蒸し暑い夏の夜、ハザードつけっぱなしのタクシーを見つける。ゆびにコンビニ袋を引っかけたまま、ふいに立ちどまってしまった坂田の瞳孔が、夜に滲むその明かりに縮こまる。どこがどうというわけでもなく、ただ見覚えがありすぎると思って、そのタクシーに近づいていって閉じきった窓から中を覗きこむと、車内には誰もいなかった。つきっぱなしのハザードによって浮かびあがった運転者証に眼をこらす。名前よりも先に目についてしまう、わかりやすすぎるその男のアイデンティティー。そこから外した視線をぐるりと周囲に巡らせて、たぶんあそこの赤提灯だろう、と見当をつけたあたりで、厄介なものがこちらに向かって歩いてくるのに気づいて顔をひきつらせた。赤提灯の入口に目を走らせても其処から誰かが出てくる気配はなく、咄嗟にとった坂田の行動は運転席側にまわって車に身体を凭せかけることだった。そのタイミングで近づいてきた男ふたり組、そのうちのひとりは知った顔である。「オイここは駐車禁止だ」、流れてくる煙ったい気配。あーわかったわかったと適当に手で払ったら、それが坂田だと気づいたらしい男の声が一段と低まる。「なんでテメーがタクシーなんか乗ってんだ」、「関係ねえだろ仕事だよ仕事」、「どうでもいいが今すぐどかせろ」、「客降ろしたとこで休憩中なんだよほっとけ」、「どかせねえと切符切んぞコラ」。マジうざいこいつ……。苛つきながらも視線は赤提灯のあたりに定めていたがやはり出てくる気配がないので、こうなったら窓ぶちやぶってでもと後ろ手で探っていた坂田の動きがはたと止まる。(……開いてる。)そのあいだもごちゃごちゃ垂らしていた隊服の男に、うっせえな動かしゃいいんだろ、と捨て台詞を吐いてから、取っ手にゆびをひっかけるとあっさり開いた。まだしつこくジト目で見てくる男のほうは見ないようにして、運転席に乗り込んだ坂田はそこにキーが突っ込んだままなのを確認してから、アクセルを踏み込む。じゃあな。拳で叩いたクラクションのうるさいのを強く残して、ハザードはそのままに適当に走り出す。赤提灯の店のなかにちらと横目を流してから、夜の町を走り抜けていった。
このあたりを適当にうろついてから再び同じところに戻ってきた坂田は、先ほどとは違う人気のない路地にタクシーを乗り捨てて、迷った末ハザードはつけっぱなしにしておく。まとわりつく夏の空気はぬめっていて肌はべとべとに汗を滲ませている。赤提灯の店のなかは頬を赤らめた男たちでひしめき合っていて、そこを掻き分けて奥に進んでいくと坂田の思ったとおりその男は其処に立っていた。盃から酒を溢れさせ、どこまでも丸めた背中で肘をつき、アイデンティティーのグラサンを翳らせて、其処にひとり長谷川は突っ立っていた。でかい溜息を吐いてから、「オイおっさん、またクビでも切られたのか」、となりに身体を潜り込ませると、のろのろと長谷川の顔がもちあがる。ずれたグラサンから澱んだ目が覗いて、あれ銀さん、とかもごもご動く酒くさい唇。カウンターのなかに向かって「ホッピー」と声をはりあげると時間を置かずして置かれるジョッキと瓶。ジョッキに瓶を傾ける際に触れあう肩と肩、そこから溢れだす空気が暑苦しい。「表のタクシー、アンタだろ」、一気にジョッキを煽って干乾びかけていた喉にうすいホッピーを流し込む。「あんなことしてたらそりゃクビも切られるわな」、とんとジョッキの底を置いたのと同時、ぴくっと反応した長谷川の肩とまたもぶつかる。飲みおわって、ナカくれ、と店のおやじに云っているところへ、隣から絞りっかすの消え入りそうなのが返ってくる。……メだ。聞き取れなかったので耳を近づける。
「ダメだよ俺は」
うん知ってるけど? この無精ヒゲはどうやら相当出来上がっているらしかった。長谷川の皿から断りなしにハモを摘まみとってさくさくと噛む。ダメなんだよ、とまた長谷川が吐き出す。肩と肩が擦れあっている、噴き出す汗は肌をべとべとにしていく、ハザードランプの明かりが目蓋の奥ふかくに貼りついたままだった。長谷川のひたいがカウンターにひっついていきそうなところまで下がっているというのに、落ちる気配のないグラサン。耳にくちびるを寄せ、なにごとかを吹き込む坂田だった。
