闇がハエの群れに見える。夏の夜は特に纏わりつく。河川敷を歩く高杉は、暴れ狂う川に引かれたのだった。見えない手に引かれるごとく水辺に近づいて、濁流の飛沫を浴びる。川と岸の境目が、無くなりかけていた。周囲に人気はない。動く肌色は自分しかいない。足元で柔らかく溶けた泥をすくおうとして、すくいきれずに砂利だけが手に残った。汚れた手で掻いた顔を、溶けた土がドロっと伝う。泥をぬるく感じる顔の皮膚には人並の温度が通っている。生きている限り体から絶えず送られてくる熱を光で眼に溜め、高杉はひとり流れに逆らっていた。川も風も流れていくしかない中、高杉は動かなかった。ぬかるみに浸かりはじめる。高杉を流そうとする力が絶えず、来る。川の流れとは逆方向へ流れた高杉の眼は、闇に薄っすら架かる橋へ。眼の光が揺らいだ。影絵のようなそれへ、飛び交う蛍と変わらぬフラつき具合で歩きだす。ぬかるみに残す足跡はついた端から濁流に流され、高杉のいた痕跡を消していく。ドブから斜面へ上がり、ぐっと近くなった橋を仰いだ。斜面に生い茂った草は滑りやすく足場が悪い。体が傾きかけた拍子に、妙なものが視界をかすめた。
かろうじて水の届かぬ橋の影、一瞬もぞりと蠢く、闇を。
何か、いる。
ドブの他にも、人間の染みついた匂い。ツンと鼻に来る体臭。刹那、高杉は、疼く痛みが眼の奥を走る気がした。臭気が濃くなる。足元に、息を感じる。斜面に敷かれたダンボールに横たわる何かが見えた。ほとんど闇と同化したそれは、踏むか触るかして初めて認識できそうな存在だった。人間の体。浮浪者かなにか。闇が、黒いハエとなって、そこへ、たかっている。ダンボール紙から、裸足の、かさついた色がはみ出ていた。そこだけ闇がバラついて見え、そいつの休みなく脈打つ、くるぶしの内側に、目がいく。それに重なるようで重ならない心音が、高杉の中で打っていた。そこから早回しをしようが延々変化のない闇、がバカになるほど続いた頃、
「もらうぜ」
屈んだ高杉は、浮浪者の脇に置かれた缶ピースに手を伸ばす。飴玉の包み紙などゴミが大半だったが、煙草も残っていた。はなから求めていない返事は待たず、勝手に抜き取ったそれに吸いつきながら落ちてたマッチで火をつけた。高杉の顔が、瞬間の熱で闇に浮き彫りになる。缶ピースだが、中身はピースじゃなかった。太い。短い。葉っぱの詰まり具合。吸い応え。残る匂い。多めの煙を吐いた。闇を透き通る、ひと筋が見える。刹那に、見えなくなるが。弱い呼吸で、取り込んだ。からっぽの脳味噌に煙が満ちる。そこへうるさく混じりこんでくる濁音に振り向けば、眼下は洪水になっていた。そのうねりを、生き物に近いと思う。それを見おろす高杉の眼には、よわい火種が燃えている。微かな息でも感じて燃える。ひと吸いにうんと時をかけたその種が、灰化して崩れかかった。落とす先を高杉は、真下に横たわる体に定めた。ボロボロ降る火の粉に炙り出された、そいつの皮膚に残る痕を、高杉は覚えている。ダンボールのざらつきに擦りつけたそいつの顔にもまだ、人並の温度が通っているらしい。熱゛ッ・・・と、大袈裟に漏らした。と同時に、闇をさらって動く眼球。高杉を探り当てた眼が、ぬかるんだ泥と化す。こいつとの前回が、いつのどれか思いだせない。相変わらず下手な死体だな 銀時・・・と寝そべる浮浪者を名で呼んだ高杉の口角めがけて、ひゅっと飛んできたのは汚れた足の裏だった。じめつく身を切る風に、いつぶりの感覚を覚えた。高杉の投げた吸殻は、ふっと濁流へ。垢にまみれた足の爪が、眼先に来る。
流れ者
節々の痛みで眼が覚めた河川敷には、自分だけだった。草が体中にひっついていた。擦り傷に沁みる朝焼けで目覚めの悪い高杉は、口の端からツウと垂れたヨダレだか血の名残だかを手の甲でぬぐい、皮のめくれた拳の肉にはツバをつける。あれだけ溢れていたのが元通りの川の流れへ目をやって、せせらぎを弾いてやまない光に瞬く。朝が降り注ぐ。ドブの引いた草地には色々な物が散乱していた。水浸しのダンボールの残骸にこびりつく食いカスで脳の録画を巻き戻しながら、頭上高く、架かっている橋を仰いだ。目が合った。反射する欄干。逆光。夏の陽射しに混じる、殺意という名の異物が、体に注がれるのを高杉は感じる。煽られる。泥の体をひきずって橋へ上がる。頭上にあったものを今度は踏みしめる橋の上は、下より風があった。