なかなか途切れない倉庫群だった。
もう随分眺めている気がするのに、ひたすら窓の外に続く。ドミノのごとく並び立つ倉庫倉庫倉庫……見ていると時間の感覚がおかしくなってくる。ここが異国だという実感もあまりない。だらしなく下がった肩からバックパックがずり落ち、それと入れ代わるようにしてのしかかってきた重みに銀時は傾いた。見なくても高杉を感じる。知らない国。高杉が風呂場の世界地図で適当に指した国。その国に今いることを不思議に思いながら銀時は窓を見た。鏡状態の夜の窓に映る、自分たちの境目がわからない。
1、
真ッ昼間、暴力的なまでの光に曝された布団を仰ぎ見て、後ずさる。
帰ってきて、なんのきなしに真上へ走らせた目にふっと影が落ちたかと思えば、見覚えのありすぎる布団が、毎日横たわっている布団が、不気味にずるずる垂れ下がってきて口があく。そんな銀時めがけて唐突に、音もなく吸い殻が降ってきた。火のついたままと思われるそれを眼球すれすれで避け、罵声を飛ばした頭上には、いかにも平和っぽく布団を干している高杉がいて、汗でべとべとの喉仏を反る。布団のあとからノンビリ顔を出した高杉は、生い茂る草むらにまぎれて突っ立っているこちらを特に探したふうでもないのに、不思議と一ミリのズレもなく目が合う。ただ交わるだけで、周囲の草木を掻き分けるかのような高杉の目は、たとえカメレオン並みにうまく背景に溶け込もうが、自分の事を見つけそうだった。
何その手に持ってる布団たたき??
とさっきから冗談にしか見えない光景へ顎をしゃくる。
「なんで布団干してんの」
「天気よかったからな」
「へえ、天気よかったから……」
体中の水分が、肌にぐっしょりはりついたパンツから太股へと垂れ流れていくのが感触でわかる。目の前を、ひらひら折り紙が舞い落ちるごとく、ちょうちょが、飛ぶ。さっき高杉の捨てた吸い殻が、草むらに見えた。
「おい弁当。幕の内とエビフライどっち」
「エビフライ」
「い〜や幕の内って顔だろうが、お前は。どう見ても」
「じゃあ、てめえはエビフライって顔か」
干した布団に身を乗り出している高杉と、下の階にまで届きそうな自分たちの布団が、ぎらぎら眩しい。握りしめたレジ袋の中で傾いて汁を滲ませている弁当に引き寄せられた蟻たちが、わらわら足元に群がっていた。
「取り込むの、忘れてた……」
あの日からずっと干しっぱなしだったらしい。
あのとき高杉が干していた布団がボロく取り残されている今を、仰ぎ見る。そんなもので一気にここに帰ってきた感覚がこみあげた。旅先で高杉とはぐれ、ひとりでの帰国の果て。暗がりに存在を主張してくる布団に迎えられた銀時の、草むらから真上を仰ぐその目は虚ろだった。仰ぎ見ながら住宅棟にそって草むらのなかを歩く。放置された雑草が視界を鬱陶しく刺すし、無理矢理突っ込まれたチラシまみれの郵便受けには閉口した。まとめてよじり、クズカゴへ。いつでもそこは住人たちの捨てた郵便物でまみれている。
そして行きより重いバックパックを担ぎ直し、久々に上りはじめるこの階段の、勾配のきつさ。荒い息と噴きこぼれる汗で耳の中がプールみたいだ。背中で暴れまわるクッキーの缶はバイト先への土産だが、たぶん割れまくっている。何度もぶっ倒れそうになりながら、ようやく上り切ってすぐの部屋の前、一階の方に入りきらなかったチラシが玄関ポストに突っ込まれているのを尻目に、バックパックの中を掻き回す。片っ端から服のポケットを裏返していき、ようやく三日前着用のジーパンから鍵を見つけだした。ついでにそれと一緒くたに出てきたレシートのしわを伸ばす。解読不能な異国語ではあるが、値段的に、おそらく初日の屋台で食べたガパオ飯……のスパイスを舌がよく覚えていて、脳裡に、ペットボトルの水をひとりじめする高杉がよぎった。
肩でドアを押して慣れ親しんだ空気に迎え入れられてしまえば、スニーカーを脱ぐ気力もなく倒れこむ。あーとか、うーとか漏らしつつ玄関マットごと毛虫の動きでずりあがり、まぶたをさげた。
このまま意識を手放しそうだ。悪夢を薄っすら予感しながらも、あらがえそうにない夢の世界へダイブしかけた時、ふいに後ろ髪をひっつかまれるかのような痛みが毛根に走った。
夢と現実の境目にいたせいで、なんとなくそれが高杉の錯覚を起こす。手をそこに持っていけば、単にマットに髪の毛が引っかかっていただけだった。その毛をぶち抜き、ゴンッと頭突きする勢いで床へ転がった。
闇をすくうように天井に向かって手を伸ばす。
少しの間、留守にしていただけで、嫌ってほどわかる。どこに触れても知っている空気。
しばらく暗闇に手をぐうぱあさせていた銀時は起きあがり、夜の這う床を進む。玄関に灯りがないせいで、壁伝いの手探りで電球の紐を掴む。
わずかな時間差で明かりが灯る。
シンクで水道水を顔にバシャバシャかけるその間に、接触の悪い蛍光灯はパッと明るみを増すので、水の滴るまつ毛をあげる瞬間の目が痛い。
べたついて仕方のないTシャツを裏返しで脱ぎ捨て、ベランダへ。布団を取りこもうと伸ばした腕に夜風が吹きつけた。ところどころ破れて綿の飛び出したそれを抱きしめる格好で、ずるっと持ちあげる。そのとき、生ぬるい風に混じって何かが腕をかすめるのを、銀時は感じた。なんだ?
