冷蔵庫の扉が開いている。
 閉め忘れに気づいてやって来た土方は扉に手をかけ、冷気の中に顔を数秒突っ込んだ。そこに入っている大量のマヨネーズ群に見つめられながら閉めた扉には、先月の血液検査の結果が貼ってある。※のついた中性脂肪を隠すようにマグネットをずらしてから食卓につき、煙草に火をつけた。灰皿をとるついでに出前表のファイルも引き寄せて、億劫そうに捲っていく。何枚目かで、激辛と刷られたものが目についた。そこに載っている、真っ赤な料理たち。見ているだけで、辛くなってくる。土方は子機を手に取った。番号を打ち込み、消し、打ち込み、消しを何度か繰り返した。そのときふと薄暗かった部屋が嘘みたいに明るくなって、土方は顔をあげた。風に膨らんだカーテンの隙間から射すそれが、返り血のように視界を染めた。
 土方は電話をかけた。呼出音は短く、相手はすぐに出た。話しだそうとして声を詰まらせた土方は肺に溜めた煙を吐き、喉を鳴らす。
「んん、あ、すみません出前の注文いいですか。はい…あーはい、そうです、…北団地の…H棟で、土方といいます…はいお願いします……えーとエビチリ、回鍋肉、青椒肉絲、麻婆豆腐、油淋鶏、……」
 通話中のその声はすぐそばに誰かがいる潜め方だった。空気しかないそこに土方は時々無意識に視線を投げ、瞬き、つらつらと辛い物を注文し続けた。最後に「ぜんぶ10辛で。大丈夫です」と告げて通話を切った。
 することがなくなると、途端に部屋中の汚れが目につきはじめた。角に溜まった埃や、カーペットに落ちた毛、シンクの水垢や、壁の油汚れ。それらを眼球だけ動かして見回しながら土方は煙草を吸った。煙草を持つ指は爪が伸びていた。
 どこかでピアノが鳴っている。同じところで何度もつっかえる。薄い壁越しに赤ん坊の泣き声がする。何かを欲してやまない声。テレビをつける。チャンネルを競馬放送にして、パドックをぐるぐる回る馬に虚無をそそぎ続けた。
 その体勢のまま時が過ぎた。止まっていた土方の思考が再生したのは、上階の床ドンだった。毎日同じ時間に始まるそれは、どう考えても飛び跳ねているとしか思えないので、土方はトランポリンタイムと呼んでいる。
「遅い」
 見える範囲に時計がないため、土方は体感で言った。立ちあがって窓辺へ。カーテン、窓、網戸を開け放ち、つっかけに素足を突っ込み、手すりから身を乗り出す。人けはない。団地中で数多の住人が蠢いているのだろうが、外は傾きかけた陽によって、なにもかもが死んでいるみたいに透けていた。
「来た」
 暫く経って、排気音と共に敷地内に入ってくる原付が見えた。死んだ視界に入り込んできたそのバイクのぎらつきに、土方は無性に渇きを覚えた。何日ぶりかにこみあげた食欲だった。
 H棟の前に停め、ヘルメットを外し、降り立った配達員の男が、手に岡持ちをぶらさげ、手前に消える。土方は部屋に戻り、灰皿に煙草を押しつけ、財布から紙幣を抜き取って玄関へ行った。そのときちょうどチャイムが鳴った。鍵を捻って、重い扉を押す。入り込んできた油っぽい匂いが、土方の空腹をかき混ぜた。
「まいどどうも〜遅くなってすみません。少し迷ってしまって。いや〜ものすっごい団地群ですね。途方もなく並んでて、果てが見えない」
「はあ」
「エッチ棟どこだ〜ってぐるぐる彷徨ってました」
「エッチ? ああ……」
「でも冷めてはないんで。まだ熱々です。ここでいいですか?」
「はあ、どうも」
 上がり框に置いた岡持ちの蓋が上にずらされ、中から次々料理が出てくる。どれもこれも酷く辛そうで、胃に相当こたえそうだった。
「大丈夫ですか? うちの死ぬほど辛いですよ」
「知ってます」
 屈んだ男が框に乗り上げたその膝に、来客用のスリッパが潰れた。下から無遠慮な目線を寄越される。目をひく銀髪は、一度見たら忘れない。
「あっやっぱそうだ、夏だったかな、お客さん店の方にも来てくれましたよね。綺麗な奥様と」
「……」
「あ、すみません違いました? 彼女さんでしたかね。表札が連名だったので。いや〜彼女さん綺麗な顔して平気でバクバク平らげていかれるんで覚えてますよ、ジョロキア入りのスープにさらにデスソースぶっかけててバカ…じゃないギャップ萌え?的な。お客さんは一口目で火吹いてましたけど」
 土方に目を定めたまま男が立ち上がる。男の膝に潰されていたスリッパがゆっくり元の形に戻っていく。目が合った。こちらを通り越して部屋の奥の方まで見られている気がした。
 よぎったのは油まみれの換気扇の下、中華鍋を振りながら時折ふっとあがる眼の影……頭に巻いたタオルを外しながら出てきた男のレジを打つ音……釣銭を渡す際に見えた手首の細かな火傷……
 あの日と同じく紙幣を渡し、釣銭を受け取る。離れていく手にちらつく火傷の跡は、あのときより増えたように見える。「皿は外に出しといてください。明日の朝、取りにきますんで」と言ってドアノブに手をかけた男の背中を見送る。出ていく扉の隙間に赤く滲む陽。それは今から土方が食べようとしている赤だった。
「なんで辛いものって、赤いんだろうな」
 土方からボソッと漏れた。そんな微かな呟きに男は扉を押すのを中途でとめ、肩越しに振り返った。どこか遠い目で笑って、言った。
「甘いのにも、赤いのありますよ。イチゴとか」
 じゃあ、と男が出て行った。ドアが閉まる。土方はまた一人になった。食卓まで運んだ料理の皿から、ラップを剥がしていく。ものの見事に赤い。麻婆豆腐を一口レンゲですくって口に入れた。火を吹いた。エビチリをぱくっといった。火を吹いた。担々麺を啜った。火を吹いた。今ならドラゴンにも余裕で勝てる。村を焼きつくせる。辛くて辛くて死にそうだ。視界に膜がはる。