カラリと乾いていた。洪水と同様に高杉は橋の上の背中へ近づいていった。ドブを流されていく物たちを見る眼で、ゆっくりと。背後まで来ると、蜂蜜色の陽射しに潰されかかった銀時が、橋の下へ目線を据えたまま「太陽がいっぱい・・・」と古い映画の台詞を吐く。その内容をなぞらえて「俺の死体は見つかったか」と言う高杉を、振り返る銀時の眼が陽の光を吸う。泥まみれの二つの体が、明るい場所に晒される。じりじり焼けて焦げ目でもつきそうな銀時の白髪はヘドロに濁る汚い水を滴らせていた。光を吸って落ちるその澱んだ色に、高杉の中でふいによぎる昨晩、川底の色。濁った闇の底、吸える息のないかわりに掴み合う手首足首。すべてが流されて溶けていく中、唯一の消えない手触りから送られてくるその熱を、今、朝の光で眼に溜めた高杉は、まっすぐ銀時を見返した。ガンの飛ばし合いの末、やがて立ちあがった銀時の、こちらへ迫り来る眼はそのまま高杉を素通りし、河川敷にも戻らなかった。延々、歩く。午前を終え、真上に太陽が昇る。草履が擦り切れて足の裏から火が出そうな道だった。水浸しだった体は即乾き、そのかわりに噴き出る汗はヘドロの匂いがした。車でもかかりそうな距離を何時間でも黙々と歩き回る。銀時の通る道は、常に水の流れる音がした。それは細い水路になった。ガードレールの向こうにチラついた。石段と一緒に下っていく水の流れがあった。草の生い茂る窪地の下に感じた。踏みしめる土から湧く水に湿った。一定の距離を空け、その後を尾けていく高杉は時々わざとはぐれたが、なぜかある程度行くとまた銀時の背に流れ着く。そういう流れのようだった。そうしているうち、今度はやけに幅の狭い川が眼の先を流れて、川沿いギリギリまで密集する住宅の、生活臭漂う布団の干乾び加減が各窓に見える。それらが急激に色褪せていく日陰に入り込み、ますます狭苦しく人の道とはいえない草の中は、僅かでも足を滑らしたら川だった。行き止まりに思えるフェンスに足をかけ、ガシャガシャ上りはじめる銀時の、体重で軋む網目を高杉も掴む。握ったところから伝わる銀時の振動に、同じく全体重を掛けたところへ昨日と同種の蹴りが降り降ろされた。そんなもの、予測済みの高杉は、顔面めがけて来たそれを避けたついでに掴みとった足首を辿って、苛立ち滲む銀時の顔を拝む。振り落としにかかる足を握る手に指紋のつくくらいの力をこめれば、頑なに閉じられていた銀時の口が薄っすら開く。高杉の眼が笑いに細まる。フェンスの網目から自分達に刺す夕焼けという刃物が、視界を血に染めあげる。それは自分達の体の内を流れる血の色だった。そのとき銀時の足から脱げたゴム草履が高杉の頬をかすって落ちていった。「どうだ、十日は洗ってねェ足の臭いは」銀時の声が、まだ声変わりもしていない頃から知る音で鼓膜に響いた。
馬鹿馬鹿しくなったのかヤケクソか。銀時の雑な手が、そのへんに転がっている茶碗をぞんざいに拾いあげる。虫が寄ってくるからと乗せていた鍋蓋がわりの皿を退け、洗いもしない茶碗に鍋の中身をそそぎこむ。何筋かの切れない麺が垂れかけたのを、これまた洗いもしない指ですくいあげ「一杯300円」と言って寄越された。覗き込み、ドロドロしたスープに泳ぐ、ふやけた麺に眉間を顰めてから啜りはじめる高杉は、同じく汚い濁音を立てて啜りあげる銀時の上目を湯気でぼかす。高杉の尻が敷いているのは銀時の寝床だった。欠けた茶碗も箸ももちろんそうで、その他、散乱する私物やゴミすべて、銀時の痕跡だった。三口で食い終えた銀時がコンクリにボンベを押し付けてガス抜きしている。しゅーと抜けていく音だけが耳にある。立てた懐中電灯の周りを蛾が飛び交っている。服・下着をかけたハンガーが所狭しとフェンスに吊るされている。間合いを取って横たわった銀時の顔を、薄っすら開けた眼に揺らす。顔にかかる息で寝ていないのがわかる。闇に、水が揺蕩う。薄っすらと陰影が重なり合う寝首の、脈を感じる。手を伸ばす。汗ばむそこへ、親指を這わせる。カリッと音立てて寝首を掻く。それによる微かな圧迫で、まぶたをあげた銀時の、熱を光で溜めた眼がすぐそこに揺蕩っている。「蚊」と高杉は言って指の腹で潰れた残骸を見せた。若干の血。銀時の首筋に、吸われた痕が赤い。
