世界が煙たい。誰かの吐く息そのものだった。
おしぼりの袋を裂いて「あ」坂田はそこではじめて自分がひとりだと気づいたごとき空虚になった。注文を取りに来た店員は、おしぼりを顔面にかぶせたかと思えば静かに肩を上下させている銀髪から「アジフライ・・・」という弱弱しい声をかろうじて聞きとった。厨房に注文が通る。坂田は、顔面におしぼりをひろげた状態で動かない。四方八方から来る煙で絞められているかのように見えるその首は、今にもゴロンと落っこちそうだった。ガチャガチャと皿のぶつかり合う音。勝手に耳がすくう他人の会話。食べ物の匂い。煮たり焼いたり煙ったりがぐちゃぐちゃと混じり合い、坂田の顔を覆うおしぼりが時折ふっと鼻の窪みに、はりついたり浮きあがったりを繰り返す。そこに浮きでる顔の凹凸が、やがてのろりと動いたのは、アジフライ定食が運ばれてきたからだった。目とか鼻とか口とかのパーツが取れてしまいそうな摘まみ方で、顔からおしぼりを払った坂田はさながらゾンビが息を吹き返したかのようだった。テーブルに置かれた膳をうつろに見る。箸を割りながらの坂田の目線はその膳を通り越し、使われず汚れのない灰皿の方へそそがれる。
「可哀想だなお前・・・」
過去、自らの口が放った言葉がふっと再生された。
「四六時中、あの野郎の下で。同情するね」
パチンコ屋の駐車場で、揃って土方へ視線を送っていた。言われた山崎は、俺の腕を捻りあげる手はよわめず「俺も同情します」と言った。「誰に。俺になら、逃がしてくんない」それをまるっきり無視して「可哀想ですよね・・・」慣れた手つきで掛け声もクソもなく人の骨を折ってきた山崎の「可哀想」は俺ではなく土方へ向いているらしかった。じゃあ折りますよ3、2、1などと下手に声をかけて身構えた方が綺麗に折れない事を知っているのだこの地味な男は・・・。「よかった。これで暫く休めますよ旦那」そんな声を痛覚の外側でどこか他人事に捉えながら視界は、赤らむ空と、そこに立つ土方に焼かれていた。どう考えても可哀想なのは俺というこの状況で、あそこでのんきに煙草を吸っている土方のほうを可哀想と言う山崎は真に救えない。いくら車通りが少ないからといって道路の真ん中で煙草を吸う土方はいつ轢かれてもおかしくない。人生はいつが最後になってもおかしくない。そんな土方がふいにこちらを振り返り、視界を俺に細めたのがわかった。
「もう夕方か・・・」
暮れる日に目を細めて呟かれた微かなそれが、なぜだか物理的な腕の痛みより響いて、今この瞬間、同じ夕方の色に焼かれることを、つよく思った。その頃から、ふとした日々の視界に徐々に居座りはじめた土方を、そそぐ陽の色に近いレモン汁をアジフライに垂らしながら振り返る坂田の中には、あの夕方の地獄がずっとあった。笑うだけでも響く折れた骨の痛みに似て、そうやって日常に土方が響くたび、自分でも無意識な痛みを引きずりだされる坂田はふと窓のガラスに映る自分の目と目が合う。可哀想だなお前と声が聞こえた。きれいなままの灰皿を相手に、かぶりつく衣がサクッと音を立て、揚げたての熱が咥内の粘膜にじゅわっと迸る。ふわっと盛られたキャベツにもタルタルソースを絡め、合間に啜る味噌汁、ふっくらにピンと立つ白米を平らげていく坂田は、無心に咀嚼していった。喫煙か禁煙かと聞かれ、無心に「喫煙で」と舌は動いた。土方がいることに、慣れすぎた。キツエンとキンエン、一文字の誤差が。ツとン。一本そこに線が足されただけの差が。息の継げぬ程度に坂田の首を絞める。
翌々日の夕方。朝から何も食ってない何でもいいから食わせてくれと押しかけてきた土方の服のそこかしこに生乾きの血が見てとれて、坂田は夕方でよかったなと言った。部屋の奥まで入ってくると土方についた血は窓を熱くする夕焼けと見分けがつかなくなった。何でも?と首を傾げて目を細めると、少しの間を置いてその場に膝をつく土方が開く口の、緩む瞬間をじっと見おろす。性器へ這おうとしてくる手を払い、その咥内に親指を突き入れた坂田は粘膜をひとしきり撫ぜて少ない唾液の糸を引くように抜き去ると、脱水症状・・・と呆れた声が出た。とりあえずバケツいっぱいの水道水を飲ませ、その間に冷蔵庫を物色したが、使えそうなのは卵ぐらいのもので油をひいたフライパンに割って落とした。蓋をして弱火で待つ間、「精液だって水分じゃねえのか・・・」というアホな呟きが部屋に落ちた・・・。坂田のシンクを掴む手に薄っすら血管が浮きでる。
