命がけの鬼ごっこの果て、逃げ延びた金網の中は獣臭かった。目の先で息を弾ませている互いの肩が、暗がりに上下するのも獣じみていた。普通なら息を整えるために使う時間で、喫煙者どもは水を飲むように煙を取りこみはじめ、高杉か土方か、どちらかの咳き込みが、汚い濁音で散った。汗だくのわりには、さっき耳をかすめたナイフの切っ先並みに冷たい手に、銀時はハーと息を吐きかける。息するたび散る白さで空虚になりながら、走りすぎて痛む横腹に手を這わす銀時はそこで思いだしたように咥内で干乾びていたガムを噛んだ。とうに消え失せた甘みのかわりに、血の味が広がった。それは誰かの皮膚を噛んでいるときのようだと思い、土方のいるあたりに目を凝らせば、バツの悪いことに高杉の片目にぶつかってしまう。一瞬でも交わった高杉が意識に糸で垂れて、巣を張った。
 あまり脳味噌を働かす気のない端くれで、どうすると形だけ呟いてみたとき、ふいに背後を風が通った。即座に息を殺す。何が飛んできてもいいように身構え、不穏に張り詰めた五感に直後、錠が下りたといわんばかりの鈍く、嫌な音が響いた。は? 悪い予感から、指に握りこんだ金網を揺らすが、錆びかけのわりには、びくともせず嘘だろと吐いた。どういうわけか、閉じ込められた。銀時は他のふたりの、圧の強い目つきを闇に感じた。なんで俺を見る?
「「軟禁」」
 変なところでハモる、ふたりだった。あ゛ー、行き場のない鬱屈で、金網に凭れかかろうと動いた銀時はそこで桁違いな奇声をあげた。なにか生々しいものが足に触れた、というか蹴った。銀時の重みを受けとめた金網がガシャガシャ鳴く。
「うるせえな」
「今度はなんだよ」
「いや足ッ!足元に何か……、いる」
 瞬間、すっと高杉のほうへ遠ざかる土方が空気で伝わった。この野郎と銀時は噛んでるガムに血をこめた。おそるおそる足元に凝らす目に、薄っすらと輪郭を結ぶ、もやっとした塊。銀時の脚にすり寄りながら上下するそれは確かに息づいていた。月光だけじゃ心もとない。充電が切れかけのガラケーが淡い光でまず銀時の顔だけ顕わにする。そこから下へと滑り落ちた光が最初に切り取った部位は、耳だった。薄いピンクに色づいた、耳の穴。あァなるほど。それだけで正体がわかってしまった銀時はそのままガラケーの光を、ペアルックかよと朝からずっと言いたい高杉と土方のブルゾンの、腕の部位にだけ散りばめられた花柄に彷徨わせる。やつらの生きていく道に微塵も咲いていなさそうな花だった。たるんでいる肘のシワから、片側だけ見える鎖骨へと、這いあがらせていく光の動きが我ながらいやらしい。ホラー予告が流れた一瞬と同じ目の瞑り方をしている土方の顔を照らしだす銀時は、そこで光を左右に振った。土方、と名指してから、お前の足元にもいんぞ。と告げた銀時は、世にも珍しい土方の反復横跳びを、しかと瞳におさめてから「兎だよ」と教えてやった。クク。漏れ聞こえた、高杉の笑い。に、まぶたをあげた土方の、ガラケーの光を辿って、そこらに点々といる白い塊を映した瞳が、揺らめく。高杉の笑いにつられ鼻からフっと息が漏れた銀時、震える腹筋、ガクンと膝から崩れる土方、そこらの壁や兎や自分たちを縦横無尽に照らしていくガラケーの光、なにが可笑しいのかわからない死ぬほどの可笑しさ。息を吸えない笑いの波に溺れながら、ここまで走ってきた夜の暗さを、見えるものが何もない水中みたいに、高杉が、土方が、空気を切る体や、息遣いでいて、ただそこにいることを、銀時は初めて気がついたように目をふせた。目尻に溜まっていた雫が、ツウ、と伝い落ちていく。銀時は、息が継げない。
