そのとき、沖田は自ら斬られにいった。もちろん、わざとに決まっていた。
「近藤さんと、いちご狩りに行ってきたんですよ」
飄々と云ってのけたのは夕刻のことだった。車の助手席で、親指と人差指で掴んだいちごを眺めている沖田の横顔に陽が射していた。偶々、農園の横を通りかかって。と沖田は云いながら、いちごを指のあいだでくるくると回転させている。それはどこまでも赤くて、まんまると太っていた。不細工な形状だ。それは陽の光を反射して、ぎらぎらと輝いていた。沖田はそのいちごを胸ポケットのなかに落とした。
その胸ポケットに今、相手が突き出した刀が刺さっていた。ポケットから薄赤色の液体が弾け飛ぶ。徐々にその色が広がっていく。沖田が、じわあと笑った。身体を捻って相手の腹にすっと刀をずらす。何が起きたのかわからず、そのままうつ伏せで倒れていった相手から、沖田は距離を取って刀を払う。土方はそれを一瞥し、目を逸らそうとしたところで、はたととまった。何かおかしい。もう一度、沖田の方を見た。視線を下にずらしていく。ポケット。ポケットがなにやらまあるく膨らんでいる。いちごが潰れていなかったのだろうか。と考えていたら、ポケットの中の膨らみがもぞもぞと動いた。は? 土方の身体は完全に硬直した。瞬きもせず食い入るように眺めていると、ポケットの縁から、そおっと手が出てきた。手? 確かに、それは手だった。五本の指。背筋の凍る思いで、それでも目を離せずにいると、次の瞬間、ぴょんっと頭部が出てきた。その頭は、いちごの形をしていた。赤くて、まんまると太っていて、つぶつぶの。その下から覗いた丸い瞳が、じっと土方を見ていた。あ、ひじかたさんだ。と、そのいちごが云った。その顔は沖田にそっくりだった。土方は刀の柄を自分に向けて、みぞおちにいれてみた。瞬間、容赦ない鈍痛に飛びあがる。(いちごじゃない方の)沖田が、土方を訝しげに見て、何踊ってんですか土方さん、と云った。ちゃんと仕事してくださいよ。いや、あの、お前、それ。言葉にならず、何度も沖田のポケットを土方は指差す。はい? 土方の指先を辿り、沖田は自身の胸ポケットを見おろす。ああ汚れちまったなァ。いや、そうじゃなくて。ヤツの目線はばっちりと、いちごに注がれているのにも関わらず、沖田は飄々としている。もしかしなくとも、どうやら沖田にはまったく見えていないようだった。いちご沖田はにこにこと笑って、ポケットのなかにおさまっていた。赤いいちごが、ゆらゆらと。
沖田の長い睫が重そうに垂れさがっている。赤色の睫。液状になったいちごが、とろんと沖田の睫に乗っかっているのだ。睫毛と睫毛の間に足を掛けて、ブランコのようにぶらさがっている謎の物体は、あれからも土方の視界から消えることはなかった。いちごが、んしょ、んしょ、と云いながら沖田の額をよじ登り、沖田の髪の毛のなかを泳ぐ。どけられた髪の毛がぴょんと跳ねるのを沖田が手のひらでおさえつけた。あっ。と髪の毛の中から小さな叫び声が聞こえる。土方は眉間を揉みつつ、さっさと沖田の背後を通り過ぎようと足を速めた。ひじかたさん。名を呼ばれて、振り向く。然し、沖田は庭の方を見つめていて、土方の方を見てはいなかった。なんだ。ん?と沖田が首をあげる。今、呼んだろ。沖田の丸い瞳がきょとんと云っていた。呼んでませんよ。沖田がじっと土方を見ている。やだなあ土方さん、俺に構ってほしいならそう云ってくれりゃ、いくらでも相手になりますよ。しかし土方は沖田の言葉なぞ聞いていなかった。ただ吸い寄せられるように、沖田の頭のてっぺんを見ていた。頭のてっぺんから覗く、いちご頭。その下で、きらきらと輝く丸い瞳。