「あ、血・・・」
フライパンの、曇っていく蓋に目を落とす。徐々に焦げついていきながらも、なかなか固まらない黄身から、薄っすら伸びた白身の方へと伝っていく赤が、見えた。血の混じっていたらしい卵の、真っ二つに割れた殻を見る。まだ引いていきそうにない夕方と、土方がいることが肌でわかる空気が、目の下をゆっくりと血の色で伝う。見た端から焼きついていく視界、背中に感じる土方、足元に積んだダンボールが夕陽を吸って眩しい。
「目玉 焦げそう」
まぶた越しに眼球を揉む坂田は、フライパンを放置してしまっている。黄身を覆う白身の方から、それは静かに焦げついていく。
玄関から出かかった土方に待てがかかる。その後の散々焦らす無言に何を待たされているのかわからなくなったところへ「ヨシ」と漏らす坂田、俺は犬か。と土方は呟き、そこに餌があるわけでもないのに何かと思えば、大家がいないことを確かめてからいつも出るのだと言った。家賃の取り立てから逃げるロクデナシはさらに階段を降りながら「あ、手ぶら。300円貸して」と手をだしてくる。いつも手ぶらだろテメーは・・・・土方くんがいりゃ大丈夫・・・だらしのない会話で路地裏に入る。薄れ行く陽が、そこらじゅうを擦っていた。かつて女を逃がした落とし前として、腕の骨を犠牲にした坂田が、土方の中にふっと泡立つ。女だろうが捕まえたらタダでは済ませなかった。あのとき、そこへ向かっていた車はやけに信号に捕まった。「混んでますね今日、道」と運転する山崎の空々しい呟き、窓を擦る澄んだ空、もぬけの殻になっていた女の部屋、床に落ちていた坂田の名刺が山崎の手によってグシャグシャ伸ばされる音「旦那には 土方さんも骨が折れますね」全てを汲み取っている山崎の殺意を覚える駄洒落、逃げも隠れもせず呑気に近所のパチンコ屋で打ちながら「逃げたよ。遠くへ」と言った男の横顔を、今、あと僅かで無くなる西日に透けながらゴミ溜めにジャンプの束を落とす男の横顔に重ねる。水溜りに、ほどけかけの靴紐が浸かっている。その水面は、坂田の瞳の色に近かった。今そこは、この落日の瞬間だけに染められていた。そうして、こちらの眼に最後を焼きつけた直後、すうと息を引き取るように暗くなる。坂田の眼と合う。あの日。夕日に焼かれるなか、この男の骨が折れる瞬間の乾いた音を、土方は覚えている。枝の折れるような音だった。痛みに呻くどころか薄っすら笑っているようにさえ見えた男の、土方を見る目は遠いような眩しいような哀れみのような、赤く射る残照なんかより、ずっと土方を焼いた。
「腕のレントゲン写真、まだ持ってんのか」
「ああ?なんの話」
「記念に取っとくつってたろ」
「・・・あー・・さァ?どっかいった」
何年前の話だよと腕を回した坂田が水溜りを跨ぐ。そういや最近見ねェけど、ジミーくん元気?今は足を折って入院中だと返せばマジかと、せっかく跨いだ水を跳ねさして、坂田の靴紐はさらに泥色になった。
「ハハ、返ってくんだよ全部、いつかは・・・」
それなら自分達は、きっとろくな死に方をしない。ろくな生き方とは何なのかも、きっと死んでもわからない。ゴミ臭い中、坂田は鼻先を土方に寄せた。嗅いだ体臭に混じるヤニ臭さに「やめる、つってなかった?お前・・」ハーと、うなじへ息を吐きかけた。口寂しそうなツラ・・・と呟いて土方の体から離れた坂田の、このまま一生別れそうな、いつもの空気を「今夜八時 夜桜見物」という土方の一言が破った。来ても来なくてもどっちでもいいという顔でそのまま路地から出ていく土方の背中を、坂田は無言で見送った。なんとなくポケットの中の300円を手に確かめる。遅れて坂田が後を追うと、もういなかった。道なりに目を凝らせば、遠くの方に見えてくる影もある気がしたが、坂田にはそれがもう土方か、わからない。
