力に飽きた坂田は上履きに迫ってくる水を避けて、周囲のマンションに当たるオレンジの陽に目をやった。アンテナで反射する陽射しに細めた目をまた戻すと、振りおろされる高杉の腕から飛び散る水飛沫がかかった。血で染めあげられた、まぶたでは。そこにあるほんとうの色なんて、まるで見えてこなかったが、

 高杉の気配だけが鈍くそこにある。いつも。


 結局プールを前にしてはひとことも口をきかなかった高杉が明け方になってふらっと牛丼屋に飛び込んだ。こちらを見ないようにしていた店員が注文だけ済ませてひっこんでいったあとも特に口をきくこともない。数十時間ぶりに胃のなかにいれるのが牛丼だということ以外はこのふたりにしてみれば平和で、敵のいない朝だった。
「俺はなか卯の親子丼が食いてェんだよ」
「向かいにあんぞ」
 テーブルに置かれた丼を見おろす。ずらしたネックウォーマーからはこの平和には似つかわしくない血の匂いがする。なんとなく横を向いたら高杉はすでに牛丼を掻きこんでいた。口のはしについたタレがバカみたいで、ちょっと痛い目にあわせてやろうか、なんてことを思う。思うだけで今日も手を出さない坂田は遅れて箸を割りながら勢いよく牛丼を掻きこんですぐ、むせた。元々、あちこち血みどろだったのを忘れていた。高杉の笑う気配。やっぱり痛い目みせてやろうか。と口もとをおさえながら見あげた目に、コップの水が突きだされる。

 一瞬だけ、それはプールの揺らめきに繋がった。過去のそれが、今日のそれに繋がったような。

 ただ日々を生きるだけでいっぱいいっぱいだよ、特にお前とは。
 ふいに、そんなことを言いかけて、やめた。
 このまま行くとこまで行ってこの先どうにかなるなら、別にそれはそれで、と坂田がまた牛丼を掻きこもうとしたところで、いつもの読めないかんじのトーンで、なんでもない日常のように降って落とされる高杉の声。
「ちなみに金ねェぞ」
 うつわをもちあげたまま、固まる。……ちなみにってなんだよ。
 掻きこむスビードを速めつつ、やっぱ無ェわお前とは、と鼻で笑う。
 食い逃げカウントダウン十秒前。

2015.12.08/気分は牛より鶏だった