待っている間、沖田が手を擦り合わせていると女郎屋から禿が出てきて鞠をぽんぽんつき始めた。あんたがた何処さ、と股の下をくぐらせては地面で跳ねっかえる鞠の軌道を目で追っていたら、ふいにひるがえった着物の裾にダブるようにして記憶がひっぱりだされた。ついと逸らした沖田の瞳に、小走りで戻ってくる山崎の姿あり。遅い。すみません。ラーメンが無性に食いてェなあ。はいはい奢りますよ。襟巻に顎まで埋めて山崎と連れだって歩きはじめた。あんたがた何処さ、禿のしゃがれ唄に合わせて、ぽおんぽおんと地面で跳ねっかえる鞠の残響が、どこまでもついてくる。あんたがた何処さ、あんたがった何処さ……

 正午である。ラーメンから立ち昇る湯気。沖田は箸を割る。うつわから油の浮いた出汁を吸い込んでいるのは、背中を丸めた山崎だった。氷が溶けてグラスの水を増やす。禿のちいさな掌、それが鞠をぼよんと突く残像が目玉にはりついたままだった。こいつに待たされたせいで嫌なもん見た、と山崎の脛めがけて蹴りを一発。
「回りくどいなァ監察ってやつは」
「そうですか?やってみると案外楽しいもんです、少なくとも俺には合ってますね」
「へえ、俺は斬るほうが万倍いいや」
 斬るほうがずうっといいや。
 沖田の爪の中には、どす黒い血垢がびっしりと詰まっている。


 まだ沖田が武州で暮らしていた冬のこと。囲炉裏のそばで沖田がまどろんでいるとミツバがそっと近付いてくる気配がした。彼女は十能を手に沖田のそばにしゃがみ炭を追加すると、そーちゃん風邪引くわよ、と言った。やかんに手をかけて湯呑みに茶を注ぐ彼女の手首が沖田の視界に入る。目を擦り覚醒すると沖田はぶるりと背筋を震わせた。差し出された湯呑みを手に取り一口啜ってほおと息を吐く。ミツバは沖田の正面に座り縫い物を始めている。沖田は立ち上がって襖の隙間から外を見つめた。あまりに静寂であった。きっと雪が降るわ。ミツバが糸を舐めつつ言った。そのとき覗いた彼女の赤い舌が妙に沖田の記憶に残っている。そのあと彼女は静かに言ったのだ。そーちゃん、ごめんね。彼女の睫が震えたために彼女全体が震えているように沖田には見えた。何がです。沖田が振り向くと、ミツバは口角を緩ませてその先は何も発さなかった。沖田はその彼女の姿に、言い様のない不安を覚えた。
 翌日のことである。沖田が道場から戻ると、ミツバがこの寒いというのに鞠をついている。姉上なにを。走っていって声をかけると、ぽおんと地面で跳ね返った鞠が彼女の手に吸いついた。そーちゃん、早かったのね。鼻のあたまを染めたまま、ふふと微笑った。これ出てきたの。そう云って手のなかの鞠を軽くぽんぽんとついて、彼女は唄を口ずさんだ。あんたがた何処さ、軽やかに鞠をつくミツバの姿をぼんやりと見つめていると、また言い様のない不安に駆られていく。姉上。なあに。如何して昨夜謝ったりしたのです。鞠の跳ねる音だけが耳を突いて、沖田はますます胸の掻き毟られる思いだった。……姉上はとても優しいです。ぽおんと高く鞠があがってミツバの手の中でとまる。いいえ。鞠の表面をそろりと撫ぜる姉の爪は美しかった。私はちっとも優しくなんてなれやしない。なれやしないのよ。
 手のひらから鞠が落ちていき、あんたがた何処さ、唄の合間に股をくぐらせては着物の裾がひるがえる。煮てさ、焼いてさ、食ってさ、唄に合わせて着物の裾から生白い足首が覗く。とうとう雪が降りはじめ、華奢な姉の肩を冷たく濡らしていった。沖田は俯いたまま、ミツバの足首だけを見つめていた。じゃりじゃりと下駄が地面を擦る。ひっきりなしに雪が落ちてくる。(自分は何があろうとも此処に帰るのだ。)(たとえどれほどの人間を斬ろうとも。)姉が鞠をつく、ぽおん、ぽおんという音がいつまでも耳底をふるわせる。

2009.11.03/裏切り