「夜桜見物・・・?」
何度目かわからぬ坂田の呟きを無視した土方は、視線を桜の木ではなく、頭上のひとつだけ灯った提灯へと注いでいる。合流した坂田と土方が他人の距離でここまで歩いてきた際にはもう、四方に張り巡らされた提灯は、ぽつんと灯るそのひとつを残して、ふっと息を吐きかけられたかのような後の祭だった。おおかた花を散らせてしまった木は、さながら血を洗い落した誰かの体みたく坂田の目に映り、その剥き出しの曲線、先端にいくほど繊細でよわそうな枝の、折れそうで折れない、しなりが風の中にある。自分たちを照らすのは、ひとつきりの提灯だった。その灯を瞳にゆらす土方は前髪を邪魔くさそうに、ひたい剥き出しで、生え際をボリボリむしっていた。その生え際にチラと覗く古傷を一瞬の視界に収めた坂田は、またひとつ過去の傷を見つけた事への溜息重く、酒にばかり手が伸びた。散ってしまった花弁が風で舞うのが、頭から舞い落ちるフケのように見え、夜桜見物?もう一度呟いてコップに張った透明の酒に目を落とす。その程度で、気の短い土方の拳がベニヤテーブルへ降りおろされた。波打つ酒。坂田は笑った。犯しているときの、顔や声がふっと浮かんだ。立ちあがった土方がぶらぶら桜の木の方へ歩いていく。何をする気か小便か?虚ろにそれを追う坂田は、土にしゃがみ木の幹を撫でる土方の行動が読めず、そもそも体の相手が互いに大いに間違っている時点で元から何ひとつ読めず、そんな思考と一緒に目も遠くへ飛ぶ。そうして焦点をズラしても視界のどこかしらで、ぼやけ続ける土方を、その存在を坂田は覚えてしまった。体が土方を、覚えてしまった。
「これでいいか」
はら、と降ってきた幾つもの花びらに、うつろに目をあげる。見おろしてくる土方の目と合い、その手から舞い落ちてくる花弁が、こちらの髪や肩へ乗り、服の中へも入り込み、透明の酒にも浮いた。澄み切っていたのが、雨上がりの泥濘からすくわれたそれに濁っていく。それを一息で干して、泥の味がすると呟いた坂田は、「お前のほうが、かぶってんじゃねえか」と土方の髪から湿り気の花びらを摘まみ取った。その手を無言で掴んできた土方の、皮膚の感触を生々しいとボンヤリしていたら、そのまま手を引かれ歩きだす。繋いだ手の、手首から先が闇に溶けて見えず、ついでに腰から下も見えず、夜と手を繋いでるみたいな気になりながら坂田は、ぬくい・・・と視界を閉じた。開いていようが閉じていようが連れていってもらえるなら、同じだった。やがて今自分がどこにいるのかわからなくなって、繋いだ手しかなくて、それ以外はどうでもよくなる感覚に、遠い昔もこうして手を取られた日があったことを坂田は体で思いだしていた。見あげた先の、いつも陽に透けていた髪の色。そういや、そいつの名には陽の字が入っているなと今さら 妙に腑に落ちながら、死の際にいたって笑っていた、陽に透けた瞳がふっと走る。笑う瞳の奥に、地獄があった。束の間 なにもなかった道を共に歩いた。共に行く、初めての手だった この果ては地獄でいいと思う手だった
「何、寝てんだ お前・・・」
手の皮に爪を立てられ目をあけた坂田は、夜が毛になって触れたとまず思う。それが土方の毛であると気づいたのと、そこにヨダレが垂れたのはほぼ同時で、汚ぇとすかさず避けられ、かろうじて垂らさず啜った。危うく土方の髪を食べてしまうところだった。歩きながら寝るやつは自分が死んでても気づかねえらしいぞ・・・と真顔で言う土方に「え嘘、俺死んでる?」と足があるか確認したら無事あった。
「今笑った?」
「・・・・・・・」
一瞬、肩を震わせたように見えた土方は夕方からひきずる口寂しそうな顔をして、屋台から肉の塊を受け取った。そこで初めて坂田は自分たちの真ん前に薄っすら灯る屋台があることに気がついた。周囲の闇に首を巡らせてから、のれんに焦点を絞る。フライドチキン台湾夜市風・・・。
「ここ、どこ」
「てめえが寝てただけで、さっきからずっと神社だここは」
