深夜に部屋が光る現象は、たぶん車のヘッドライトかなにか。
 目元を切り取ったそのひかりがきっかり十五秒後に消えても、ずれていた枕をもとの位置に戻しても、坂田の二度目のねむりはうまくいかない。いつだったか女が壁に貼っていった土星がぼうっとグリーン発光してるのに目を馴らされてますますねむれない。ケータイをたぐりよせ、あの野郎にワンコール。ツーコール。スリーコール目で聞きなれた声がしたから、「……来いよ」と主語もなんもなしにそれだけいうとソッコーで切られた。
 あーあーあー、そうだよ、ヤリてぇだけだよ。
 寝返りをうつたび左脇のしたを摩っている。扇風機を抱えて階段をのぼったのは三日前のはなし。へそのなかに汗が溜まっているかんじに、シャツを乳首までたくしあげる。ぽり、と掻いたら垢が爪のなかに這入りこんだような。そういえばしばらく風呂に行ってないような。尿意にあらがえず、酒の名残りをひきずって立ちあがったら、ボロ布団からはみでてた糸くずが割れた爪先にひっかかってよろける。
 便所のあかりが、やさしくない。そこに吊っている、めくる気のない格言カレンダーはずっと五月のまま。ひとりの夜にちょろちょろと鳴る水音がむなしくって、と、飲み屋でオッサンが吐いてた弱音なんか、が、よぎって、夜明け。





さみしいは死ねない


「台風きてるんだってよ」
 どうりで空いてるわけだと、となりの長谷川が何度目かの英世を投入したのを横目で見て、オッサンもう英世じゃなくて諭吉でいけよイライラすっからなんか、と、いちいち声をはりあげるのは面倒だから口にはださずに椅子を蹴ったところ、「いや英世で一発勝負してやるっていう男の意地的なもんがさァ、」 意思疎通がこうもすんなりいくのがもうダメな気がする。英世で一発って、もう英世、十発はくだらないからね、英世が十発ぶちこんで萎えた諭吉になってっからね、そんなところもまるでダメな気がする。あとちょっとで台風がこんなところまでわざわざやってくるっていうのに昼間からパチンコしてやがる、まばらな人影すべてからダメを移されてる気ィする。ハンドルを握ったままの手、そこにタバコの灰がふってきたのに坂田は目をすがめ、あ、帰ろうとおもった。急に。
「あー……ガキつくっときゃよかったかなァ」
 コールボタン手前でその指先がくずれる。ジャラジャラ音のなかで、坂田の耳には届いたそのつぶやき。横目をながしたそのタイミングで煙を吐かれ、しろい膜が左右にゆれた。そのすきまに見えるグラサンから目をそむけ、今度こそコールを押す。「なに言ってんだオッサン」 「いやァ、急になんかふっとさ」 やってきた店員に×サインを送りながら、じゃあ今からつくれば、とぞんざいに吐きだした喉がひりつく。予想通り、もうむりだろと返ってくる否定のそれを遮り、「そうだな、マダオの遺伝子引き継がなきゃなんねェガキが悲惨だしな」、受け取ったレシートをぐしゃり握りつぶして冗談混じりに。ついこないだ同じような会話をべつのやつとやって、そのとき言われた「まァ、お前の天パの遺伝子引き継がなきゃなんねェガキは悲惨だろうしな」をまんまパクっただけの。
「は、ひでえ」
 いつのまにか同じようにレシート握りしめてる長谷川とならんで景品カウンターへ行き、「銀さんて、なんだかんだいつも選ぶのそれだよな」と笑いまじりに言われたコトバを「得だから」のひとことで流した。そうして自動ドアを出たその坂田のあたまのてっぺんにポタリ、雨粒が落ちてくる。え、降ってきた?じんわりと染みるつむじを擦りながら見あげた空、朝までの青さはないかわりにほそい線がすっすとあちこちで光って見える。駆けだしながら、「……雨男?」 「どっちがだよ」、予想より早まった台風のおとずれを転がってきたゴミ箱にやつあたって蹴りとばした。
 なまぬるい雨粒にあてられて、ぬめる肌から放たれる体臭は坂田のものか長谷川のものか。どちらにせよあそこの角を曲がれば別れ道で、じゃあなと手をあげかければ、いつも右に折れるはずの長谷川がなんでか曲がらない。「なんでついてきてんだ」 「泊めてよ」 「は?」 「うち雨漏りすんだよ」 「知るか濡れて寝ろ!」、そんな男ふたりがカーブミラーに映しだされ、そのあとから飛んできた新聞紙ごと見慣れた道を過ぎていく。うしろにはりつく気配を結局ひきはがせないまま、坂田は帰り道を駆けていくしかない。台風とオッサンをひきつれて。