一晩中、風に軋むフェンスが鳴き声に聞こえていた。随分、かなしげに鳴く、と。明ける直前の、徐々に影を濃くしていく金網に高杉は指を引っかけ、揺さぶってみた。手の力で揺さぶったのでは、同じようには鳴かない。寝返りを打った銀時の腕が背中に当たる感触。燃える空。高杉は動いた。銀時がここから容易には消息を絶てぬ拘束を施してから、これまで己が寝泊まりに使っていた空き家に戻り、片っ端から荷を燃やした。マッチで擦った火が手から離れ、それらに燃え移る刹那、今朝の空と違わぬ陽の色が噴きあがったのに眼を燃やす。燃える陽と火。
今日が始まる。
昼過ぎに戻った高杉がフェンスに手をかけたその瞬間から、銀時の罵倒は飛んできた。それを耳にしながら跨いだフェンスの上から見下ろす銀時の、腕に浮いた血管の青筋。高杉は眼の奥に残る火が、その銀時の青い筋へ燃え移る気がした。金網に自転車用のワイヤーロックで拘束された銀時の手首は、擦れに擦れて火が出そうな程だった。それをさらに擦り切らせたいのか金網ごとガシャガシャ揺さぶりながら、人が寝てる間にテメェ・・どっから出したコレ、チャリンコ漕ぐキャラじゃねーだろ!!と喚くのに「拾った」と答える高杉は、白い頭を跨いで着地してすぐ、拘束されて赤い銀時の手の首をぐっと絞める。ここにある血の流れをいっそ止めてやりたい。そんな眼をする高杉に力をこめられた銀時の手首がピクっと打った。
「ゴミやクズでも、目の前 流れてったら 手が出る」
風に奪われる髪。軋むフェンスを、随分、かなしげに鳴く、と。そう感じたのはどちらか。一瞬、黙りこんだ銀時の、少し遅れて、誰がゴミだ、とかかるツバの飛沫は、なまあったかい。ワイヤーロックの輪っかについた四桁のダイヤルを、焦らす指使いで合わせていく高杉は、銀時の手首に浮く血管の青い筋に視界すべて浸っていく気を起こしながら昨夜のドブ底で流されかけていた、無様にもがくバカの顔を思い浮かべて笑いを漏らす。
「怖い怖い 何笑ってんだ」
「……設定した、最後の数字が思いだせねェ。なんだったっけな」
「なんだったっけな?じゃねえッ!!!ざっけんなよオイ・・・おいちょっと 小便 ずっと我慢してんだけど」
夏が濃さを増していく。フェンスに所狭しと吊るされた服・下着に高杉のものが混じりだす。元々着ていた一着以外、銀時のを勝手に着ていた。裾の余る、だぶつく格好の高杉を、今朝も坂田は鼻で笑い、すれ違った牛乳屋の自転車を指して「買ってやろうか?手遅れだろうが」と振り返る。汚れた下着でその顔を窒息させてやりながら、まだ薄暗い中を遠ざかっていく自転車を見送る高杉の眼、息し辛そうな眼、公園の水道で洗った衣服や下着をぎゅうっと絞っていく銀時が、顎で示した住宅と住宅の隙間。朝陽が顔を出す。絞った先に滴っていく水の雫から、徐々に光を帯びはじめ、あっというまに灼熱の炎天下・・・寝そべりながらキセルを引き寄せる。残り少ない刻みを摘まみ取り、指で丸めながら視線は空へ。むくむく広がり続ける入道雲を、銀時の仰ぐ団扇に遮られ、眼球をずらす。打ち上げ花火の絵。その団扇が起こす微風にふわふわそよぐ、暑苦しい天パを、キセルの雁首で殴った。「いだっ・・・くも痒くもねえわテメえのカリ首ごとき」真夏の下ネタで余計に分泌された汗が垂れまくる。雁首の火皿にぎゅっと葉を詰めこむ。唯一、前の住処から高杉が連れてきたのが、このキセルだった。「これ以外、燃やした」と高杉が告げたときの銀時の顔は夕方の影に落ちて、吐く息を濃くしただけだった、その晩、焼き鳥屋の前を過ぎかけて止まった高杉が、格子越しにタレをつけられていく串を意味もなく見続け、その煙をもろに受けて滲んだ眼を路地に戻せば少し先、曲がる角の手前で銀時が立っていた、その眼で高杉だけを殺して立っていた、元の距離に縮まると、また歩きだす銀時の「ヤキトリくせぇ・・・」で初めて足音が並ぶ、そんな風にして野良猫みたく居着きはじめた高杉を見る銀時の目は日に日に夏を濃くしていく。団扇に印刷されていた花火の絵が、本物になって夜空に打ちあがる様を、ゴミを漁る手をとめて見あげる。明るくなってちょうどいい、と呟いた銀時のTシャツでわかる花火の明暗、闇に鈍く白い髪が何色にも染まって高杉は眩んだ。どこに立っているのかもわからなかった。音が遠い。眼には銀時だけがいる。これは現実と確かめる術なんて死ぬまでないと皮膚を刺す氷水に両足を突っ込んでいる、上は砂漠・下は南極、氷の浮いたバケツに四本の足がぎゅうぎゅう詰めなので溶けるのは早かった。