たまたま眼球の動かしたところに虫が這っていやがったのと同じ偶然で、坂田がそれを見つけてしまった。最低な日はどこまでも最低でそれもようやく終わろうとしていた帰り際だったから尚更のこと坂田は見なかったことにして足をとめずにそのまま路地を突っ切っていく。左右で滲む提灯、擦れ違いざまに鼻につく酔いどれの吐く息、そこいらで浮いている吐瀉物。月明かりに透けた黒く丸まった背骨があたまをよぎって振り切ろうとしてもうまくいかない、ああもう勘弁マジ勘弁、と舌打ち。呑み屋から飛び出てきた肩にぶつかって少しよろめいたのをいいことに踵の向きを元来た道に滑らしたら着流しもひるがえった。

 千鳥足で揺らめくなかを、ぶつかることも厭わず、やさぐれた思いでジグザグと。そうして戻ったその場所にさっきと同じ状態のそいつがあらわれて色んな意味で背後から蹴り飛ばしたい衝動。を抑えてなんとか目をすぼめるだけにとどめる。浮いたり沈んだりを繰り返す背中、地面にはりついた白い手首、嘔吐こうとして漏らす息遣い。あれじゃあ駄目だ、と坂田の溜息が重ったるく夜闇に吐きだされたところで、そいつは、何度も嘔吐いたのだろう濁音まじりのやつを最後にそれこそ虫の息になった。ようやっと近づいていって間近で見おろしたその顔には幾筋もの黒髪がはりついてじっとりと汗ばんでいる。苦しそうだな副長さん。見おろしたままにぽつり告げると、髪のすきまから殺気あふれる眼光が散ったのと同時、腰に差した得物に手を伸ばそうとしているので、オイオイと片側だけ唇をつりあげる。その前髪がはらり落ちて血走った男の眼があらわになった。ひらききった瞳孔の中心に坂田を映すと、さきほど嘔吐いていたときよりもさらに割り増しでひどいかおに豹変する。やっぱ帰っときゃよかったと心底後悔したものの後の祭りである。
 何かを云おうとしたその喉から飛び出したのは痰のひっかかったような濁音ばかりで、男の背中が再び勢いよく下がる。オエッオエエエエと必死で何かを搾り出そうとしているようだが如何せん下手糞。次第に疲れてきたのでその場にしゃがみこみ、ヤンキー座りで見物。緩むことのない右目の殺気がこちらに当てられていたがその目尻に浮かぶ水滴で威力も半減というもの。食い込むのではないかと思うほど地面を削っていた指の爪が赤黒く変色しはじめる。どっ、か行……けよテメ。あ?なんて? 耳を近づけると汗の手のひらで押しのけられその本気の力加減にカチンとくる。べつにお前なんて知ったこっちゃねえし心底どうでもいいんだけど、たまったま眼球の動かしたところに虫が這っていやがったのと同じでいっぺん見ちまったら気になるだろ、放置したせいでいつまでもそこにいられたら気持ち悪いだろうが。苦悶に歪む男の眉間あたりにつらつらとツバを飛ばしていたら、俺は虫かよ、とずれたツッコミが返ってくる。
 やっぱ帰りゃよかったと何度目かわからぬ後悔をしてから伸ばした手で男の顎を掴みとってこちらに向かせると、それが予想外だったのか一瞬反応の遅れたそいつのさらにひらかれる瞳孔。すぐさま発揮されるバカ力の抵抗で一瞬こぼしかけた顎を再度もちあげてしまえばもう離してやる気はなかった。心底疲れているからさっさと終わらせてしまいたいのだこっちは。口あけろ、と告げた声が安物のAVみてえだなと思ってその発想にこちらが吐きそう。は?何するつもりだテメーとそれだけ云うのにでも肩で息をしているくせして強情は緩みそうにないので、ちょっと手伝ってやるだけだよと投げやりに返す。手伝うってお前。そんなんで吐けるわけねえだろテメー下手糞すぎんだよそんなことしてたら朝までヨダレしか出てこねえぞいいか俺は吐くの慣れっこなんだよもう百戦錬磨ほぼ毎日それと戦ってるんですわかったらさっさと口ひらけ。