 せまい玄関、投げた雑巾で長谷川に足うらをぬぐわせているあいだに開けっぱなしにしていた窓を閉め、扇風機のスイッチをいれてから、あちこちべちょべちょに濡れた畳のうえにそのへんに干していたタオルを落としていく。シャツをたくしあげながら振りかえったらもうすでに脱ぎ散らかしてたオッサンが換気扇のしたでタバコ銜えてやがって、「やっぱ風呂つき住みたいよなァ、せめて」とかなんとか先端に火ィつけてる、のにイラっときて、シャツをべしっと叩きおとした。少なくとも台風が去るあしたまでシャワーひとつできない。ぬめった身体をタオルで適当にぬぐってから扇風機の前にあぐらを掻けば、髪の毛がぐちゃぐちゃのモップみたいに掻き混ぜられた。
「扇風機で死ぬってアレほんとだよ、こないだつけたまま寝てたら身体動かなくなってビビってさァ」
「へぇ、気をつけよ。そんな孤独死やだからな」
 そう返してくる坂田の剥きだしなハダカの背骨を、長谷川はじっとグラサン越しに辿っていた。その視線に気づいた坂田の目つきもすっと熱にうかされたように揺れたので、そこから目をそらせなくなった。吸うというよりも、飲みこむのにちかいカタチで肺までとりいれたタバコのけむりが長谷川の胸をひゅっとしぼる。