脛から、ゆらゆら泳ぐ毛が見える。そのぬるくなった水面を突如打ちつけはじめた夕立はシャワーがわりになった。ついでとばかりに髪も洗い、石鹸に沁みる眼で、雷の残光を見る。その稲妻。光の近くほど見えてくる雨粒の跳ね、銀時の露出した肌を、しぶく雨が高杉の眼に入った。翌日の赤らんだ片目に映した虹は、七色あるか数える間もなく短い命で消えていく。遠い昔にも見た気がして隣を見れば銀時の濁った眼とぶつかった、その濁りは、高杉の記憶の濁りそのものだった、どんな記憶も終わりにはひとつの魂となって死ぬ。
早朝から掃除機をかけている家がある。そこの家の汚さがどんなものであれ、吸い取るべきゴミ筆頭はここにある。ゴミ山の中から漏れてくるイビキに横目を流せば、ゴミの間からはみ出した脛が半分陽の中にあって、そこに走る古傷が透けていた。指ではかる、そこを縫う針の数。新聞紙の一枚が、ふわっと鼻先にせまり顔にはりついてくるのを剥がして川のほうへ飛ばす。光を吸った真っ黒なゴミ袋に、舞う埃でケホと咳き込んだ。
連日、特に目的もないのに炎天下を歩きまわる。赤信号にもとまらない銀時の腕をひくとパタパタッとシャツを汚す血、銀時の鼻筋からたらたら垂れてくるそれを見あげ、自分からも血が出ている錯覚がして
「?」
高杉は昔殺す気で殴り合った直後のような顔で、銀時とそこに突っ立った。
「赤鉛筆だけ、なかったんだろな」
周囲になんもないバス停のベンチはバスが来るのかも怪しい。最低限の栄養を摂り入れる高杉の横で、銀時が箸を持つ手でパラパラめくっていくノートは元々このベンチに置いてあった。中身は塗り絵だった。全てのページにまんべんなく塗られた色に、赤だけない。と銀時が呟く。東京タワーが黄色い・・・。そいつで塗り直してやったらどうだ、と高杉に指された銀時の鼻血は、塗るにはどろっとしすぎている。スーパーで涼むついでに買った割引シール付の総菜を黙々と食う。食い物を咀嚼するのだけが頭蓋にこもった。なにかの拍子に地に落とした箸へ、銀時の眼がいく。動いていたノートの線と色が、銀時の爪に阻まれ、ふっと、とまる。拾うまでの妙な間。ベンチの下へ伸ばされた日焼けの腕に、半袖の線の痕が濃い。散らばった箸を拾いあげるのに屈む頭、「高杉」、とベンチの下に向かってツバ吐くように名を呼ぶ。高杉は返事しなかった。箸を拾わずに戻ってきた頭が、
「お前も、そろそろ限界キてんじゃねえの」
とり天を指でつかんで齧り取る。歯が見えた。あれに噛まれる夢を昨日見た。現実だったかもしれない。それにも返事せずにいると立ちあがった。昼間っからやってるとこ・・・という呟きで、この後、向かう先は検討がつく。わかっていて、後をついていく。途中、パチンコ屋の駐車場でやっていたフリマのゴザの上、一斉に回っている風鈴からの音が聞こえなかった。鳴いてるはずの蝉の声もそういえば入ってこない。銀時の声を最後に音がない。視覚だけが濃い。光も影もなにもかも。通行人、建物、道、電柱、空、全部ぎらつく圧倒的・夏に音が追いつかない。流される。風の流れでこちらをチラと振り返る銀時の、眼に浮く刹那が高杉へと流れこむ。その銀時がふらっと横手のビルに消える。路に出ているピンサロの看板を横目に高杉も入る。奥の突き当りでエレベーター待ちをしている銀時へ向かって、歩く。蒸し風呂の外から真っ昼間の風俗の空気へ。鎖骨を伝う汗の粒。薄暗い廊下。銀時。鈍い音立てて開くエレベーターへ吸い込まれて即「閉」に行く手元が見えた。直後、ガンッと頭蓋に響く音で中から視線を寄越す銀時は、扉に挟まれた高杉の膝を無表情に見おろす。高杉も招き入れて今度こそ閉じたエレベーター内、外が蒸し風呂ならここは蒸し地獄、閉じた瞬間から全身に噴き出す汗に内臓ごと窒息しかねない。前を向いて互いに見えない顔の分、腹の探りあいとでもいえる息で密室が満ちる。
「何階」
「4」
4のボタンを爪の先でカリっと擦っただけで動きださないエレベーター内、銀時のTシャツの裾についた血の色が目に入る、鼻血をおさえて汚れた指をそこで擦ったか、そこはペンキ汚れに近い、かすれ方で乾いていた。
「・・・おい。俺と同じ女 選ぶなよ」
Tシャツにそそいでいた高杉の眼が上へズレる。4に擦りつけている銀時の指に力がこめられた。上昇するエレベーター、