つぎに会ったとき、長谷川はまたも無職になっていた。キノコ狩りの帰りに通りかかった公園に、ダンボールを纏ったグラサンと出くわしてしまったのである。アイスを買いにいったガキふたりに取り残されて、炎天下のした照り焼きベンチのうえでおっさんふたり、じりじりと焦げついていく奇妙な時間。地面にへばりついて舌をだらしなく垂らしながら寝そべっている定春の尻尾のみがパタパタとたまに揺れる。
「あの、それ暑くねえの」
「どちらかというと」
「脱げば」
それでも汗まみれのおっさんはダンボールを纏ったまま、黙りこくって太陽と向き合っていた。顎で溜まった粒がぼろぼろこぼれ落ちて地面にふたりぶんの水溜まり、もとい汗溜まりをつくる。だんだんと定春のファサファサ動く尻尾が暑苦しくなってきて思わずそれをぎゅっと握りこむと、ギャウッとひと鳴き。
「……タイツ」
は?突然わけのわからぬ単語が出てきて坂田のあたまはさらにイラつき、声もドスのきいたものになる。ずれることのない長谷川の視点を辿っていくと、それぞれに子どもをつれた若い母親らしきふたり組が水飲み場のまえで談笑していて、そのうちのひとりがミニ着物のしたにタイツを履いているのだった。「げっ、このクソ暑いときにタイツって」、「冷え性なんじゃねえか」、「だったらあんな短いの履くなってはなしだろ」、「30デニールだなありゃ」、「せめて20」、「だったら許せる?」、「いや、やっぱ生足これ一択」、「でも蒸れてんのがいいとかほざくフェチもいんだろ中には」、「変態だなアンタ」
俺じゃねえよ!とようやくこちらを向いたグラサンは少し痩けた頬で薄っすらと笑ったようだった。それは太陽のひかりに焦げついてすぐにも潰されてしまいそうなよわよわしいものだった。坂田は懐のナイロン袋を長谷川の胸板に放って、「お裾分け」、とベンチに凭れかかる。鉄板のような熱さに背中が焼けつきそうになって飛びあがっていると、ナイロン袋を覗いていた長谷川が、「銀さん」とつぶやいた。顔をあげると、袋にあたまを突っ込んだままの長谷川が、また「銀さん」とこぼす。いやそれ銀さんじゃないからキノコだから、とツッコミをいれても、長谷川は袋のなかに向かったままである。
「こんな男に好かれても迷惑なだけだろうか」
男のくぐもった呻きが坂田の耳にまで届いたのと同時、どろどろに溶けはじめた太陽が次第に夕へとかたちを変えていった。ナイロンがあかく染めあげられて、そこに突っ込んだ男ごとすっぽり飲み込んでいく。男のツラはあかいナイロンに隠れたままだった。「んなことねえだろ」、考えるより先に飛び出ていった言葉のつづきはなにひとつ口には出せなかった。アンタがダメなことはもうバレちまってんだ、それでもアンタはあのときからそれでいくって決めたんだろ、もうどうなったってそれを曲げることはできねーんだろ、だったらダメだろうがなんだろうがガムシャラに生きるっきゃねえだろうが。
それを云うのは自分ではない、と坂田はこころのうちで噛み潰して、夕色の瞳をいちど閉じきった。
「アンタがどんだけダメでも」
俺は、
「ころっと帰ってくんだろ」
俺だけは、
「女なんてそんなもんだよ」
そのとき風が吹いて定春の毛並みをざわめかせたかと思うと、なにやら擦れあう音がかさかさ鳴って、はためいたナイロンが長谷川の顔をあらわにした。「違う!」、がばっとこちらを向いたグラサンが夕焼け色をしていた。なにが違うんだよ。グラサンに映った坂田がそう吐き出す。違うんだ、違うんだよ、俺はそんなんじゃないんだ。グラサンの奥に見えた男の濁った瞳、気づくと手が伸びていた。
わおん、と定春の立ちあがった動きにつられ反射で振り返ったら、ガキふたりが足並み揃えて帰ってくるところで、すっと手を引っ込める。「あっもうマダオ食ってるアルか!」、神楽の指さしに合わせてそちらを向くと、長谷川が今朝とれたてのキノコにかぶりついているところだった。「なに生で食ってんの!?」 むしゃむしゃとカケラを飛ばしながら貪る長谷川は、マズイマズイとこぼしてハハと笑った。
