銀八、死んだって。
 朝来た訃報をもう一度見てから、土方は顔をあげた。目の沁みる煙たさの中、複数の体がひしめき合っていた。タバコの煙。炭の匂い。汗の熱気。男たちの薄汚れた靴に挟まれながら、酒をあおる隣の喉仏に目をやった。傾けられたジョッキから夏の陽射しのような色のハイボールがみるみる減っていく。汗に濡れた喉仏の隆起の音が聞こえた。ジョッキの底からポタリ落ちた雫が男のスラックスにシミをつくる。その膝を土方はじっと見つめた。足がある。透けてもいない。
「生きてるか?」
 目先でヒラヒラと手を振られた。それは土方が今最も聞きたかったことだった。
 その手を辿った先にいる銀八の、死んだ眼差しと目が合った。この目に、「生きてるか?」と聞かれたのは二度目だ。あのかつての担任の眼差しが、土方の中にまだあった。あの教室の瞬間が、目の前の体から匂った。その手にチョークの粉がついたままの気がしたが、ただの枝豆の塩だった。
「先生の目よりかは」
「えっ突然の悪口?」
「今朝も先生の訃報が来てて、てっきり……」
「いやどういうことだよ。何、今朝もって?」
 土方が無言で差し出した画面をなぞって動く銀八の目がタバコの煙にまみれていく。常時咥えっぱなしのそれから灰は落ち続ける。吸殻まみれの床灰皿を土方は見つめた。どこかで灰になった想像をしていた元担任の姿を駅前のロータリーに見た土方は放心して固まった。
「なんだ? 幽霊でも見た顔して」
「……ってさっき言ったけど、冗談でなくマジで幽霊だと思ってたわけか?」
 そうだ幽霊だと思った。思わず生きているか聞きそうになって、かろうじて踏みとどまった。酔っ払いは酔っぱらっていないと主張する。だから死人も死んでいないと主張するのではないか? そう土方は三徹中の頭で考えた。さっきからタクシーが素通りしていくのもそういうことだと考えた。そこから「一杯だけ」と連れてきた立ち飲み屋は隙がないほど混みあっていて、終電に乗り損ねたのに満員電車と同じ窒息感を味わっている。注文と同時に置かれたビールジョッキに口をつけてすぐ「立ってるのがしんどい」と銀八が言った。これは地に足がついているからこその言葉じゃないか? と思って土方は脱力した。ホラー映画に息を詰めていた顔が、家で冷えてるビールのCMを見る顔になった。「足がだるい」「腰が死ぬ」という銀八に無駄にホッとした。その声を拾った店員がカウンターの奥からパイプ椅子を出してきたので、ギーギー軋ませながら共に沈んだ。視界がますます、地についた足まみれになった。
 枝豆の塩つきの指でスクロールしながら、
「銀八、死んだって」
「今度こそ?」と銀八の音読。
「今度こそ?じゃねーよ。やりとりが完全に殺し屋だよ。一体何回死んだことになってんの、君たちの銀八先生は?」
「毎年」
「毎年!?」
「毎年、暑くなってくると先生の訃報が聞こえはじめる。セミと一緒です」
「ハハハ、夏の風物詩?」
 近くで笑う輪郭を、土方は地面の影のように思う。わずかな時間しかそこにいない。そのくせ、どこまでも付きまとう。
「死因は?」
「色々ですけど」
「今年の、聞いてみろよ」
 土方は「死因は?」と送信した。一秒とたたず既読のカウンターが増えていく。
「暇人かコイツら。本当に社会人? 全員ニートとかじゃねえよな? いや怖い怖い、増えすぎ、増えすぎ……何人いんだよ」
「3Z全員」
「3Z全員!?」
 いやいや高杉は入ってねえだろ?ハミられてるだろ高杉くんは!と銀八が謎の主張をしてくる間も、続々と元3Z担任の死因は届き続けた。それは高校での三年間しか銀八の命を見ていないからだ。そしてその命をバカみたいに覚えているからだ。土方は言ってやりたかった。あの教室の瞬間、「生きてるか?」と顔を覗きこまれた高校生の命は生きている。
 ずっと生きている。

2023.08.12/生きてるか?