受付でもろくに口をきかず別々の写真を指したのはいいが隣同士に通されて仕切りは薄いカーテンのみ、それもきっちり閉められていないせいで、緩い隙間から隣が見える。表情が十分に視認できる近さだった。高杉は銀時の顔から眼を離さなかった。伸ばされた女の手は寸前で掴み、触らせなかった。え?という顔で首を傾げられたが、なんとなくの理解に及んだか、顔を動かすふりを続けてもらう。高杉の射殺す眼を、高杉だけを殺す銀時のあの眼が、迎え撃った。高杉に据えられたまま剥がれない。殴り合う時と同じ眼をしている、逝く寸前が延々続いているかのごとき息の上擦り、獣の息遣いが流れこんでくる、どっと打つ心臓、思考より先に体がそこへ走り出す。蹴りだされた足が空振って、カーテンは波打った。それは性欲に近いようで性欲とは一番遠いところにある。体から吐き出せるものは限られている。ひたすら互いを映して歪む眼が、震えた。
帰りのエレベーターは銀時の膝が扉に挟まったことで開いた。中の高杉の眼と、交じり合う。ガンッと頭蓋を打ち付けて壁へ凭れた銀時の、ジロジロ見てきやがって・・・てめえのツラで萎えんだろーが・・・が素通りする耳に高杉は別の、もっと奥底で流れる血の音を聞く気がした。4から3、3から2へとパネルの数字がゆっくり下っていく。行きよりさらに息吸えない密室、に、前触れなく振り向いた高杉を追って動く銀時の眼球の揺れ がコンマ数秒出遅れた。パネルの数字を1にした瞬間、異常な振動音と共に開くエレベーター、中の二人を数秒外に漏らして、また閉じる。
「萎える・・・?それでか」
「うるっせえ・・・・・・・・」
掴んでいる顔面を離して、ずるっと壁をずっていく銀時の、みぞおちへ足を振り下ろした。瞬間の息の吸えなさと直後の肺に流れこむ空気にゲホ、といわせてから青筋立つ手で高杉の足首を掴む銀時の、高ぶった眼光。己の脈を銀時に流し込むつもりで、高杉はみぞおちを踏む足に力を張る。女で吐き出せなかったのは、知っている。それがこれしきの暴力で兆すのだから救えない。俺達は生まれたときから救えない。可哀想な生き物だ。
ピンサロを出て炎天下に戻ってからは、べらぼうに早足になった。走った方がマシと思える息の切らし方で大股に歩いていく銀時は、どこまでいっても振り向けばいる高杉に、それ以外の景色全部をぼかされて、いつ入ったかもわからない公園を突っ切っていく。広大な敷地をほっつき歩き、視界に入ったボート乗り場へまっすぐ向かっていった。係の者に紙幣を押しつけ「ひとり」と伝えてから案内される間もなく乗り込んだボートが重みで揺れる。均衡をとって漕ぎだした。漕ぎながら振り向く視界に汗が散る。一瞬見えた高杉が、オールを漕ぐ飛沫で遠ざかる。瞬きの拍子、鎖骨に溜まった雫に眼を落とす、銀時の吸って吐く呼吸を、掻っ攫って吹く風。その風の流れが高杉まで来る。巻き上がった髪がまたひたいに落ちるその一瞬、陽光を弾く銀色を見た。日が沈みだすまで二艘のボートは池にあり続けた。とうにオールは離していた。つかず離れずの距離にゆらゆら浮かび続けた。ボート上に寝そべった銀時のまなうらに、寄せては引く陽射しの波。その繰り返しを途切れさす、別の影が入ってきたことで銀時は目をあける。背中に膨らむ波を感じた。こちらへ乗り移ってくる高杉の足がボートを傾かせ、中が水に浸りだす。見あげた高杉の顔は、あの河川敷の闇に見あげた高杉と重なって銀時に熱を落とした。太く短いタバコふかして細まる目に、流れるひと筋。銀時は、そこから降る火種に今また焼かれる気がした。喉が焼けつく。それに反して体は水の冷たさに浸っていく。耳にまで流れこむ。外の音が遠ざかる。息を吸えない。水中から振り上げた拳を、掴まれた。そこには、高杉の温度が。昔から知る高杉のそれが、昔と違わず、そそがれる。何かを言おうと開いた口に入ってくる水を、吐き出したかったのに飲むはめになったのは高杉の口が出口を塞いでいたからだった。ごくんと動く喉仏の音を、水のこもる耳で聞く。隙間なく覆われて感じる、くちびるの皮のささくれ。
「・・・おい、なにしてる」
「人工呼吸」
「いや息してっから・・、」