寝つきのわるい夜、ひらいた冷蔵庫のひかりですっかり目も覚めてしまって、取り出したイチゴ牛乳片手にソファへと向かう途中だった。あきらかに玄関のほうで何かの気配がして闇のなかに坂田は目を走らせる。扉のむこうで人のかたちをした影がぬっと伸びている。傾けたパックにくちびるをつけてゴクゴクと飲んでから、迷うことなく歩いていきそのままの勢いで玄関の扉をずらすと、そこに凭れかかっていたらしい男の背中がびくっと目の前で浮きあがる。起きたての目蓋をひくつかせ、「何やってんだアンタ」、と喉から吐いた坂田の声がひび割れている。夕日の沈む頃に会っていた男である、その顔からいつものアイデンティティーが取り払われてしまっている。「いや雨宿りを」、云いかけた男の声を遮るようにして、雨音が突然に地団太を踏むかのように強まっていった。「……」、「……」、「……入れば」
ソファで向き合って腰かけてから何を話すでもなく、坂田のほうはぐびぐびイチゴ牛乳を喉に流しつづけるばかりである。時々、神楽が押入れを蹴るドカンバタンがやたら耳を突いて、長谷川は視線を泳がせる。「俺も喉かわいたなぁ、なんて」、「へぇ」、ゴクリごくり。坂田の喉仏が上下する。頭を抱えるようにして俯いた長谷川に、「やっぱアレか腹やられたか」、となにやら見当違いなことを云いだす。
「クビは切られて、女にゃ逃げられて、野宿に雨まで降られて、キノコに当たって、さらにはアイデンティティーまで失くして散々だな、長谷川さんよ」、鼻で笑った男の乾いた眼が、薄闇のなかですっと光となって、長谷川のこころを突き刺してくる。瞬きも忘れて、すこしひらけば切れて血が噴き出しそうなほどにカサついたくちびるを長谷川はそっとひらいていった。「……ああ、本当に散々だ、だから」
「だから慰めてくれよ」
呻くように搾り出してから、ひたいに脂汗がみるみる滲んでいった。坂田が云うアイデンティティーがないせいで自分を覆い隠すものが今は何ひとつないのだった。アイデンティティーで自分を覆い隠すってどういうことだ矛盾してないか、そんなどうでもいい思考に走っていくほどに緊張している。こないだ飲み屋で坂田がつぶやいたことを長谷川ははっきりと覚えていたのだ、こちらの耳にくちびるを寄せて坂田は低く囁いた、「慰めてやろうか?」。長谷川は自分のツラが赤提灯になる前にその場から逃げだした。
どさりとソファが震えて長谷川の肩が跳ねる。見なくともわかる、すぐとなりに坂田が腰をおろしたのだ。ついに伝っていた汗がぽとりとこぼれ落ちていく、闇のなかで坂田の視線を痛いほどに感じる。
「いいよ、何してほしい?」
心臓がどっと血を噴いた。それぐらい今のはヤバかった、寿命が三年は縮んだような気がする。俯いたまま眼球を周囲に走らせると、闇に馴れてきた目玉は断片的にものを拾いあげ記憶に焼きつけようとする。夜のなかにあるものはやたらと濃厚で、こちらを圧迫してくるほどには攻撃的だった。そのなかでたしかに息づいているとなりの男の気配に、なんだかどうしようもなく泣き出したくなってくる。大人げもなく、すべてをこの男のまえに曝け出したくなってくる。最初から、そうだった。出会ったときから、こちらのダメなものをすべて内臓ごと引きずり出されてしまって、もうこんなところまで来てしまった。
「ぎ、銀さん」
搾り出すようにしてようやく吐けたその名前、もちあげた瞳、思ったよりもずっと近いところにその男はいた。グラサン越しじゃない、直接に見据えたこの男の眼はやっぱり濁っていた。自分と同じくらい濁ったダメな男の眼だった。ぐっと目を閉じて、くちびるに笑みを貼りつける。ソファについた手が、坂田のものにかすかに触れる、ふたり分のゆびさきの爪がこつんと夜に溶ける。
「俺ァ今、タイツあたまにかぶりたい気分だよ……」
「ハッ、やっぱ変態じゃねえか」
俺たちはダメなまま来ちまったから、ここで泣いたりしない、目尻さげて歯ァ見せて笑ってやるんだ。
2014.05.26/かわりにタイツを