2、
旅から戻って数日。久々に顔を出すバイト先への土産を、びりびり破って自ら食べ始めた銀時に、「意味がわからねえ」、バイト仲間である長谷川が突っ込み、客用の灰皿に自らの吸い殻を落とす。
「なんで銀さんが率先して食ってんの」
「俺が買ってきたからだよ」
「いや土産の意味わかってる?てかそれ、ショーンだよな。ってことは行ったのイギリス?」
「いやこれは帰国後プラザで買った」
「うん。土産の要素なにひとつねえな」
高杉の存在はなんとなく長谷川には知られている。たまに取る休暇が、その野郎のせいだという事も。いいなあ同棲…という長谷川の妬みに、「いや男だし」と銀時は吐いた。ろくでなしのな。
「今回はどこ行ってきたの?」
「アー何度見ても名前が覚えられない国」
「いや覚えようよそこは……ほら、確か前はヘルシンキだっけか? トラムん中で険悪なって、ひとりでトーベ・ヤンソンの壁画見て帰った、っていう」
「よく覚えてんなそんなこと」
なあなあ、どこに行っても険悪になって帰ってくるみたいだけど、そんな相手と長年暮らせるもの? いつ聞いても、雲行きが怪しくない?
矢継ぎ早に飛んでくるそれらを適当に流して、銀時はクッキー缶に手を伸ばし続ける。どこだろうが嫌でも互いを見失わない自分たちが、旅先ではぐれたのは、はぐれる意思があったからだ。
「で、なんでショーンのクッキー?」
「ハートフルでいいかと思って」
それから机に片足を乗せて、
「なあ長谷川さん女いない? 人妻でも可」
ハートフルとは真逆のことを言い出した。
「可じゃないよねソレ。全然アウトだよねソレ。それに俺の周りに女なんて、奥さんしかいない」
「あ〜、だよな。じゃあ奥さんで」
「俺に寝取られ趣味はないです」
そのとき突然、背後のドアが開いた。
ノックもなしに。つまり客ではない。
店内の牌を掻きまわす喧騒が一気に雪崩れこみ、二日酔いの頭に響く。代走か?と思い、机に足で乗りあげたまま、銀時は、ドアの方へのけぞった。
「あ」
逆さまの視界に見たその男に、激しい既視感を覚える。眼の焦点が引っ張られ、ソファごと持っていかれそうになる。実際、椅子の足が浮いた。かろうじて、踵を机にひっかけて持ち直す。隣で、お、土方くん、と気安い声を出した長谷川に、え、誰?と説明を求めようとした喉がショーンのクッキーに詰まってむせる。
「先週から入った土方くんです」
聞いてねえよ。
こめた視線を長谷川に向けたものの気づかれず、いやあイケメンだよねえ、なっ銀さん?と至極どうでもいい振りをされる。知らぬ間に増えていたそのバイトに向かって銀時はろくに挨拶もせず、
「ここ、禁煙」とだけ告げた。
嫌な事に、入ってきた風の。近づく瞬間の、一嗅ぎで、銀時にはわかった。高杉と同じ匂いで息を吐きかけられるのだけは我慢ならない。
「吸ったらクビだから」
数秒、目で殴り合う時間が流れた。
そして土方の目がゆっくりテーブルの灰皿に行く。さっき長谷川が灰を落としたばかりのステンレスを黙って見おろし、(長谷川がハハと笑って体の後ろに隠したがもう遅い)
「わかりました先輩」
と言って、ポケットから出した箱ごと捻り潰した。
ちょうど、半年前のことだ。
そして現在。バイトを上がって、ロッカー室。
制服のスラックスを足首から振り落としながら、ふと罵声がやんだことに気付き、窓から顔を出す。まっすぐ見おろした真下の路地は、粉々に砕け散った瓶ビールがそこら中にぱらぱら破片で煌き、雨でも降った跡に見える。それを冷めた目で傍観した銀時は「終わった?」、潰れ気味の声で呼びかけた。真下、呼びかけられた男の背中が微かに動いて夜を震わせる。その肩に煌くのも、砕けた破片の一部だろうか。ただの刃物と化したビール瓶の断面からビール色で伝う雫。その瓶が地面に放られ、パリインと遅れて銀時の耳に響く。かったるそうに、こちらを見あげた男の、夜に似た髪がぶんと振られて、そこからも破片。
