発車メロディが聞こえても走らない。疾走する周囲など何処吹く風で改札を抜け、階段をちんたら上る。その間に電車が行って、無人と思いきや、吹きさらしのホームに誰かいる。近づくにつれ顔がひきつった。気配を拾ったのか振り向かれ、視線が絡む。互いを目にした顔が、あまりに露骨。同じ風に、なぶられる。
「今行った」
「あァ……何、乗り損なった?」
「見送った」
 ちょうど乗りたい車両の位置という体で横に立つ。何かを言う代わりの息が白く散る。それも一分ともたずに「タバコ」という呟きと共に体が離れた。目だけで追う。光を拒む黒髪が、風に乱れて覗く生え際に釣られ、後をついていく。訝しげに振り向かれ、立ってんのだりいと喫煙所の側のベンチを顎で指す。ベンチも灰皿も錆びかけだった。大学の広告を背に尻を下ろす。視界端で煙草に火がつき、息する空気をじわじわ汚す。
「てっきり絶滅したのかと」
「あ?」
「ホームの灰皿」田舎だね〜という笑いが、風に攫われる。交わっては千切れる視線。煙に巻かれるヤニの壁に、あの日の裸がちらついた。服を脱がす息の近さや、すり合わせた肌を。酒と人肌と年末感それらを欲にして中に入るときの声を。
「お、土方」
 そこへ別の声が割って入った。近寄ってきた二人組の片方が顔見知りのようだった。揺すり出した煙草に火をつけながら顔を寄せ駄弁りだす。休講になった…社学の食堂で…単位落として…飲み会の…サークルの女…それらに相槌をうつ顔が煙にまみれ、見えづらい。ひび割れの唇がすぼまって、煙を取り込むのがわかる。奥深くに溜めた、隠しようもない生の息が吐きだされようとしている。その先で今にも崩れかかる燃焼が、日の出のよう。
 ぬっと腕が伸びた。間に割り込んだ掌が、逃さず受けとめた生ぬるさに湿る。一拍遅れて怪訝にもちあがる視線に晒されて初めて思考が追いついたかのようにアーと瞬いた。
「電車来る」まもなく一番線に各駅停車…行きが参ります危ないですから黄色い線の内側…ホーム中に渦巻きだしたアナウンスに「あ、じゃあもう行くわ……乗り換え、何両目だっけ」「後ろの方」の声が遠ざかり再び二人になる。電車の轟音。
 紫煙を浴びた手に鼻先を寄せた。ヤニくせえ。
「じゃあ近寄んな」
 灰皿に吸殻を捻じ込み、背を向けて歩きだすのをがっと捉えて振り向かせる。再び開かれた掌の細かな皺や傷や生命線が口を塞いだ。
「息して」
 ねだるような声が出た。
 吸って吐く瞳孔が揺らめく。掌にかかる息に目の奥まで湿るようだった。生まれて初めて誰かにねだった。そんなことはねだるまでもなかった。生きる限り息はする。
 とめられない。

2022.01.25/無心