 ただよってきたカレーのにおいにそろそろ火とめねえとなァとおもいながらくちびるをそこから離して立ちあがると、銀さん、とよわよわしくかすれた、今しがた吐きだしたばかりの声にうしろからひきもどされ、汗のかいた鼻先で耳のふちをなすられる。排水溝に詰まっているジャガイモの皮を見おろしながら、ちょお待て、火、と口にだして、なんだこの新妻みたいなセリフはとちょっと嫌気がさした。
 すこし焦げたなこれ、と火をとめてからお待ちかねのオッサンの顎ヒゲを舌でなぞりあげてると、そのタイミングでぴんぽーんと間延びしたものが鳴って、は?と固まる。いま、外、大嵐。こんなときにくるような知り合いは最近じゃふたりしかいない。ひとりはうしろでおっ勃ててるオッサンで、あともうひとりは目つきがきつくてメチャクチャかわいげのない。小窓越しにみえる影にいやな予感がしているうちにもういちど押されて鳴る呼び鈴は、その音だけで機嫌がよくない、とわかる。出なよ、といっしゅんで熱のひいた声にうながされ、風のせいか、それとも蹴られてんのかわからんが、はげしく震えるドアのまえに立つ。
「はいはい開けるって」
 鍵をあけた途端に、アホみたいな雨風とともにその男は押し入ってきた。ひたいにはりついた黒髪をいっかいだけ振って、そこから散った雨粒が坂田のかおにもかかる。はあ、と溜息を吐きだしてから、
「来いっつったよなテメェ、きのう、電話で、深夜の、メーワクな、電話で」
 ぽた、とその睫毛からも、しずくがこぼれた。
「え、それで来たわけ」
「…………」
「いやこの台風だしまさか来ると思わねえだろ、お前もしかして……銀さん大好きか」
 脛をおもいっきり蹴られて悶絶。
「オッサン雑巾よこせ」
「あ、うん、土方くん久しぶり」
 玄関で膝折れたままの坂田を跨いで上がってきた土方に、長谷川はおとなしく雑巾をわたす。片足ずつぬぐったあと畳へと向かいかけた土方が、フロアリングとの境目に落ちてたなにかに滑ってこけたので、ええっ?と長谷川は目をまるめた。んだこれ?!と半ばキレながら足うらにひっついてるそれを剥がしとった土方は、手のなかのそれを見てぐしゃり握りつぶす。またパチンコか。そうこぼしながらさっそくビニルをやぶるその手つき、抜きとった一本をくわえる薄いくちびる。マヨボロは土方の吸う銘柄だった。景品カウンターでそれを選ぶときの坂田の横顔を、長谷川はいつも見ていた。そこからふっと目をそむけ、炊飯器からのこりのライスを三分割してよそおう。煮詰まりすぎのカレーをおたまですくってそこへ落としかけたら。顔面に雑巾なげられた坂田が、「セーエキついてんぞ」とか言われてて動揺走る。カレーはライスじゃなく手にぶっかけるハメになった。かるいヤケド。泣きたい。
「これ何日前の」
「あん?」
「カレー」
「みっかまえ」
「ジャガイモが固ェ」
「あとから足したからな」
「カレーにキャベツっていれるか?」
「あまってたんだよ。期限切れそうだったし」
「風呂にいれれば。キャベツ風呂」
「いやうち風呂ねえし。って、え、お前キャベツいれてんの?風呂に?」
「違ェ、こないだやってただろ7チャンで」
 ふたりの会話のあいだでカレーを掻き混ぜながら、さっきヤケドした手でたまにタバコを吸う長谷川。ちゃぶ台に所狭しと置かれたカレー皿と、ボウルに沈んでるそうめんと、いいちこと、筒型の携帯灰皿、土方が自分用に買ってきたからあげ弁当も、居酒屋みたく分けられた。カットレモンをそのうえに絞っている坂田のゆびさきに目がいく。そうめんのつゆはあとちょっとしかのこってないので水でうすめまくって三人で割った。カレーは一晩寝かせてからがうまいなんてヒトリ身には縁ないよなとどっかの喫煙室でだれかがぼやいてたが、ひとりになってながい長谷川はたまに坂田のつくったあまりもんのカレーを食べた。つくりたてより、うまいかどうかはわからない。いつのまにかビヨンドじゃないほうのアウトレイジが映しだされているテレビを、いいちこをコップに注ぎ足しながら見やる。
 ……落ちたグラサン蹴り飛ばすシーンをあほみたいに巻きもどすのやめてほしい。
 ちっとも辛くないカレーで汗をあふれさせている坂田は首にかけたタオルでときどきひたいをぬぐう。「この野郎って銀さんもよく言うよな」 「言わねえよ」、笑って灰をおとす。あと二本で長谷川のタバコは切れる。この嵐のなか買いにでるのは嫌なので持てなくなるほど短くなるまで、ちょっとずつ肺に取りいれ、やり過ごしていると、
 ――なんか急に、あらがえない種類の、ねむけが、やってきた。



 たぶんあれは去年の夏。
 浴衣ばかりと擦れ違うとおもったら夏祭りの貼り紙を電柱に見つけて、ほおんと煙を吐いた。その長谷川のうしろを通っていく、浴衣でチャリ漕ぐ少女たち。ひざのかさぶたが朝からずっと痒かった。畳は擦れるんだよなァ、と数日前のことを振りかえりながら、今またそこへ向かっている長谷川のこめかみから汗が垂れ落ちる。
 ゆめをみているみたいな夏の陽射しに意識をとかされて。
 ひとりでいるのがむずかしくなってきたら自然とそこへ足が向くようになってしまった。はじめのころにあった背徳感のようなものも、ひとりで抜くのとはまた違う種類の虚しさも、徐々にうすれていった。
 膝を掻きながら階段をのぼっていると結構な音量で古くさい洋楽が流れてきて、それが目的の部屋からだということに気づく。すこしだけドアがひらいていてそこから漏れているのはたぶんラジカセからの。高校野球のあとにテレビを買ってからは使ってるところを見たことがなかったため不思議におもって近づいていった長谷川の耳に、べつのものがぬるり這入りこんできた。ドアノブに触れかけた手をひっこめ、そこでしばらく棒立ちでいるあいだも、汗がぼとぼと降ってきて、でも、ぬぐう気にもならない。足元がぐにゃっとゆがんでみえた。
 女ではない。これはあきらかに男の、
 クソ暑い陽射しにやられながら。部屋のまえで、洋楽に混じってかすかに漏れてくる押し殺したような男の喘ぎ声を盗み聞きしてる。ドアから離れた長谷川は壁をずってしゃがみこみ、グラサンを外した。
 やべえな。
 かしゃん、とどこかにあたる音がしても、そのまま力なくおろした手首がじりじり焼かれても。
 まぶたを揉みこむようにおさえたまま暫くそうしていた。

