地下鉄の窓に映る顔のなかに見たことのあるのが混じっている。
そうはいっても限りなく他人でしかないその銀髪が、振り子のごとく揺れるつり革に殴られて、うっと傾いたのを目撃してしまった土方は、腹の底からこみあげた笑いを鼻の穴から風で漏れさした。周囲の何人かの横目が、窓のなかで一瞬、自分に集まるのを咳で払って、うつむく。自分と他人の靴が混じりあうそこで焦点をぼかしている土方の、ベルトの内側はまだ小刻みに痙攣していた。それが降りる駅まで波で続いた土方が、ホームに降り立つ間際に振り向いたそこにまだ銀髪が乗っているのを見て思わず足をとめる、扉付近の手すりにすがるようにつかまっているその男をじっと見ていた土方の目の先で、どんと誰かの肩にぶつかられて流れた銀糸から覗く、うつろな目。それが土方を通り越して駅名のパネルの光に細められたかと思えば突如、閉じかかる扉のすきまを平泳ぎの手で掻き分けるように飛び出てきて、そのままコケた。
プシュー、という蒸気が抜けたみたいな音と共に扉を閉じて走り去っていく線の中、土方は点字ブロックに両手をつけたままの男を、棒立ちで見おろした。ふたりだけになったホームは耳鳴りがするほどの寂しさだった。手を貸すか思案していた土方の靴先から顔をあげた男は、いってェ、とだけ吐きだしてふらり立ちあがろうとする、その腕の皮膚の擦りむけている肉の赤が、土方のまなうらに残った。よろめきながらもなんとか両足で立った男はそのまま横揺れで歩きはじめ、ホームから落っこちそうで落ちないそれの少しあとから行く土方、そうして順番に足をかけたエスカレーターがゆっくりと坂になる。数段上でしゃがみこんだ銀髪の丸まった背中は、さすっただけで吐瀉しそうなかたちをしていた。
地下鉄をあがって少し先の踏切でもしゃがみこむ男のななめうしろで、土方は煙草をふかしながら夜に混じるふたりぶんの白い息に、(……さむい)と思っていた。それしか思うことがなかった。右側でずっと続く金網を時々、電車が地鳴りで震わすたび、前をふらふら歩く男の背中までブレて見えて、土方までまっすぐ歩けてる気がしなかった。
途切れ途切れで届く鼻歌は、♪探し物は、からはじまるメロディで、やがて帰り着いたマンションの玄関にそれはやけに響く。乗りこんだエレベーターでもそれは続くという妙な気まずさと、からっぽの心中に変に染みこんでくるその音階に合わせるかのように明滅していく階のパネル。ボタンをひたいで押してたらしい銀髪のせいで余計な階にとまり、『閉』を連打するはめになった土方の方が、今度は先に降りた。降りてから振り向くと、もうひとりを排出することなくエレベーターが閉じていた。咥えていた煙草がじりじりと燃え尽きて灰が落ちるか落ちないかの瀬戸際でまた思いだしたように開いたそこからふらふら出てきた銀髪と、そこではじめて目が合ったような気がしたが特に言葉を交わすわけでもなく鍵を取りだす。部屋に入る際に、となりで、カッカッと鍵穴を弾く音だけを耳に余韻で残して、土方は靴を脱ぎ、明かりを点けて、シンクに適当にタバコを投げ、冷蔵庫を開けて閉め、ネクタイをほどく。
ここからはいつもの自分だけの時間で、だれに見られることもない空間で半分だけ脱いだ靴下で移動したりする。ソファに横たわってシワになっていくワイシャツと、うしろで溜まっていく浴槽の湯と、風に飛ばされそうなベランダの洗濯物に気づいているが取りこむ気力のない時間、がとろとろと秒針の音で過ぎていく。
やがて風呂からあがった土方は湿った洗濯物をハンガーごと取って行く湯冷めの心地に、はあ、と流れていく白い息の方角、となりの部屋を、前髪のすきまに映す。暗闇でしかないそこに三秒ほど、とらわれたあとはヒーターでオレンジに照った部屋に戻って、途中まで観た映画『JM』のキアヌ・リーブス扮する運び屋のジョニーがどろっと鼻血を出してるのをぼんやり瞳にゆらして買ってきた惣菜をつまんだ。
エンドロールのあいだに壁のカレンダーを見た土方は腐臭を漂わせているゴミ袋をくくって、適当な上着だけひっかけてゴミ出しに出た。
出て直後のそこで土方は硬直した。
偶然ホラーのCMに出くわしたときよりも硬直した。
隣の部屋の前、鍵穴に鍵をぶっさしたままの真下に、まだいる。
……関節がおかしくなりそうな体勢のそれは、一見、死体だった。
さっきよりもじゃっかん、ごわついて見える銀髪にぶるりと悪寒を走らせた土方はとりあえず自室の鍵を閉めて、おそるおそるサンダルを近づけてみた、なぜかゴジラのテーマが身体中に流れている、結局シンゴジラ見にいけなかったという思考でなぜか肩よりも先にふれてしまった銀髪は、こないだの休みに沖田と行った牧場で触ったひつじの毛に負けぬふわふわさで土方の指先になじみ、そして予想以上の冷たさでふやけた指のしわを痛くさせた。洗い髪が芯まで冷えての神田川よりやばいと思わせるそこからひっこめた手を宙でブレさせつつ掴んだ肩、を
「おい、……あの、凍死しますよ」
と土方がつよめに揺すると、んぐぁ?と潜水からあがってきたみたいな息でドアノブを曇らせた男が、ゼンマイの動きで首をひねる、その死んだ目と合う瞬間、広大な宇宙で、なんてバカすぎる光景だ、という哲学で瞳を曇らせた土方の視界はそこで突如おおきくブレることになった、限りなく他人でしかないやつの顔が間近に迫って「あ」漏れた白い息が、酒臭い息に吸いこまれていって、
膝で裂けた生ゴミに手がまみれる、広大な宇宙の、それはクソみたいな始まり。
2016.11.18/今日まで他人