「・・・花も散った夜に?屋台・・?誰もいねえぞ」
「いるだろ、ここに」
坂田は、土方の顔と巨大な肉の塊をジットリ見る。肉を包む紙袋に染みだす油と、握られたままの手に滲む汗。屋台の灯は、ぎりぎり繋いだ手までは届いていない。坂田は夜でよかったなと呟き、金を出して肉を受け取る間中この状態でいたのかと思い、土方の手中にある指をピクリ動かす。利き手とは違う手で、釣りまで受け取る土方の危うさに坂田は視線を這わせながら、まるで崖から落ちる手前みたいな馬鹿力でこの手を握っていたのは自分だということにも気づいていた。
「お前それ食いたかったの」
「べつに食いたかねえが、まだ苦ぇ・・・テメェの目玉焼きが」
「根に持つよな、わりと」
今度こそ神社から出て、なんとなく手を離さないために人気のない方へ足が向くうち耳には水音が触れはじめた。吹く風に混じりはじめたそれに、ここはどこだと思う。知らない道だった。帰れんのか?と横の土方を見ると、同じことを言いたげな目と合う。擦れ合う皮膚、骨ばった指の硬さ、女とは違う自分の中に納まりきらない何か。土方しか感じない手とは別に、空いた方の手は闇をすくい続けた。歩きながら何も考えず引っかけていた。指の腹に何かが刺さって、ようやく、水音はすぐ近くを流れているとわかる。そうして、指の先にずっとあったらしい金網を認識した。
「川」
網目に近づけた眼で、下を覗きこむ。坂田がとまったことで、引っ張られた手につられた土方も覗く。ほぼ闇で何も見えないが、じっと凝らしていると流れがわかる。流れているということだけが、わかる。せせらぎというには少々荒い水の流れが、音で見える。
「何川?」
「知るか・・・」
どれだけ荒れても結局は同じ方へ流れていくしかない。そんな川に食い入る男ふたりは、息しているかも怪しいほど長いこと動かなかった。先に吹き返したのは土方で、それは川を見おろしていた眼に、水飛沫がかかった気がしたからだった。まあまあ遠い水面に、届くか?と眼球を擦って確かめたかったが、土方の両手は坂田の手と肉の塊で塞がっていた。土方は、この生易しさのかけらもない手繋ぎが、崖から落ちかけている男の体を、片腕一本で引き留めているのに近いものだとわかっていた。今にも落ちていきそうな坂田を、気配で思う。
「俺、明日にはいねえ 多分」
風が吹いた。視界の端にざわめく銀髪が、風に散って、桜を思う。
「・・・どっか行くのか」
「ああ」
「どこへ」
土方は、見れなかった桜を思う。
「まーまー遠い」
そうかと土方は言った。そうかと言って離れない土方の手を坂田もそのままにしている。これは肉を握っているほうより下手したらべたついているんじゃないかと思い、そこで土方のもう一方の手の中にずっとある肉の塊が全然減っていないのを見て、坂田は顔を寄せた。犬みたく齧りつく。意外と噛み応えがあるそれを毟りとるように前歯でちぎった。咥内に肉汁を溢れさす。舌で唇を舐める。肉を挟んで土方の顔。その口がうっすら開いた。いつも煙草を挟んでいるそこが肉の塊でいっぱいになる。覗く歯。そこらの野良犬より凶暴だと坂田は知っている。この歯に食いちぎられたことのある皮膚はひとつやふたつじゃない。銭湯に行けない日は数えきれなかった。肉を挟んで覗き合う。俺達も所詮は肉の塊だということを確かめるようで笑ってしまう。だからかなんなのか土方は肉の見分けもつかなくなったようで、オイそこは俺の口・・・と坂田は心中で突っ込んだ。
「肉じゃ足んねえか・・」
喋ろうとする口をさらに噛まれて黙らされる。痛ってえなと目を土方に絞ると混じりすぎて、どこが境目かもわからない。肉を食いちぎるような接吻に、そういやキスはしたことがない・・・口寂しいの次元を超えた、がっつく舌に唇をこじあけられる。「ッンう」舌かと思えば本物の肉も混じっていた。飲み込めよと呆れながら坂田が噛んだ。どちらかの歯の隙に挟まっていたそれも舌でこそげとり、ついでのように上顎を擦っていく。息も継がせぬ口を舌で押しかえし掴んだ髪を引っ張って角度を変えた。胸の間で擦れている肉が、Tシャツに油を染みこませていく。