沖田と同じ、丸い瞳。ひじかたさん、聴こえているんでしょう。小さな唇がそう云った。風が吹いていた。強すぎず、よわすぎず、緩やかな風が、庭の木々を揺らし、小石を鳴らし、土方の元まで吹いてきた。沖田の髪がさらさらと靡く。前髪から沖田のどす暗い瞳が赤く光る。いちご頭が、再び呟いた。ひじかたさん、僕が見えているんでしょう。喉が鳴った。沖田がゆっくりと一度瞬きをした。次に開いたら、瞳から赤が消え去った。風もやんだ。舞いあがっていた前髪がすとんと落ちる。近頃おかしいですよ、土方さん。沖田が目の前までやってきて土方の眼を覗き込んでいた。(ああ、嘘みたいにおかしい。)
やがて最終的には沖田とすれ違うたび、りんりんという泣き声まで聞こえはじめた。とうとう、本気でおかしくなってしまったらしい。さらに、それは決まって沖田が人を斬った後だった。頭を震わせて、縮こまりながら。いちご頭は、それはもう大粒の涙を目から落として、鈴のような声でりんりんと泣くのだった。
布団の中で、土方は両足を擦り合わせた。寝返りを打ち、左耳を下にすると、鈴の音がよりはっきりと鼓膜を叩いた。障子に、陰がざわりと蠢いている。強い風で、木々がしなっているのだ。薄目を開けて、土方はその影が蠢く様子をじっと見た。りいん、りいん。今宵は、沖田以上に人を斬りすぎた。
障子のひと隅が、薄赤く光りはじめた。やがて、ゼリーのようなぬるぬるしたものが浮きあがってきたかと思うと、障子の紙の真中から、いちご頭がぬっと出てきた。土方はなんとなく予測していたので、さして驚くこともなく、いちご頭を見ていた。障子の枠に座り、見おろしてくる丸い瞳。闇の中で、そのつぶつぶが際立って大きく見えた。『ひじかたさん、眠れないんですね。』直接、耳元で話しかけられている気がする。『僕も眠れません。でも夢を見ています。真っ赤な夢です。ただただ夢の中は赤いんです。』お前はなんだ、と土方は掠れた声を出した。丸い瞳が驚いたように見開いた。いちご頭は暫く間を置いた後、はっきりと云った。『僕は、おきたそうごですよ土方さん。』違う、と土方は呟いた。何故かは知らぬが、はっきりとそう口に出していた。いちご頭は沈黙した。寂しそうに睫毛を揺らして、暫く土方をじっと見ていた。
『ひじかたさんは、僕を見ることがおそろしいんですね』
そして、いちご頭は無表情で、真っ赤だ、と呟いた。それが耐えがたかった。
その日、沖田は見廻りで朝からいなかった。庶務を終え、土方が部屋を出ると、雪が降っていた。舞い散る雪片が視界を遮っていく。土方の唇から、白い息のかたまりがふわっと溢れ出た。手のひらを擦り合わせ、土方は庭に積もっていく雪を横目に廊下を歩いた。すると何処からか、さく、さく、と微かな音が聴こえてくる。やがてそれが庭の方から聴こえてくるのだということがわかると、土方は足をとめた。立ちどまった途端、足の裏が急激に冷たくなっていく。身体の向きを変え、土方は庭を見おろす。其処には土方の下駄があった。その台木に白い雪が溶けて浸透していくのが見えた。その隣。庭石に差す、小さな影。まただ。真っ赤な頭。つぶつぶの模様。再び現れた謎の生物が、いそいそと小さな身体を動かして、何処から盗んできたのか透明の器に雪を掻き集めて放り込んでいた。土方は煙草を銜え直し、その様子をじっと見つめた。暫くして、銜えていた煙草の先端から灰がぼとりと落ちた。透明の器に少しずつ溜まってきていた雪のてっぺんに、ぼとりと落ちた。はっと、いちご頭が顔をあげる。あ、悪い。土方は指先で灰の落ちた部分だけを掬いあげた。いちご頭は無言で、再び作業を再開する。