 はは、やべえな……




……
「――さみしいだけなんだよ、このマダオは」

 は、とまぶたをもちあげれば口のはしからヨダレが垂れて、んん゛とそこに手をもっていく。ぐちゃぐちゃ考えているうちに寝落ちていたらしくグラサンもそうめんつゆのなかにぽちゃんしていた。うわっ、濡れてしまったそれを擦りながら、ぼやけた目をあげたら、土方のきつい眼差しとばっちりぶつかって固まる。
「ぎ、んさんは」
「カレー鍋洗ってる」
 ああとタバコにゆびをのばして火をつけてから最後のいっぽんだと気づいた。
 ――この男のツラをどんなふうに崩して、あんな声をださせるんだろうか。
「まだヨダレでてんぞ」
「え、うあ、ほんとだ。……あー、今もしかして俺のハナシしてた?」
 余計な思考を断ち切って聞いてみる。おなじ筒型に灰を落としながら「聞こえてたのか」と逆に問いかえしてくる土方になんとなく笑いがこみあげて、「ちょっとな」、長谷川も正直に返す。
「まァ、うん。ええと、土方くんが思ってるようなアレじゃないから、俺、奥さんいるしね」
 うまく笑えていることをねがった。
 そうだ、そういうアレじゃあない。このコトバは、あながち嘘じゃねえんだ。
「俺もいたよ」
「へぇ」
 グラサンのない目ではこころもとなく、ちゃぶ台の反射がいやにまぶしい。それにぼうっとしてたら、とんとんと灰を落としていた土方がなんでもないようにあっさりと言ってのけたので、危うく聞き流すところだった。はたと動きをとめてから、「ええ?!」と、今まで抑えていた声を素っ頓狂にあげてしまい、ぜったい台所まで届いたと思う。そっと振りかえり、鍋を洗う背中をちょっと窺いながら、そうだったのと小声にもどってつぶやく。
「だから俺もそんなんじゃねえよ、アンタと似たようなもんだ」
 コップをくちにもってって啜ったあと、ぬりィ、と云って立ちあがった土方が台所へ行く、ぺたぺたとした足取り。鼻先にただようマヨボロの残り香に、長谷川は項垂れるように笑った。
 バカだな、全然ちがうよ。
 グラサンのつるを擦りながらこころのうちに吐きだす。むなしさに耐え切れずに触れてしまった男の身体は自分よりもずっと。ずっとさみしかった。そこから伝ってくるホンモノの空洞はとうてい自分には埋められず、つながる瞬間にはいつもすきま風のようなものが身体のうちにひろがった。
 ……まったく。景品カウンターでマヨボロ選ぶときのツラ、見せてやりたいよ。
 バカだなァほんと。あいつはだれよりもさみしがりやだよ。マダオよりもな。




 水に遮られて聞き取りづらいぶん、そこにいるふたりの話し声に坂田の意識はひっぱられていた。鍋からあふれるカレー混じりの水を捨てていると、生きてきたなかで何度もこうした瞬間があったようにおもう。
 かかとから伸びた影がゆきどまりで折れて、坂田のかたちをうしろの壁に映しだしていた。そこに重なってくるべつの影の存在。「なんだよ」 「氷」 、冷蔵庫から製氷皿をひきだしている土方を横目でみた坂田の、洗剤まみれの指のあいだから泡がぼとっと落ちる。「……お前、このスイカ」、製氷皿だけでなくスイカまでそこから出してきた土方が、「こないだ俺が買ってきたやつじゃねえだろうな」とつづけて、ちげえよアレは食ったと返す。ねむたそうな目にあくびの波を揺らめかせている坂田の耳のそばを洗剤でできたシャボン玉が横切っていく。そのよこで土方がスイカをまっぷたつに切り落とした。あかい果肉はすでに熟しきっている。半額だったからそれ、とスポンジを絞っている坂田の口もとへスイカのひときれをもっていった。じゅくじゅくに熟れている、痛んでそうなところ。「んむ」、くちびるをこじあけるように突っ込んだスイカの先っちょが坂田の歯に齧りとられる。「……苦ェ」