それでもまだ尚、テメーと一緒にすんなとかなんとか息も絶え絶えに反論しやがってなんとも進まぬ展開に苛々としてきて意識的に力をこめたら眼前の表情が歪む。ああもう面倒くせえ。掴んでいた下顎を無理矢理ぐっとさげてしまったらオエッとまた嘔吐いて涙目で睨まれるのにもお構いなしにそのひらいた唇のなかに指を突っ込もうとして、待てよ、坂田はそこでようやく我に返った。涙目で嘔吐く男の下顎をさげてそのなかへ指を突っ込む寸前でぴしりと固まる。えっきもちわる……。なんで俺がこいつにこんなことしなくちゃなんねーんだ、えっきもちわる。えっむりむりむり、できるわけねえだろ吐くわこっちが吐くわそんなんしたら。うっ、うぇ、げえっほ、男の舌が苦しげに伸びたのに、あっごめんと思わず謝罪がこぼれる。ここまできたら引っ込みがつきにくいので、とりあえず男の手を拝借してその自分よりかは細い中指を使って吐かせることに決定。っていうかもう死にそうだしこいつ……。すでにろくな抵抗もなくされるがままの男の手に触れたら冗談でなしに冷たかった。口内に侵入してから男の中指を使ってその舌をかるく押させると、とんでもない力でこちらの肩を引っ掻いてきたので、それ以上の力で押さえつけなければならなかった。こちらのひたいにまで汗が浮いてきてああもうほんとやってらんねえと内心毒づきながらも、掴んでいる男の指をさらに舌の奥にもぐりこませ、ぐっぐっと先ほどより強い力で押す。お、あがってきた。のぼってくる胃液を確認して少し力を緩めると、がりりと何故か器用にこちらの指だけ噛まれて思わず叫喚。そのとき指の腹が生温かい感触に包まれてもしかしなくとも男の舌に直接触れてしまったことに坂田は嫌悪たっぷりの瞳を隠さなかった。引き抜いた指にぬらぬらと唾液が絡まっていたことにも。最悪。濡れた指を不快に見つめている坂田の横で、今までとは違う響きと化した内臓の動きでもって男は地面にげえげえ吐き散らかしている。
 すべて吐瀉してしまってからも暫く肩で息をしていた男がやがて静まったかと思うと、ひゅうひゅう虫の息でテメェ殺すと来たもんで、はァア?と坂田からもドスが飛び出る。お前だれのおかげで楽になれたと思ってんの俺のおかげだろうがコレ見ろよお前に噛まれるわ唾液まみれにされるわ気持ち悪ィことこのうえねーんだよ今度はこっちが吐いてやろうかテメーに向けてぶちまけてやろうか。指をごしごしとインナーに擦りつけてから、道路にぶちまけられたものをちらと見て、えっなんちゅうもん飲んでんの?ニコチン中毒とは知ってたがまさかと坂田がドンびいていると、頼んでもないのに土方の言い訳がはじまった。
 どこにも灰皿が見当たらなくてだな、酒を飲んだあとの盃に、灰を落としてた。べつに酔っちゃいなかったんだが忘れてうっかりぐいっと飲んじまったというわけだ。
 うわあ、モノホンのバカだコイツ。
 それこそ虫を発見したときの目つきになった坂田は、あっそう、なるほどな。じゃあ。そそくさと立ちあがってさっさとこの場をあとにしようとした。その坂田の足に待てコラと男が飛びついてきて、つんのめって顎から落ちるはめになる。何すんだテメー! 痺れた顎を摩りながら振り返ると、今度はかすかすの絞りっかすの声がなにかを言ってるようだが聞きとれない。心底げんなりする。なんかもうすでにどうでもいい、とにかく早く帰りたい、もごもご悪かったなと今さら社会人なる振る舞いを見せられても、なんかもう殺虫剤ぶっかけてやりたい、そのきれいなお顔に。ところがどっこいその刹那、坂田のなかで明滅したのは殺虫剤ではなく安物AVにありがちな白濁に汚れた男の顔であった。えっ。瞬き。いつもの眼つきに戻った男と間近でがっちり目が合って、ぴしり硬直。さっと血の気がひいた。えっ嘘、なに今の。

2014.05.26/虫の吸殻