お題箱:定年間近、独り身、銀八
この時期よく耳にするジョン・レノンの歌と共に、銀八は自動扉から吐き出された。それと入れ違いに駆け込んできた子供に体当たりされる。軽くよろめきながら振り向いた店内に、ひしめきあう人だかりは大半が家族連れだった。今のタックルのせいで角が潰れた四角い箱の中身を覗きこむ銀八の目に、崩れたスポンジの傾斜がぶれた。
点滅し始めた交差点を横断する。
クラクションが鳴らされる。
荒く振られる箱の中で、スポンジの船が生クリームを波打たせ続ける。
手のひらで受けた雪を嗅いでいると、エレベーターの扉が開いた。くたびれたポケットの中にその手を突っ込み、鍵を出す。ついでに掻き出した飴の包み紙が舞い飛び、瞬く間に目の前から消失した。鍵穴に差した鍵を回す。入る前に散った息の白さが、眼鏡にふちどられた視界を曇らせた。真っ先に炬燵の電源を入れる。天板の上にケーキの箱を置く。室内中に吊るした洗濯物の中から適当にひっつかんだものに着替え、その上から、どてらを着込む。煙草が切れていた。空き箱を捻り潰してから、灰皿に剣山のように刺さる吸殻の中の、まだ吸えそうなやつを救いだす。火をつけて吸い込めば、やはりまだ生きていた。先端から舞い落ちた灰が湯飲みの底を汚す。そこに米焼酎をドボドボそそいだ。ケーキの箱に爪をかける。ひっかけて開け、内側にひっついた生クリームを指ですくって舐めた。そこに乗っかるサンタにもクリームをなすりつける。スプーンもフォークも洗剤に浸けたままなので、炬燵に放置の箸を使う。煙草、焼酎、ケーキを交互に食んだ。それぞれを確実に黙々と減らしていくその銀八を、生クリームまみれのサンタが見上げている。銀八を見上げるサンタの顔が、ふと音もなく小刻みに震えだす。同時に眼鏡の奥の目が、真下にある携帯の振動を捉えた。その振動で、イチゴがこけた。灰が踊る。焼酎が波打つ。
目についた、公衆電話…の四文字に手を伸ばす。
「はい、」押し当てた銀八の耳に、ざざ、と、夜の波のような雑音が打ち寄せた。
夜の波。
その手前でブレ続ける卒業証書の、筒。
「元気でやれよ」
線を引いた波の向こう、
この手で脱がせたことのある制服が、
高校生としての、
最後に膨らむ潮風に、煽られていた。
「先生」
電話口から聞こえてきた声に、銀八は顔をあげる。サンタの目と合う。
「先生、俺です」
残ったケーキを指ですくう。
皺の刻まれた指に目を細める。
欲しがられて一度だけ、舐めさせた指を思いだす。ざらついた舌の粘膜を擦りながら、自分の味を教えた。あれから何十年が経過したのか。その後は知らない。生死さえ。
「覚えてますか」
オレオレ詐欺…冷蔵庫に貼ったチラシにちらつくその注意喚起を横目に、銀八は「うん、あァ…覚えてる」と言った。
「言っとくが、そんなに貯金ないよ。俺」
2018.12.25/嘘っ八