 それでも笑い死ぬということはやっぱりなくて、ほぼ同時に銀時と高杉だけ、一足先にその波を抜けだした。抜けてしまえば、何が可笑しかったのか、てんで分からない。笑いだけじゃなくあらゆる心情も一緒に抜け落ちていった。無になった顔で、まだひとり、うずくまったままの土方を見おろす。一歩近づいた銀時は、ためしに膝で土方の背筋を突く。微かな振動以外に反応がないので、覗きこんだ。前髪が、土方の方へ流れて触れる。そのあわいから見た土方は、ヒュウっと肺から音を漏らして、痙攣していた。その両手で離すまいと握りめている白い塊、兎の耳が土方の指に撫でつけられているのを目にした銀時に、言い様のない一瞬が湧く。たまに唐突にこみあげる、掴めない何かは、掴めないまま、いつか終わるのだと思う。
「オイこいつ、笑いすぎて過呼吸なってんぞ」
「助けてやれよ」
 ぜえひゅうと体に風を吹かせている土方に置いた手は夜を掴んでいるみたいだった。闇の中、ひときわ澱んでいるところが高杉だった。土方も。高杉も。銀時は助けてやれない。置いた手や、体温でそこにいて、でも明日もいるとは限らない。
「はあ。ガムやるよ」
 捨てるとこねえから、お前に。そうして、まだかろうじて息を吹き込める汚い風船が、土方との間で膨らんでいった。それを咥内で元の塊に戻すと銀時は、土方から漏れる微かな息を己の口で押し返すように塞いだ。荒れた表皮。高杉が噛むからだ。そして、銀時にはなかなか開かない。下手糞と貶されるやり方で雑に食み、舌で入り込みながら、薄目で土方を。土方だけを映す視界にした。暗いから余計に、息だけじゃなく声も、直に飲み込める。舌先にはりつけたガムを土方の歯が噛んだ。そこには銀時の血が混じっている。ガムは土方の左頬へと移動して、もう用はねえだろといわんばかりに遠ざかろうとする舌を、銀時はまだ離してやる気がない。兎の毛並みの上で重ねた手も。これは自分たちの呼吸なのか、兎の呼吸なのか。するりと抜けだした毛波が、自分たちの手だけ置き去りにする。繋いだりは、しない。この手が護りたいものを、知っている。ひとりでうまく継げない息が、ふたりだともっとダメになった。三人だと、どうなることは、わかっていた。泳げなくていい。そういう、三人だった。
「……なんだその顔。何に文句つけたい目」
「舌デケーんだよ、てめぇ……」
 あ。やばい、犯したい。マズそうに膨らんだ風船が一秒ともたず土方の唇にはりつくのを見て、ふらっとよろけるように離れた銀時は金網にひたいをつけた。萎えたいときには高杉だと思って振り向いたら、今しがた銀時が口づけていた唇に、高杉が噛みついていた。自分のときとは違い、土方のそこはもう開いている。何が違うのか、とジットリ観察にいそしみながら自分との後、唾をぬぐわなかったことに思い当たり、掻き混ざる音が、銀時の内で生々しく溜まっていく。高杉は平気でやるが、女ではなんとも思わなかったそれが、土方を介すと、無性に高杉としている気分になる。いつだったか、原因不明で何か月も喋らなかった時期、なりゆきで高杉の寝言を、自分を呼ぶ声を聞いてしまったときの、息の継げない一瞬に名前をつけたくない銀時は、薄闇で、もはや誰のかわからない唾液を嚥下して動く高杉の喉仏を見ていた。つけられる名前が、あるはずもない。お前にしか、奪えない息だった。
 今度は高杉へと移ったらしいガムが、これで限界という膨らみ方をして、パチンと割れた。もはや、いくら噛んだところで、それ以上はない。それでも吐き捨てず、再度、咥内へ戻した高杉は血の味しかしないだろうそれを噛み続けた。かろうじて通常の呼吸に戻った土方の、かなしいほどに、そこでしか生きられない目が、自分と高杉を映す今を人生だと思う。いつのまにか明瞭に見える互いの顔に、明けるんだな、と銀時はわかった。背後で、徐々に光になっていく金網が、高杉と土方の、自分を見る目で、伝わる。銀時は、息が継げない。明ける瞬間を、三人でいた。どこかさみしい、兎たちのいる飼育小屋で。


 そこからどうやって金網の外へ出たのか。銀時は今も思いだせない。木の枝で鍵穴を弄ったんだったか。力ずくで蹴り倒したんだったか。それならあそこにいた兎たちはみんな何処へ行ったんだろうか。確かめようにも、やつらはもう、同じ水中にはいない。

2018.01.05/泳げなくていい