坂田がやってきたのは土方の腕時計の針が十二周目を刻んだあたりで、タバコを踏み潰すふりして土方は俯き、何もない暗いアスファルトに靴底を擦りつけながら内心「走れよ」とか毒づきながら、近づいてくる足音に耳を澄ましていた。やがて何もない暗闇に溶けこむように坂田の靴が踏みこんできて、「おまえ横にファミマあんのに、なんで外」とかテンション低めの声がつむじに落ちてきて、土方はまぶたを跳ねさす。土方の吐きだす白い息の向こうで坂田も同じものを吐きだしていた。ところで、「だいたい五時」ってなんだ?と問い詰めたい気もしたが「タバコ吸ってんだよ」とだけ答えた。「早く吸えよ寒い」と坂田はその場で足踏みをはじめる。ほんとうのところ待ちぼうけ食らうか或いは来ないかもと思っていた土方の、「よく起きれたな」というつぶやきはトラックに流された。欠伸を噛み殺したみたいな顔して腫れぼったいまぶたの坂田は、ぼんやりと土方の吐き出す煙の行方を追っていた。お前のほうこそ横のファミマで待てばいいと、たとえばそう土方が云ったとしたらたぶん坂田はそうする。たなびく冬の吐息。指先やくちびるだけでなく舌の根まで、かじかみつつある。くちびるからタバコを抜き取るとき、「震えてんじゃねーかよ」と云われた土方は仕事明けの寝ていないテンションで「うるせえ、なんだそのふざけたマフラー」、さっきから目にするのが痛い坂田の首もとの、ショッキング・ピンクについて突っ込んだ。
「神楽の失敗作だよ、短けえだろ」
マフラーのさきっちょが途中でちょんぎれたみたいになっていた。
「ここのラーメン美味いらしい」
閉店が午前七時のラーメン屋は、仕事明けとかセックス明けのやつらが寄っていく。土方はここのラーメンをいちど食べたことがあったが敢えて云う必要性を感じなかった。誰と来たかなんて思いだせない。ラーメンの味がどんなだったかも覚えていない。
ディスプレイの前にしゃがみこむ坂田のつむじを見おろす、このひとときはいったい何だろう。いまだに坂田の感触がのこったままの身体はだるく、ラーメンなんて気分になれず「今は無理だ」とつぶやいたら、坂田のかおとサンプルのラーメンがガラスでひとつに重なって土方の焦点をぶれさす。
「いや開いてねえし」
「あー、たぶん四時?には片付く」
「は」
「から、そっからなら来れる、たぶん」
とろけかけた脳でかえしたら、いつのまにかガラスにひたいをひっつけていた坂田が「お前さあ、」と唸る。わざわざ明け方にヤローふたりでラーメンって。坂田の吐きだす言葉でガラスが曇る。ラーメンのサンプルも曇る。土方の眼球も曇る。「そりゃそうか……」 あのときそうやって流したはずなのに分かれ道で坂田が「だいたい五時で」とか云い残していって「ん?」と首を傾げたが時間もあまりなかったもんで、そのまま仕事に行った。あんなに残っていた坂田の感触は徐々に剥がれていって、そうするとクリアになったあたまに浮かんでくるのは「だいたい五時で」と云い残していった顔だった。
……腕時計を見る。
高架沿いを歩く。隣り合わせでなく縦一列。
追い風のせいでぐちゃまぜの土方の髪からヤニの匂いがして、六時間ほど前もコイツといたんだよな、とか思ったりする坂田の瞳は眠たげだった。
「あれだよ四時五十二分に目ェ覚めてなかったら来なかったよ悪いけど」
「だろうな、ひっでえツラしてんぞ」
「お前には負ける」
「俺もタバコ切れてたら行ってねえよ悪いけど」
「そこはファミマで買えよ」
「あ、始発」
「ちげーよ、さっきも通ったよ」
ラーメン屋の引き戸をずらす手をとめ、振り向いた土方の瞳を走っていく電車は銀色だった。
キャバ嬢から離れたところに座る。三秒でメニューを流してきた坂田は、「味噌な」と云って便所に立った。土方のこころも味噌に傾いていたが、同じの頼むのどうなんだとかバカみたいな逡巡ののち、けっきょく「味噌ふたつ」と注文する。「扉の建てつけ悪い」 戻ってきた坂田と入れ替えに立ったときに教えられたこと。扉の建てつけが悪いことよりも取っ手が濡れていることのほうが気になるし、坂田の尻が敷いているショッキング・ピンクのこともなんとなく気になってしかたない。
味噌ラーメンがふたりぶん置かれていた。さきに食べはじめている坂田の、まるまった背中とタコのくちびるを横目に箸を割る。すくいとった麺からスープが跳ねる。鼻の穴で吸いこむ香りは濃厚だった。並んだうつわと、中央に置かれたふたつのコップ。蓮華に映りこむ顔は、朝によわい。麺を啜るときにできる坂田の眉間のシワに、ふっと張り詰めていたものがほどけていく。このとき込みあげた哀愁に似たなにかを、いつまでも覚えてはいられないだろうから、いま触れておきたかった。土方の指先がそこに伸びていく、坂田の眉間へと伸びていく、そうして微かに触れた指先、いや、ゆびまでいかない、爪先ほどの。
「はは、ラーメン食ってるときってなんでここにシワ寄るんだかな」
2014.11.11/ゆびまでいかない爪先ほどの