一度離れて再び。吹きこまれる息。ふたつの息が交じり合い、どちらのものかわからなくなる。滴り落ちる水に、視界は閉じた。次の息を継ぐまでの、どうしようもなさ。逆に死にそうだ、と銀時は思った。すっかり水浸しの脱いだシャツをぎゅうと絞り、銀時が振り返る。振り向いた道にいる高杉に、帰るぞ、と言いかけて一瞬、今がいつのどれかわからなかった。戻ってきたフェンスの向こう、握りこむ金網。きれいとはいえない川の水で顔を洗い、水滴を弾いた瞬きに伝う流れを見て、これを辿っていったら海か・・と当たり前を呟いた。高杉の眼が銀時を見た。翌朝、のんきな音楽を流すゴミ収集車を見送って、自分達の痕跡をなくす朝日刺す、なんにもない場所からなんとなく歩きはじめた。この川の辿れるところまで。
一本だけ食ってこうぜと言う銀時は振り返った時点でもういない。止まると途端に噴きこぼれる汗が道に降り、通り雨のよう。光の強さの分、濃く落ちた電線の影を踏み、引き返す。埃舞う看板、陽射しをもろに浴びた、積み重ねられた丸椅子のひとつを取って暖簾をくぐる。油で薄汚れた狭い店内、同じ丸椅子に尻を沈めた銀時は、すでに瓶ビールを開けていた。その横に丸椅子を置いて「ハイボール」と言い、串を焼いている店主の手元へ目をやった。一本だけ、と言った通り、たった一本に熱が加えられていくのを見て、ろくでもねェ客だなと呟いた。お前もな、という返しで持ちあがるビール瓶の口から高杉のハイボールへ数滴、垂らされる。手元の灰皿で銀時の膝をぶった。くうう、と膝小僧をおさえて悶える銀時の目が、その灰皿を映して「なんかこの形、釣銭 乗っける皿みてェだな、あーなんつったけカーボン・・・?」「カルトン」と答える高杉は今朝たばこ屋で、きざみを出してもらうまでの間にたまたま目についたポスターのせいで、なんとなく、もう、ひと箱、買っていた。『あなたの夢を生かした』。ポスターに銘打たれたキャッチフレーズを口に出しかけ、引っ込める。その高杉の口に咥えられた太く短いそれを、銀時の横目が這う。天井でゆるい回転の扇風機から来る、よわい風に灰が飛ぶ。出された一本に銀時が齧りつき、半分を引きちぎってから高杉のほうへ寄越す。残る鳥を歯で抜き、カウンターの串入れに投げ入れた。ごっそさんと立ちあがった銀時が高杉の財布から出した千円札を置いた。釣銭を置いて出てきた皿が、灰皿と同じだ。「カートン・・・」面倒だから、訂正しない。うわ太陽、真上だよ・・・手をかざして仰ぐ銀時のあとから店を出て、そのシャツに流れていく陽のかけらを、太陽の足跡みてェだなと思う。思ったら急に、半分しかない視界まで陽に潰される気がして高杉は眼帯の紐を引っ張った。影と光が半々、そのどちらにもいる銀時を、血に巡らして高杉は、ここまで流れてきた気がした。
浅瀬に、むくんだ足を浸けて休んだ。経つ時間の流れが、昔と似ていた。とまっているようで流れている。いつまでもあるようで気づけば、ない。いつのまにか落ちる陽が、いつもそれを突きつける。真上にあった陽が沈むまでは一瞬だった。陽は落ちる。夕方の色に浸かった足を、今ここにある体を言葉を季節を、すべて流れ去った後でも覚えているのは自分達しかいない。
「全身、浸かりたくなった」
そんなことを呟いて川から上がった足の先が、今度は熱い湯へ浸る。
銭湯に来ていた。途切れた川を探してうろついているうち入り込んだ裏路地で、住宅地にそびえ立つ煙突を見つけた。何日ぶりだ?と指した銀時の指が今はふやけきって湯気の中にある。両手を皿にして、すくった湯が、指の隙間を熱く流れていく。
「お前、眼帯したまま入ってんじゃねーよ」
ざぶりと湯から出た手に耳のふちを掴まれ、銀時の声にこもる。引っかけられた紐を外してくる指先の熱が、耳の突起をなぞった。近くなった胸板に、走る傷を見る。まぶた越しに触られた眼球を、ぐりと動かされ湯をかけた。ぶふっと顔だけで溺れている銀時をほっぽって、先に上がる。