「っふ 、ちょ・・待て、自転車」
遠くの闇から走ってくる光に気づいて横に逸れかけた顎を掴まれる。今この瞬間だけでなく、この先の道まで焼き焦がすような土方の眼の強さに坂田はアー・・・となった。そこはあの夕方の地獄だった。開けてろ、口・・・こんな時だけ閉じてんじゃねえ大概テメェの口はだらしねえだろうが、と余計なのを付け足され普段お前は俺がどんな風に見えてんだと殴りたい坂田の拳は、土方の指が絡まって、ほどけている事しかできない。自転車の光がすぐそこまで来て、目を細める。闇を走ってくるそれに刹那 切りとられる互いの顔。特に速さをよわめることもなくシャアアアと過ぎていった自転車の風と遠くに去る光、だらしなく口を開けたまま、ぎりぎり唾液の糸の切れない距離で息を混じらせていた。ふたり分の男の重さに金網が鳴く。
「何これ・・・キスじゃねえよな」
「違え 肉のついでだ、お前は・・」
「ついで・・・・・ついで・・?」
「・・・・・・・・」
「おいガシャガシャうるせえけど平気これ」
「重いからだろ、てめーが」
「お前がだろ・・・」
「試すか。どこまで耐えるか」
金網に食い込ませた指の皮が、やぶれた。どちらのかわからない血が垂れる。土方のその声は風に攫われて何も無かったみたいに掻き消えた。消えても、あった。坂田には、あった。いつも届いたその声を坂田はこの先も持って行く。手を伸ばした。土方の胸ぐらを掴んだ坂田の背中が、金網から離れる。もう一度、近づく口に、最後まで目は閉じなかった。かすかに触れるだけの、これまでで一番短い接触は世界が消えた。何も、なくなった。昨日も明日も生も死もなにも無くなって、その直後、容赦ない蹴りを入れられたのも土方は一瞬わからない。
「じゃあな」
蹴られたことへの、それなりの痛みが遅れて来て、まず肉の残骸を見る。それから遠ざかっていく坂田へ、土方の顔は動いた。ここで、道は分かれる。最後。滑り落ちるように離れていった手の感触を、握り込む。
周囲が走る線になる中、坂田だけが止まっていた。自分だけをこちら側に残して下りていく遮断棒を目にしながら、電話に出た坂田は留守番電話サービスの真似をした。お電話ありがとうございます申し訳ございませんが只今の時間は営業時間外となっております俺のチンコ以外に用がある場合はピー音の後にどうぞ・・・ピー・・・・・・・
「 てたら、また次の春」
目の端から勢いよく来た電車が風になる寸前、耳元をかすめたその伝言、
にうっすら開く坂田の口、腰のあたりで小刻みに振動する遮断棒、眩しいまではいかない、暮れる色のさみしさで走っていく電車の窓が、とらえられない速さで銀髪に風を生み、轟音以外なにも拾えない。それでも坂田は電波で繋がった相手の微かな息遣いが、肺にまで入り込む気がした。電車に遮られていた視界が唐突に切れ、向こう側の景色が戻ってくる。切れず、耳を伝い続ける土方に、坂田は目をふせる。暴力の空気に沈みかけてはいつも、体の奥まで探ろうとするかのごとく走る土方の眼の光 精液をぬるいと言った声と顔 自分だけに向けられる土方の今が、坂田の今をゆるした。
「・・・もう夕方か」
留守番電話サービスなのに喋ってしまった坂田は、口をつぐんで夕日に向かう。歩き始めた足音は、自分のなのか相手のなのか。鼓膜に触れる、この息遣いは。短すぎる用件より、よっぽど濃く伝わる沈黙は、見えない向こうの夕焼けを坂田に流しこんでくる。離れた場所で、同じ落日の色に飲まれる。触れた手を覚えている。肌を。体温を。目の光を。声を。息を。向こうの音がさざ波みたいに、続いていた。挿入したまま寝てしまったときのような可笑しさだった。土方の中にまだいるような錯覚を覚えた。坂田は歩き続ける。生きてたら、また次の春・・・忘れぬよう、その伝言を脳に録音して、ふ、と息を継ぐ。今日が暮れていく。黄身が崩れるような色の夕方。
「ピー・・・・・・・」
声による発信音を最後に、通話を切った。
2018.03.04/肉のついで