雪は後から後から降ってきていた。赤らんだ指先を擦り合わせてからポケットに突っ込む。ひじかたさん。小さな小さな声がした。丸い瞳が土方をじっと見ていた。今日は僕を無視しないんですね。自分の頭に降り積もった雪を払うため、いちご頭は首を横に振った。すると、りいんりいんと音が鳴った。土方は、その音が嫌で仕方なかった。その音を聴くと、沖田の丸い瞳を思い出す。どす黒く、ぎらぎらと赤い、沖田の瞳。沖田が人を斬った直後に見せる、あの鋭い瞳。そして、あの日の横顔。土方の知らぬ、沖田の横顔。
『今から僕は消えます。今日、僕はまた何人もの人間を斬るからです。かなしくなんてありません。くるしくもありません。人間を斬ることは、僕の生きる道なのです。刀を握ることは、僕の人生なのです。今、またひとり斬りました。僕は消えます。消えて、また別の僕になるのです。僕は、おきたそうごです。ひじかたさん。あなたがつくりだした、おきたそうごです。あなたが、僕を望んだ。』
いちご頭の、目尻に大粒の涙が浮かびあがる。それは、土方がつくりだした涙だった。今、泣いてほしいと土方が考えたからだった。あのとき、沖田は泣かなかった。沖田は喪服に包まれて、ポケットに手を突っ込んで、雪の隙間で立っていた。土方は重い石を持ちあげた後だったので、手は赤らみ感覚は麻痺していた。沖田の横顔に陽が射している。真っ赤な陽。沖田のポケットから、りいんりいんと音が鳴った。沖田の数珠には、鈴がついていた。美しい音を響かす丸い鈴。白い袋に流れていく、ざらざらとしたその残像が、眼球にはりついていた。般若心経の地響きと、蝋燭から噴きあがる炎が網膜に焼きついていた。沖田の白い横顔が、固い石を見つめていた。土方さん。沖田の呼びかけと同時に強い風が吹きぬけていった。覚えていますか。沖田が流暢にその記憶を唇からこぼしている間、土方は冷たい石をじっと見ていた。ただの石だと思った。やがて沖田がその「記憶」を語り終えると、土方は静かに呟く。覚えてねえな。沖田がふっと笑った。そうでしょうね、土方さんは。都合の悪いことは、いつも忘れたふりですもんね。沖田の横顔が崩れはじめた。冷たい石が太陽の光を反射し沖田の横顔を溶かしていった。こいつは、こんな顔を俺に見せたりしない。目を閉じようとした土方の耳元で、沖田の言葉が強く刺し込んできた。
「残念ながら土方さんが思っているより、俺は強くもないし、よわくもありませんよ。」
ぼうっと、いちご頭が燃えはじめた。真っ赤な頭が、さらに真っ赤な炎に包まれた。いちご頭の丸い瞳からこぼれ落ちた大粒の涙が、雪に溶けていった。いちご頭の身体は透けはじめ、ゼリーのようにでろでろと溶けていく。そして、土方を振り返って、驚くほど沖田にそっくりな瞳で、こう云った。
「土方さん、ちゃんと僕を食べてくださいね。」
土方が手を伸ばすより早く、真っ赤なつぶつぶ頭のいちごは、透明の器の、まっしろな雪のなかへダイブした。どぼん、と飛び込む音がした。まっしろな雪の表面が、赤く赤く染まっていった。すると、雪のかたまりが美しいかき氷になった。いちごのシロップのかかった、それはもう、美しいかき氷になった。一匙、掬う。唇の前で、雪氷が震えている。赤いシロップが匙のなかに溜まっていく。庭に沖田があらわれた。雪を踏みしめる沖田の足音が聞こえてこない。沖田の丸い瞳は、ぼうぼうと燃え盛ってはいない。その眼に、赤を宿してはいない。沖田が棒立ちで土方を見ていた。沖田の指がすっと土方の手元を指した。
「土方さん、それ食わねえんですかィ」
土方は、食べることができなかった。
2012.12.11 (いちご戦争パロ)/いちごの涙