乾いた車内の空気を震わせたのは沖田の細長い指で、捲りあげたままの資料がかさりと鳴る以外は一切の音は遮断されているようだった。土方はハンドルに手を置いたまま、獲物だけは逃すまいと一点を凝視していたが、あまりに沖田が沈黙しているので、横目でチラ見すると、彼女の顎のラインにくっきりと濃い影が浮いていて、なんとなく嫌な予感めいたものを感じる。と、沖田が視線をあげて、土方が自分を見ていたと知るやいなや、ひどい顔をした。ついと視線を逸らして、どうだ、と確認を取ると、沖田は目を細めてフロントガラスを通して、遥か遠くの倉庫の入り口に佇むふたり組の男を見る。土方の眼には、暗いふたつのシルエットがぼんやりと動いているようにしか見えない。「趣味悪いネクタイの方、この指輪つけてます」 コレと同じの、と沖田は云ってから資料の一枚をひらりと土方の眼前で揺らす。色が黒というだけで、柄も特徴もないシンプルな指輪。「なんでわかんの」 チっと舌打ちした後、ちゃんと見てくださいよ、と資料をさらに近づけられる。目を細めて焦点を合わせようとするが、ぼやけて余計にわからない。待ってられないとばかりに、沖田が補足する。ここ、と人差し指が指輪の外側のある部分を指した。なにか薄っすらと文字が刻まれているように見える。「厄って、書いてあるでしょ」 「わざわい?」 「厄年の厄、でわざわい」 興味なさそうに資料を放りなげて、シートに凭れかかる。なにやら眉間が痛くなってきて、土方はかつりとハンドルの縁を叩いた。
「それがあの男の指に嵌められてんのか」
「だからさっきからそう云ってるでしょーが」
「……趣味の悪いネクタイの方」
沖田がちらと土方を横目でみあげる。
「って、どっち?」
あからさまにハアと溜息を吐いて、その問いには答えず、沖田はつづける。面倒くさいのは、たぶんあの男を斬ろうとしたら、まず間違いなくあの指輪のどっかにあるスイッチを押すってことですね。足を伸ばしてグローブボックスを蹴りつつ、沖田は土方が何か云うのを待つ。資料に載っている指輪の写真に、おまけみたいについている説明は、「自爆装置」。ハンドルをかつかつとやっていた指をとめて、土方は静かに助手席側のロックを解除した。少しの間をあけてから、沖田はがちゃりとドアをひらく。いってきまーす。
車から降りて沖田は、コンビニに行くような軽い足取りで、闇のなかへと吸い込まれていった。
「あいつの目の良さ異常だよ」
土方のつぶやきに、近藤はたいした反応も示さず、報告書を流し読みしている。今更だな。煙草を挟んだままの手首が気だるげに折れて、灰が文机を汚していくのを目にとめつつ、土方も煙を吸い込む。何百メートルも離れた場所に立つ男の嵌めた指輪だぞ。云いながら土方は、あのときの光景を思い返す。片付きましたとの沖田からの無線がはいり、あとから来た応援と倉庫に近づいていくまでの間、より一層それは色濃くなった。なにより倉庫までの距離が予想を遥かに超えて遠すぎた。
あいつは昔から目は良かったからな。近藤の持つ筆がぴんと立って、墨のなかへと沈められていく。良すぎだろ。唇に銜えた煙草が急激に短くなっていった。人間離れしてる、と云いかけて土方はそこで言葉をとめる。
「きっと俺やお前に見えてないモンまで、見えてんだろうよ」
そう云って、近藤が微かに笑う。筆先がずぶりと黒に染まる。
血の池に沈んだ男の中指はそこだけ白くなっていて、指輪を抜き取られたのだろうことが見てとれた。倉庫のパイプ椅子に沖田は腰掛けて、入口に背を向けて、いかにもだるそうに首を曲げている。そのうなじに返り血がかかっていて、土方はそれに吸い寄せられるように、近づいていった。そして沖田の背後まで近づいたとき、倉庫の扉を全開にする者がいたのか、月の光がまっすぐに彼女の手元に伸びてきた。どろりと、なにかが妖しく光るのを土方は見た。見開いた眼球にはいってきたもの。それは沖田の人差指を中心にくるくると回っていた。黒いリング。沖田の人差指の周囲を、環が回転しつづけ、奇妙な音を立てている。沖田がそれをじっと見おろして、そうするうち環は次第に緩まり、やがてとまったのと同時ただの指輪に戻った。首をそりあげた沖田と、目が合う。人差指をまっすぐにあげてきたので、土方はそこから指輪を抜き取った。危ないことするんじゃねェよ爆破したらどうするつもりだ。沖田は立ちあがって、うなじの血を手の甲で拭い取ってから、まぶたを擦った。
「なんだか土星みたいだなァって、思ったんですよ」
土方が雨で濡れた隊服を脱いで着替えを済ませている間も、沖田は寝転がったまま、それでも空から目を離さず、畳についた手を時折すべらしている。爪痕で次第にぼろぼろになってきた畳の折り目を、裸足が踏んでいき、ねちゃっとひっつく。風邪ひくぞ。濡れたままでいる沖田を見おろすと、彼女のうえで影が揺れ動き、みあげてきた瞳と目が合う。「きもちわるい」 「は?」 土方さんが近くにきすぎるとオエッてなるんで。と云いながら、沖田は土方の足の甲に頭をのせてきて、云ってることとやってることが真逆なのはいつものことだった。
小指つりそう。そう思いつつも、土方は彼女の頭をどかすことはせず、煙草を銜えたまま視線を外せずにいる。星が多いと気持ちわるいなァ。沖田のつぶやきには反して、雨があがったばかりの空はいまだどんよりと曇っていたし、星どころか今宵は月さえも窺えそうにない。「俺にはなにも見えないけど」
「土方さんには情緒ってもんがないですからね、
星はいつでもそこにあるんだから見ようと思えば見えてきちゃうんですよ」
土方は、ふいに近藤の言葉を思い出して、押し黙った。ああ、こいつは目が良すぎるんだった。見えすぎると、きもちわるいのかもな。ぎゅっと手のひらで煙草を揉み潰す。土方が何も返してこないのが不思議と見えて、沖田は唇をひらく。もしかして、信じちゃってます? 「信じてねーよ」、土方は新たに煙草を銜えて、沖田が足首に絡まってくるのを感じたまま、灯をつけた。一瞬、薄闇のなか濡れた沖田の髪の毛が浮き彫りになって、土方は眼を細める。
「ちなみに土星どこ」
「そんなもん知りませんよバァカ」
2013.05.17/厄の星