「死ぬほど辛い所に、十四郎さんと行きたいの」
 あの日夕焼けに向かって手を引かれ、辿り着いた店で、次々と激辛を咀嚼し飲み込んでいく女の喉を。唇をテカらす油を。耳にかけられる細い髪を白詰草のブラウスに飛んだ赤いシミを。
 目尻に滲ませながら土方は、まとめてガツガツかっこんだ。赤い汁がそこらじゅうに飛び散った。それを、そのへんにあったもので拭う。ぬぐっているそれはよく見たら、喪中ハガキだった。


 翌朝。果ての見えない団地群をバイクで走る。建ち並ぶこれらには、おびただしい数の人間が暮らしている。姿が見えなくとも、いる。
 まだひとつも灯りが点いていないその下を排気音で通過しながら、昨日の客のことを思った。姿は見えなくとも、あの家には他にも誰かの存在を感じた。女の気配だ。奥さんだか彼女だ知んねえけど。覚えている。夏の夕方。連れ立って店に来て、死ぬほど辛いのを分けあっていた。幸せそうに。一生分のように。
 近道に茂みを突っ切り、H棟が見えてくると、ぐずぐずと失速した。バイクを停め、空の岡持ちを持って階段をあがっていく。昨日と同じ階。同じ部屋。息を切らしながら立ち、目線を下げる。
 ドアの前には、空の皿が綺麗に洗って積んであった。
 アレ全部食ったんだろうか。バカだ。
 しゃがんで、カチャカチャと回収しながら、ふと何かが欠けている気がして顔をあげた。
 表札が、無い。
 昨日まであった連名の表札が、消えていた。
 名前の入っていない空っぽのプレートに、暫し呆けてから、我に返ってそこから去った。

2021.10.09/死ぬほど辛い