何故、自分は下駄を履いているのだろうかと長谷川は思った。背骨を丸め地面を擦るように歩く。歩きながら悴む足元を眺め、親指あたりに生えているのが凍ってしまわないだろうかと考えている。胸に抱えた桶の中から石鹸の匂いが長谷川の鼻を掠め夜空に紛れていった。寒かった。前方にもうもうと煙を立ち昇らせる煙突が見えてきた。長谷川はその方へ足早に、下駄を鳴らしながら近付いていく。いざ暖簾を潜ろうとしたところで、中から男が出てきた。その男もまた下駄を履いている。からころと響かせながら長谷川の横を通り過ぎていった。歯が擦り切れるまで履いた自身の下駄を見おろして長谷川は暖簾を潜る。両足首を擦り合わせるように下駄を脱いだ。床にあがりその冷たさに肩を竦ませながら番台へと向かう。
最後に脱いだ下着を下足札にかぶせ更にその上に半纏を置く。風呂桶を取る際にささくれた竹製の脱衣籠に指をひっかけた。ガラス扉をずらし中に入ると誰もいないようである。どうりで番台の親父の愛想が悪かったはずだと思いながら湯をかける。髪も身体も洗い流してからタイル張りの湯船に右足から入っていく。その熱さに首まで身を浸した。指がふやけている。瞬きするたび睫から水が滴り落ちるのを感じつつ小さく呟いた。どうすっかなあ。今日長谷川はまた仕事をクビになった。これで何度目だと自問したがあまりにも不毛なのでやめてしまった。
脱衣所にも人がいないようである。壁に掛けられている時計に目をやり納得しながら、備え付けの体重計に乗る。針が左右に触れるのを所在なく見つめていると、ふと視線を感じた。顔を上げると、それは番台から向けられている。長谷川は体重計から降り、そそくさと帰り支度を終わらせる。番台の横を通り過ぎるとき、視界端に自販機が見えたので買っていくことにした。下駄をおろし足をとおす。表に出るとちょうど風が強く吹き、まともに長谷川の頬を叩いていった。洗ったばかりの髪の毛が凍りつくほどの冷え込みようであった。覚悟を決め一歩踏み出したとき、ふいに前方から知っている顔があらわれた。そいつは煙草を揉み消して、縮こまるように此方に近付いてくる。面識は確かにあったが別段話すこともないので軽く会釈だけすると相手の眉間が皺寄った。男はそのまま長谷川の横を通り過ぎ暖簾を潜っていく。微かに血の匂いが鼻先を掠めたので、ぎょっとして振り向く。番台の親父の顔がさらに強面になることだろうと思った。
そして何故、自分はコーヒー牛乳なんぞを買ったのだろうかと思う。瓶を持つ右手にはもはや感覚がない。真横から吹きつける風の無慈悲さに低く声が漏れる。ちびちびと冷えたそれを飲みながら、よくないことは連鎖していくものだと思った。ううさびい。しぬ。しんじゃう。独り言をぶつぶつとこぼしつつ長谷川が歩いていると、通りすがりの居酒屋から万事屋の三人が出てきたのに鉢合わせた。あれ長谷川さん。よお、と瓶を持ったまま長谷川は手をあげた。グラサンかけてないと誰かわかんないアル。銭湯帰りですか。おおと返してから、ガキふたりの肩に凭れかかり俯いている男を見おろす。潰れてんなァ。そうなんですよ飲みすぎたみたいで。苦労してんね新八くん。長谷川さんは最近どうですか。はは今日クビになっちゃったよ。またアルか、マダオはマダオのままネ。まあ頑張れヨと神楽が笑う。そのとき新八に凭れかかっている坂田が頭を上げたような気がした。
じゃあまた、と万事屋は長谷川と別方向へ歩き出した。新八と神楽の間で引き摺られるようにしている坂田をちらと見てから、長谷川も再び歩き出した。歩きながらコーヒー牛乳の瓶を持つ手が震えていることに気付く。ごまかすように残りを一気に飲み干した。何故、自分は泣きそうになっているのだろうかと思う。まぶたに熱が集中して、涙がこみあげてくる。どうしようもなかった。ぐうと堪えようとしても、目尻に涙が溜まっていく。グラサンをつけ、今日はじめて煙草に火を点けた。吸い込んだ煙には冬の空気もが含まれているような気がして耐えがたかった。長谷川はその場に立ち竦んだ。何処にも行ける気がしなかった。
2010.11.20/帰路にて