脱衣所で、袖に腕を通しながらの銀時から鳴る鼻歌に高杉は動きをとめた。漏れていることすら無意識らしいその音色を、高杉は知っている。この世で知るやつが限られているその歌は、いつも歌い終わるまで湯から上がらせてもらえなかった。ろくでもない歌詞に、でたらめな音階。あの頃、台所を覗く瞬間から始まる朝や、川べりの散歩道や、湯船のふちに頭を預けて聞かされていたそれが、鼻歌でもこんなに下手糞にできるのかと思える銀時のそれとダブって、今こんなにもアホくさい。世界共通だと信じこんでいた。騙されたな、と笑っていた桂も今どこで何をしてるのか。のれんを掻き分けた先の暗がりに揃って出て、客の自転車のベルを勝手に鳴らす銀時の歌はそこで途切れた。歌をとめた横顔がふっと死に、無になったあとには、ベルの余韻だけが残った。途中で途切れた川はその後どこをうろついても見当たらず、鳴りだした腹の虫を抑えるため閉店間際の肉屋でコロッケを買った。コロッケを包む紙に「メス豚」と印刷されているのが見え、一瞬固まる。なんちゅう店名だ・・・と思う高杉の横で、ぼとりと地に落ちるコロッケ。同じく印刷に目を落とした銀時が、いやない・・・これはない、とぶつくさ言っている。その肩を叩いて、地面のコロッケを指すと瞬時に絶望に落ちた。
「半分くれ」
「自業自得だろ」
「お前あんま好きじゃねーだろ肉肉しいの。高杉くんの好みはヘルシーボディだろ」
「なんの話してんだ、てめェは・・・にしても、油っこいなコイツ」
「だろ?だから俺が手伝ってやるって、ほらまずは一口・・・」
「だが断る」
「ナニッ!!」
足の感覚がないほど歩いた。
一度は湯でほぐした筋肉もまた徐々に張りはじめ、水の流れる音を聞いた気がして歩いていった先は大体が住宅地で行きどまる。それ以上進めなければ引っ返す。その繰り返しに夜は更けていった。夜道より濃い、銀時の影を目で追いながら歩いた。次に高杉が顔をあげたのは、団地の群れの中だった。暗がりに生えているそれらについた数字のひとつひとつをぼんやり数える高杉の眼に、銀時があらわれたり消えたりする。世界に取り残されたかのような、ひっそりとした壁の群れ、破損した遊具の横を過ぎて、奥まで進めば、ここもまた行き止まりだった。引き返そうとした高杉が、ふと銀時の気配から出た感覚を覚えて振り向けば、行き止まりのそこに突っ立ったままでいる。
「おい銀時」
それでも振り向かないままの銀時から、ぽつり聞こえた呟きは、そのとき吹いた風に混じって高杉まで吹き抜けた。
「潮の匂い、しねえか」
言われた瞬間、高杉にも届く。眼に、打ち寄せる波の、錯覚。
低くて見えねえな・・・と周囲を見回す銀時が闇に浮かぶ何かに目をとめ、まっすぐ歩いて行った先には桜の木があった。はぐれて置いていかれた子供みたいに、ぽつんと一本だけ立つその幹を手のひらで撫ぜた銀時は持っていた缶ビールを高杉の胸に押しつけ、つま先立ちで届く枝を掴む。手、借りんぞ、と、さも旧友だか悪友だかに言う響きで桜に一声かけて、のぼりはじめた。枝が、引っ張りあげているとしか思えないほど大の男の重い体はすんなり上まで運ばれ、それを見あげて反る首がしんどい。暗いからかもしれない、夜と混じる白い天パが風に流れたそこから、舞い散る花びらがふっと高杉の目をかすめた。落ちてきたそれは手のひらで受けとめた瞬間、もうない。「うおっ、セミ、」と降ってきた銀時の声でアア今は夏だったと我に返るまで、高杉の眼には銀色の春が見えていた。
「あった」
見つけたらしい目的に、木から降りてきた銀時と歩きだす。随分と遠回りをさせられたが近づくにつれ耳に打ち寄せる波は、こちらに何かを残しては引いていく。なにが流されてこようが在り続ける海のはしっこが見えてきて、ここまで流れに流れてきた銀時と高杉の眼にそれはしずかに息を伝えた。眼前まで来て、ゴム草履から砂を落としている銀時は、おおきく来た波に打ち流された。引いていく波の膨らみから顔を出した銀時の、高杉を見る眼が、ふいにとても痛い。笑ってんじゃねーよ、と細めた目に映された高杉の顔は次来た波に流されて、銀時の中にしか残らなかった。よく見れば流されてくるのはゴミだらけの、きったない海で、海岸の端っこで錆びと化している軽トラなんか、酷い有り様だった。砂に沈むタイヤは片側の後輪がぺしゃんこで、海水に浸る荷台にはなにやら草が生えている。その荷台へ、あー疲れたと気だるく乗りあがる銀時は、銭湯の意味をとうに無くした体で濡れるのもお構いなしに横になる。半分空けられたスペースに不自然に置かれた銀時の片手を高杉は目の下に見て、骨と血と肉しかないのにどうしてこうも代わりがないのか不思議だった。体には代わりがない。擦れ合う皮膚が銀時というだけで途方もない。握った手に、おもいきり爪痕を残す。乗りあげる膝の皮が擦れて肉を出す。砂のつく手でなぞった銀時の腕からパラパラ小石が降ってくる視界に、ぬらり水平線が滲んだ。