腕を見る。皮膚を擦ったそれが感触的に石つぶてだとわかり、
「?」
布団を抱えたまま首だけ乗り出す。暗がりに、じっと目を凝らせば草むらの、ある一点だけ闇が濃い。目が慣れてくると、そこにいる若い男が薄っすら見えた。こうも真っ暗に塗り潰されているのに、その男の目線がハッキリとこちらへ絡みつくのがわかった。三秒ほどこちらを凝視したあと、力なく降ろされたその手は、おそらく続けて投げるはずだった石つぶてを地面に捨てた。最後に鈍い目の光を残し、その男は闇に消えた。
帰国後、だらだらと家にこもって寝ていた銀時は、朝早くの着信に起こされる。相手はレンタル屋で、映画の延滞のお報せだった。しかもそれは旅行前日に高杉が見ていた映画だった。バックパックに衣類を詰める銀時の横で、缶詰から手掴みで桃を食いながら、高杉はその映画を見ていた。何も考えず銀時はその映画に視線をやった。その目に飛び込んできた冒頭をしばらく見てから、
「お前の無い神経をいっぺん刺してやろうか?」
と銀時は吐いた。桃を手掴みについてじゃない。今、眼前のテレビに映っている、
トウモロコシ畑、を掻き分けた先に現れた胴体のちぎれた飛行機についてだ。
テーブルの上のパッケージにちらと目をやると、どう見てもそれは飛行機墜落ものっぽい。
そのせいで離陸時、無駄に心臓がひゅっとするはめになった。
高杉が借りたその映画の延滞料をなぜ俺が?
ぶん殴りたくても今ここにはいないので諦めて銀時はゲオの袋と財布をひっつかんで家を出た。
延滞料、二千百円……。
まああのあとデッキのコンセントごと引っこ抜いてやったので、冒頭のちぎれた飛行機しか見ていないわけだが。監督と主演が誰かってことぐらいしか把握していない。タトゥーロって何に出てたやつだっけ絶対どっかで見た…などと考えながらまったく関係のない十八禁ののれんを掻き分け、うろついた挙句、結局何も借りずに自動ドアから出た。ムシャクシャするままに、なるべく日陰を選んで歩く。
日曜だからか布団を干す家だらけだなァ……
帰国後の夜から四六時中ついてまわる眠気は、なにやら延々と夢のたぐいにいるような、いつまでも同じ季節に取り残されているかのような。他人の家の布団を陽の光でひきずりながら住宅街から駅前へと抜け、眠気覚まし&涼み目的でパチンコ屋へ。
そもそも時差をナメていた。あくびを噛み殺して滲む銀時の目は、絶えず弾き出されるパチンコ玉の動きを映す。そんな中、さっきから煙たく視界を邪魔するものに苛立ち、次第に銀時の太股は貧乏を揺すりはじめた。チラと隣の台にやると、そこだけ異様に霞むスモークは、バーベキューでもしてんのか?ってほど、ここらの視界を滲ませる。
「おたくの煙草、煙てーんだけど」
すこし息吸うだけで肺が汚れる気がするそれは、なんせ、昔っから四六時中、嗅がされている、つまり、どっかの誰かと一緒の銘柄だというだけで我慢のならない銀時は、その太股の貧乏を揺すり続けた。隣のやつにというよりは、どちらかというと、今どこでなにをしているのかわからない野郎へ。
「おーい聞こえてます?」
「あ?」
「だから煙草」
隣のやつはようやくそこで玉を打ち出す手をとめた。しかし、この煙の蛇口である煙草との長ったらしい接吻をやめる気配はまるでなく。それどころか顔面めがけて吐かれた煙に、ア、こりゃ喧嘩売られてる…と銀時は凝り固まった首の関節をポキポキ鳴らす。そして目に入った床に積んであったニコチン野郎のドル箱を思いきり蹴っ飛ばした。そこからこぼれ落ちた玉たちが、床を転がっていく。銀時は何もなかったようにパンッとおしぼりの袋をやぶき、散々吸わされた副流煙のせいで嗅覚が鈍くなった鼻をぬぐう。それからポケットに突っ込んでいたヨレヨレの紙幣を伸ばしてサンドに突っ込んだ。吐き出されるパチンコ玉を眺める。だるい首の関節を鳴らす。至るところに煙草の灰が落ちていて、苛ついた。その灰を振り撒いた元凶の男が、床を転がる玉からゆっくりと銀時へ目をあげる。幸か不幸か、連敗中の銀時の足元に、蹴り返せるドル箱は存在しない。男は無言のまま、ハンドルを握る銀時の手に自らの手を重ねた。上から覆うように。他人にだしぬけに触れられ、腕の筋肉を強張らせた銀時は、重なった手に視線を下げる。
「男と手繋ぐ趣味ないんだけど」
ただ添えられているだけで、徐々に力を加えてくる男の指に、そこにある血の流れをとめられるのではないかと本気で思う。警報を頭が鳴らす。内側の骨が、わずかに軋むのを感じた。
……あー……いやコレ、折るつもりだ。
銀時はどこか遠い思考で確信した。
と次の瞬間、
今までハズレ続けていた玉が、嘘みたいにまっすぐV穴に吸い込まれていくのが見えた。
ファンファーレ。大当たり。
「えっ」
パッと手首から指を剥がされる。
顔をあげたときには既に男は店を出ていこうとしてるところだった。閉じゆく自動ドアのあとから刺さる、外の陽射しと、フィーバーがやまない噴水のごときBGMを浴びながら銀時は、痕のついた手首をさする。かるく回すとミシリと鳴った。