そんな細かな破片をきらめかせる路地。風に転がされて行ったり来たりなポリバケツの青。一瞬が、ふっとそこまで落ちていきそうな錯覚から銀時は顔をあげ、頑張れば手の届きそうな隣の薄汚い壁を見た。そこを這う幾つもの配管と自身の手首を這う血管を同時に世界に入れつつ、「土方くん。お前って、ウインドウショッピングができねえ人種なの?」もう一度、下を見る。チンピラの柄シャツから靴底をあげた土方は、ウインドウショッピング……と銀時のそれをオウム返しする。さっきまでうちの麻雀卓を囲んでいた男達は、何をされたのやら、完全に路地と一体化していた。それを可哀想にで済ます銀時は、マナーの悪さを注意した土方がわざと足を引っかけられたのは知っているし、灰皿の影で手に煙草を押しつけられるのもバッチリ見ていた。
「瞳孔閉じる練習でもすれば。そうやって目に入るモンいちいち手ェ出して、いらん買い物しなくて済むように。初対面で人の手首、……、」、そこでひゅっと切れた銀時のそれは「寒ぃ。裸だった」で唐突に片付けられ、四階の窓は軋みを立てて閉められた。鼻筋からぼとぼと垂れ落ちるものはたぶん血だろうがどうでもいいって顔で土方はその四階へ顎を向けた。その土方は射精後にも似た顔で、髪には、ビール瓶の破片が刺さったままだ。首が痛くなり、四階の窓から目を剥がして、土方はビールの水溜りの中をぴちゃぴちゃ歩いてビル内へ戻る。故障中の札がぶらさがったエレベーターの横を過ぎ、奥の非常階段の重い扉を引く。四階というのはまァ微妙で、たとえば落ちたとして即死は難しいかもなァというのは昔、窓から落とされかけたときに言われた言葉だ。掴まれた胸倉だけが命綱で、空中で限界まで反った首に冷たい風と揚げたポテトの匂いと逆さまの景色が吹きつけたのを覚えている。
四階まで来て、じゃっかん血で乾いたシャツの袖をめくりあげた。ノブを引いた入り口に土方は立ち、暗闇に眼を馴染ます。すると濃いミドリで浮かびあがってくる麻雀卓は、囲む人間が去ってしまえば虚しいものだ。奥のロッカー室から垂れ流れている光に貫かれた土方の眼は、かえって闇がざらつく。嫌な光だと考えていると唐突にドアが開いた。
「何突っ立ってんだよ、んなとこで」
その嫌な光を背負った銀時は、暗がりに突っ立っている土方を見て舌打ち、「あと三分で閉めっからな」、指に引っかけた鍵をひゅんっと回す。一拍遅れで、のろのろと着替えに行く土方を、開け放たれたロッカーの影に見て、銀時は三分でも立っている気力がなく、雀卓の上に仰向けに転がった。衣擦れの音がする。たまに過ぎていくタイヤの音は、潮騒にも似た遠さ。明け方を前に、徐々に追いやられていく闇を銀時はその目にすくいつづける。
「鼻血」
そこへ、闇の中でもわかる血が伝う顔に覗きこまれ、思わずつっこんだ。垂れてくるものを手の甲でぞんざいにぬぐう土方と並んで店を出る。
「あ。アウトレイジ見に行かねえと」
通路の壁に貼られた広告フィルムで思い出す。そんなただの独り言にも土方は律儀に立ち止まる。
「アア、あの結末、」
「ネタバレしたらぶっとばす」
雑な会話をしながらビルを出て、ふと覗いた路地にはまだ土方にやられたチンピラたちがのびていた。凍死しないアレ?と指すと、カイロ貼っといたから大丈夫だ、とずれた答えが返ってくる。コイツこそがアウトレイジだよと銀時は思う。
続く……?