「なあ銀さん、裏にある自販機てタバコだったよな」
「あ?そうだけどなに、外、大荒れだぞ」
「すぐそこなら大丈夫だろ、ちょっと行ってくる」
 サンダルに足をひっかけて出て行った長谷川のあとから風圧ではげしく閉じたドア、そのいっしゅんでまた濡れて今日何度目か、雑巾を畳に押し当てた。きたない雑巾に足をのせて上下に動かしながら、ンン゛、喉をととのえる。さっきからひっかかってばかりだ。喫煙者ふたりのせいで、部屋がけむたいしヤニくさい。そこに押しのけてある乾いた洗濯物の山にもにおいがこびりついたに決まってる。足のゆび毛がなびくのを見ていた目を、ふいに動かした。
 ……ここにいると台風なんてわかんねえな。
 冷蔵庫からとりだしたビール片手に窓まで近づいていって、火照ったひたいを押しつけたら風で揺さぶられているのがわかる。窓をこする部屋のあかりは、やわらかであたたかい。ちゃぶ台にのこる、スイカの残骸や、そうめんの切れ端の浮いたボウル、絞りきったレモン、散らばった箸、カレーの残り香。


 便所をでたら、だれもいない。どことなく湿ってる畳を擦るように歩いていけば、ベランダへつづく窓がわずかにひらいているのをとらえた。その向こう、むちゃくちゃに掻き混ぜられているマルチーズみたいな、しろい髪が、土方の両目に映される。こちら側にある風はゆるく首ふる扇風機で、それが土方の黒髪を分け、汗の掻いたうなじをちらつかす。ふいに数日前に交わした坂田との会話がよみがえった。冗談交じりに言うしかなかった土方の発言に対して返ってきたのは、「は、ひでえ」と笑う、よこがおだった。それを思いだしている。天パばかにすんなよというような、そんなコトバを期待していた土方は、ここでそんなふうに笑われるとは思っていなかった。
「なにしてんだ」
 僅かなすきまに差しこんだ手で窓をスライドさせたら、なまぬるい風に身体をもってかれそうになった。ひっくりかえってたスリッパをもどして足をとおす。坂田は裸足だった。ベランダに流れているほそい雨の川をまたいで、となりに立つ。濡れた手すりには触れずに坂田の目線を辿って見おろした先、そこには弾丸みたいな雨に撃ち抜かれてる長谷川がいた。見えない風に押されているのか、すぐそこの自販機にもまだ辿り着けていない。掴まってた電柱から離れ、相撲してるかのように進むその動きに、何かがこみあげてきて、は、と土方のくちから笑いがもれだす。
「なにしてんだ、あのオッサン」
「バカなんだろ」
 そういう坂田も、それ見おろしながらこんなとこでビール飲んでんだから似たようなバカ。でも、それに付き合って今きもちいいと感じてしまっている土方もバカ。いい歳したオッサンがよりあつまって、なにしてんだか。
 どこかまともじゃない坂田の気配がいつもそこにただよっていて、こちらの身体をそのまますりぬけていってしまいそうな眼差しがいつも暴風のようなものをつれてきて、ゆるやかに土方は掻き回されて、その生活ごと掻き乱されて。すきだとか嫌いだとか、そういうのはもうよくて。ただ、もうすこしだけ、つづけたかった。
「よく、さみしくて死ぬっていう女いるけど、そんなんで死ねたら楽だよな」
 ……いっしゅん、耳底をながれていた雨音がやんだ気がした。
 土方の目のさきで、手すりからぽちょん、と雨粒がこぼれていく。
 あとから身体のなかに染みてくるその声に。その言葉にこめられたものに。もういちど長谷川を見たその眼差しに。「なんかもうびっちょびちょだな俺ら」と云い残して部屋にもどっていくその背中に。
 なにも、……なにも返せない。
 しずかに閉じられた窓越し。扇風機の風量をつよめている坂田をぼんやり追っていたら、下から呼ばれた。濡れている手すりに土方が身を乗りだすと、タバコをかかげたグラサンが、「間違ってマヨボロ買っちゃったよ」と近所迷惑このうえない声をはりあげていた。他人のふりをしながら坂田が手すりに置いていった缶の飲み口にくちびるをひっつけて飲みほす。喉に落ちてきたのは、ほんのひとくちぶんだった。「……苦ェ」





