タクシーに向かって挙げた手を背伸びして掴んだとき銀ちゃんは今すぐ寝たいという目でゆっくりと瞬きをして、そんな銀ちゃんの顔をやっと来たタクシーのヘッドライトが走り去っていった。その光が遠ざかって影になった銀ちゃんの、喉仏のあたり、そこを伝う汗の粒を見あげている心は、さざ波だった。夜風と共に吸いこむ、よく知っている男の匂いが、その微かな波を震わせて、よくわからない窒息感になった。「え。何してんの、お前……?」という声を置いてひとり歩きはじる。今しがた触れていた手のべたついた感じが残っている指先でまぶたをこする。数歩先の自販機の明かりが何重にもブレてくる夜に、重労働をした後の身体が溶けて混ざりそうだった。「おい、こっから家まで三十分以上かかんだぞ」、ついてきている声に滲む、半分寝てんのか?というような響き、「身体中ギシギシなんだよ。今すぐ汗を流してふかふかの布団に飛び込みてェんだよ。おーい、神楽ちゃん。聞いてる?聞いてねえな、……お、ワンカップ」、バカがカップ酒売ってる自販機に気づいたみたいなのでつい振り返ると、もうちゃっちゃと小銭を投入していた。屈みこんだ天パをぶち抜いてやろうかと思っているうちにさっそく蓋を開けながら目の前まで追いついた銀ちゃんは、懐からアルミホイルに包まれたおにぎりを抜きとって「お前にはこれ」と突き出してきた。もう随分と前に思える、おにぎりを握っていた朝の背中を思いながら「まだ残ってたアルか」、受けとったそれは酷くぬるくて、銀ちゃんの手みたいにじっとりと柔らかかった。アルミホイルを剥がした中から出てきたものに、「……潰れてる」と呟いてかぶりつきながら今度は並んで歩いていく。お互いぼろぼろだったから歩くのはいつもよりずっとのろかった。だれもいない赤信号を渡るとき、あくびをこぼしている銀ちゃんが、「こんだけ誰もいねェとアレだな、フリチンで町を歩けるぞ」と真顔で呟くのに「おまわりさ〜ん」とそれこそ大声をだしたら何処かの家の窓が開いて口を塞がれながら走るはめになって、はあはあと息切れる合間ずっと、ちゃぷちゃぷ跳ねるカップ酒の浮き沈みを見ていた。この瞬間は、毎日過ぎていく夜のひとつに過ぎないのに、明日もくる保障はどこにもなかった。どこにもない。それは、数年前の自分がこんな瞬間を想像できなかったのと同じことだった。はあー、急に走ったらゲロ出そう、という銀ちゃんに塞がれている口をむりくり開けて、前歯で手のひらの肉をおもいっきり噛んでやった。悲鳴をあげたあとに歯型のついた手のひらを見おろした銀ちゃんが「もうわけわかんねーよ、お手上げだよ、女心」と吐きだすその腕をとって帰り路を行く。その道中で何回かアタマをはたかれたり笑うことがあったけど、何でそうなったのかは思い出せなかった。うちの敷居をまたぐとき離した腕が、部屋の明かりを点けた光は痛いほど思いだせるのに。
2016.10.29/ワンカップ女心