血も精液もどっちがどっちのかわからない。海でさえ体液に見える。ゴミ山に落ちたシャツをあとで着るのか・・・と思うと、うんざりするが、膝でおさえこまれた荷台に顔を擦り付けている今、それどころではない。眼に垂れてくる精液に「泣いてるみてぇだな」とかかる息、この体勢をひっくりかえす映像を頭に巡らす高杉は、ぞんざいに入ってきた指にクソと唾を吐く。ここまで何発の拳を受けたか・・・銀時は口の端から伝う血をぬぐう。指を入れるだけで死ぬ思いをした銀時は乱暴に奥まで入り込み、乾いた粘膜をぐるり回した。漏れた微かな呻きを拾う耳に血が集まる。うなじの窪みに溜まった汗の雫を啜られながら小刻みに中を殴られ、高杉の抵抗がよわまっているかと思いきや、後ろ手に急所を握りこまれ息が漏れた。そこに浮く静脈を辿られた銀時の口の隙間から見え隠れする歯。落ち着くために一度空を仰いだ。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・と星の数をかぞえて、なあ高杉・・・とこぼす。なにも、言う必要がなかった。それ以上出てくる声もなく夜空の星から高杉に戻る眼に、刹那、風が流れ去る。指を抜く。
竿に吸いつく高杉のふちを見た。頭蓋にこもるのは、波の音なのか挿送音なのか。中にあるのを意識させる動きで延々揺すり続ける。吐き出しても吐き出しても終わらない。荷台の振動が、何重にもブレ続ける。前に回した手で高杉の根元を抑えこみ、銀時は出し入れし続けた。どうしようもなく交わる音、不規則なリズムで奥を突く亀頭を殴りかえして動く高杉の腰に指食い込ませ、「っつ・・・出る・・」呻きで流しこむ何度目かの精液、短い痙攣
殺りあうのもヤりあうのもそう変わらない、もう出るものがなくなっても動き続けていたふたりは最後の最後ただの一秒のズレなく一緒に、いった。確かにいく感覚の中、出てこない精液にアレ・・・と首傾げ、そのままぶったおれる。埃舞う。咳き込む空に、見えた星へ「あ、よっつめ・・・」と腕をあげるつもりが、高杉の胸の上から動けなかった。しん、と静まりかえる。風でゴミ山がざわつく。ここに置き去られたそれらゴミに混じってガタガタいう軽トラの荷台から、はみだす足は、そこだけ闇がバラついて見えた。ふたりぶんの、くるぶしの内側だけが、休みなく脈打ち続けている。
「げ、そっちが俺のだった」
ゴミから探し出したシャツを着てから言い出す銀時の髪に、生ごみがひっかかっている。それを取ってやろうとしたらひっついてきて、いででででで何すんだ!!とゴミで掴まえた銀時に高杉は顔を寄せた。口の中に銀時の精液が残ったままだった。「舌、出せ」ばかみたいに開きっぱなしのそこへ差しこんで、そそがれたものを返してやった。憎い身長差で、なにやら抱きしめる体勢になった。すぐ間近、睫毛の先にいる銀時の眼が、喉仏の下る瞬間、死んでまた生まれる。夜明けが近い。徐々に闇は剥がれてきた。海水でばっしゃばっしゃと顔を洗っている銀時の後ろで、高杉はふと血液の流れる音が向こうの方からすると思い、その流れに向かって歩きだす。振り向く銀時の顔から海水が伝い落ち、濡れた視界に高杉を見た。同じ方角へ、歩きだす。
海岸を出てすぐの道で、なぜか一斗缶が燃えていた。
意味がわからない。
あまりの唐突さで、あほみたいに、ぼうと突っ立ってそれを見る。
「・・・こんな夢を、みていた気がする」
ふいに高杉が呟いた。自分以外の夢がわかるわけもないのにそれが銀時は妙に腑に落ちて、覚めるなら今だと思った。もしどこかで夢をみている自分が、いるなら。無駄に呼びかけてみて、全く覚める気配なく続く今に、自分達だけの息が続く。火が爆ぜた。
「それで?そいつはどんな夢だった」
「もう叶った」
背後、東の空。この火と違わぬ陽の色で引かれた、水平線が赤い。背後からの夏の陽と、眼中で飛び交う火の粉に挟まれ、体はどろどろに溶けて見える。世界に取り残されたかのような住宅地はひっそりと静まりかえり、道には銀時と高杉しかいなかった。
「・・・・・生きたかった。お前と」
やがて、ふたつの影は跡形もなく流されて、そこには焦げて溶けた一斗缶だけが残された。
この夏の、ひと月にいた自分たちを、自分たち以外、誰も覚えてはいないだろう。
2018.04.15/流れ者