 窓から射しいる夏の陽射しが、男たちの身体を透かす正午すぎ。びっちりと汗を掻いている身体を何度もあっちこっちへ寝返ってるうち、さいしょに寝ていた場所に寝ているやつはひとりもいない。容赦ない蹴りが顔面にとんできて、さきに目が覚めた長谷川はまぶしすぎるひかりに射された目蓋を再びぎゅっと閉じて、邪魔なスネ毛の足を手でどけた。まなうらを流れる、あかいものが二度目のねむりの邪魔をする。のろのろと身体を起こした。なにかをひきとめていたいような夜が明け、嵐も過ぎ去ったあとで。クッションかなにかと間違えてんのか、土方のうでが坂田の腹にまわされている。ぎゅうっと絞りとるようにつよく。寝苦しそうに眉間のしわを深めている坂田をみて、なんかちょっと前にこういうCMあったな、とか考えてたら、そのくちびるがむにゃっと寝言をこぼした。
「俺はレモンじゃねえんだよ……」


 あれからずっと狸寝入りしている長谷川の耳に、ふたりの会話がダラダラ聞こえてくる。
「なにモタついてんだよ」
「明太子がひっついてくんだよ」
「お前ほんとこういうの開けんのヘタっぴ」
 ちゃぶ台のしたに落ちてるたまごやきを盗み見る、だいぶおそい朝飯だったり。
「なんか日曜ってかんじしねェな」
「テメェのあたまが常に日曜だからだろ」
「長谷川さん見てみろよ。これに比べりゃ俺のあたまは平日だよ」
「つうかいつまで寝てんだこのオッサン」
 グラサンあたまに投げつけられたり。
「ああもう邪魔だな!」
 いちいち踏みつけていかれたり。
 そうして何度もスネ毛が目の前をいったりきたりするのを。
 ベランダにでて洗濯物を干すさまを。ときどき届く、きもちのいい風を。
 ……ああ。いいなァ。
 と、長谷川はまぶたをおさえた。
 ――ひとりになったあとに感じる侘しさよりも、若くない身体にのこる性欲の虚しさよりも、ひとりにもどる前のだれかといる時間。……だれかと生きていたいなら、このさみしさを受けとめなきゃいけないと、どこかでわかっていた。


 そのあいだも、すぐそばでは、「剃り残し」 「どこ」 「そこ」 「ここ?」 「違ェ、こっち」と謎の会話がつづけられていたが、それがいっしゅん静かになって、ん?と長谷川は片目をあける。瞬間、じゅりっとイヤな音。
 いっでええええええええええええええ!!!!!
「えっ何どうしたの!?」
 おもわず飛び起きてしまった長谷川と、台所から振りかえったふたり。坂田の顎からあかいものがぶくりと滲み、ぽたっと床へ落ちていったのを見て、なんとなく何やってたかを察す。
「おまっ殺す気かァ!」
「テメェが動くからだろうが!」
 ぎゃあぎゃあうるさいなか、長谷川は脱力して、ふたたび寝っ転びながら斜めうえを見あげた。陽射しに透けた窓の向こう。見ているのが痛いほどの夏を、濁った瞳にじっと映して。ケンカしながら夏のひかりに溶けているこいつらの今が、長谷川のそばで、さみしく流れている。はあ、お前らカップルか、とつぶやいてから、どこの世界にヒゲ剃りあうカップルがいるよと気づいたが、そうなる未来もあるだろうから訂正はしないでおくよ。

2015.08.27/さみしいは死ねない