お題:銀登勢
火の中を行くようだ。道が焦げ臭い。どろどろに皮膚を溶かす火は家の中にまで続いている。ブーツを脱ぎ捨て、裸足で踏む床が、灼熱だった。汗ばんだ足跡が廊下にできて蒸発していく。消防士にも消せない火の海。消防のサイレンが近くを通って、それ以外の音がなくなって、蒸し風呂の部屋の中で、伸びた素麺を見た。依頼の電話で食べ損ねた昼の。氷がすべて溶けている。溶けて嵩を増した水面に、死んだ目の自分だけがいる。陽の色に反射する素麺つゆを、水代わりに飲み干して、ぬるかった。けだるい。長椅子に横になる。
……女の足音がする。
ぺた、ぺちゃと湿り気を帯びた足の裏で近づくのがわかる。遅い朝だった。酷く喉が渇いていた。それを一瞬だけ冷却してくれる気のする煙が、熱い血管を這いまわる。火の中にいるようだ。喉だけじゃない。まぶたをどろっと溶かして目までが渇く。耐えきれず顔の近くで燃えていた煙管の火を、皿に落とした。爪の先まで汗を掻いていた。火皿に溜まっていた灰を捨てる。相当詰まっている。それを爪楊枝で掻きだしているところへ、僅かに卓の振動。魚が跳ねたような水滴に目をあげる。視界が揺れる。ガラスを通して幾筋もそよぐ麺が絡まり合いながら目の前を透かして、渇いた眼球に水滴を生む。ガラスを包む女の手の、きめの細かい肌色を、卓に置く一瞬に見ながら肘をついた。青みがかった小鉢にそそがれる、つゆの色が陽の色だった。氷水からお玉ですくった水で、薄まっていく麺つゆが、陽を吸って眩しい。あとから薬味が出てきて、さっそく手を伸ばす。箸で麺をすくう。その重み。水滴を切る。すくいきれなかった幾筋かが、ガラスのふちでぷつんと切れて、垂れた。束でたぐって、チュルルっと吸いこむ音が、重なる。向かいで同じく麺を啜る女の、ふせた睫毛。汗ではりつく髪の筋を首筋に見て、視界は狭まる。
何見てんのさ
さみしさにすっと届く、血の通ったその声が、麺を啜る音と一緒に耳にこもる。この声をきくと、自分はさみしいとわかる。いつのどこでも。ひとは、さみしい。そこに通っている血を、ここにいる脈で感じて瞬いた。まばたきする目頭が熱い。逆光で、麺つゆみたいに薄まった女の顔が、うだる火の中に溶けていく。あァ、ここだ。
俺は、この陽に帰りたかった。
「…火事だァ……ッ!」
素っ頓狂な声にまぶたを跳ねあげた。飛び起きた体から滝のような汗がどっと玉になって噴き出る。蒸し風呂の部屋が、己の心臓の音に脈打っている。遅れて、ざわざわ膨らむ雑音に眼球を巡らした。表が騒がしい。複数の足音が入り乱れている。卓の上のガラス鉢、ふやけたそうめん、ぬるくなった麺つゆ、散らばった箸、そして襖の隙間で眩しい畳、陽に焼けて色褪せた黄色と、埃舞う先の仏壇…それらをなぞっていく目に、痛みが走る。
表に飛び出して、火の手を探した。駆け出す人の流れを見下ろす。階段を駆け下りていく間、胸元を上下する雫があった。走る顔に、ぴちゃっとかかるそれが何かもわからない。覗いたスナックの中は暗かった。道は乾ききって、踏みおろすたびヒビでも入りそうにカラカラだった。橋の上まで来る。人を掻き分けて触れた欄干を握る。遠く、風に煽られる炎を見た。火の粉が目を流れる。燃えているのが何かもわからずヤジ馬の群れの中に紛れこむ。遠くの方で轟轟と盛る炎に肌をどろどろ溶かされて、群がる人間たちの体臭がむっと鼻にくる。肉の焦げた匂いがした。周囲の声が風に煽られ入ってくる。…空き家でバーベキューしてて引火したんだと。じゃあこの匂いは?肉だよ肉、人じゃねえ。
いいや。人間だって肉だ。
散って行く者と、それでもまだ遠くの火に吸い寄せられている者とで橋の上は行き交った。煙を吸う距離でもないのに喉を肺を焼く何かで体は熱い。はっ、はっと鳴りやまない息の中で、遠くの火の粉をごく近くに感じながらただぼうっと突っ立っていたそこへ、
「何見てんのさ」
知った声。自分の脈だけで満ちていた意識に、背後からそれは来た。さみしさにすっと届く、血の通った声が耳にこもる。逆光に薄められた女の輪郭が、振り向きざまの目に流れ込み、唾を飲む。その生唾を感じる。一瞬、膜をはったそれはすぐ溶けて、溶けたと同時、目の前の女の顔が、よく知る皺の深さになった。……貪るような目ェして何だい。そんな食い入って見るもんじゃないよ、火も女の顔も。…どこに女がいるんだ、と思わず呟けば鉄拳が飛んできて、まだ目の端に火をちらつかせながら、今帰りかよと聞く口が酷く乾く。行き先が旦那の墓だとは知っていた。線香や花の匂いはしなかった。ここは火の匂いしかしない。
ところでアンタどこかで流し素麺でもするつもりかいそれはと聞かれ、初めて自分の抱えているものの存在に気付いてボンヤリと。ボンヤリとそこにそよぐ、素麺を見た。ガラスの中、幾筋もそよぐ麺が絡まり合いながら目の前を透かして、渇いた眼球に水滴を生む。火事だという声で目覚めて咄嗟に持って出たのが、これだった。右手には箸まで握ってる。
「なんで俺はこんなもの」
「知らないよ」
「あー…火事だって聞いて?」
「……他にもっとあるだろうに」
呆れて深まる目尻の皺に、浮いては溜まる雫が陽の色で伝う。ガラスの中の水も、陽に染まっていた。ちょうど、つゆを薄めたような。
それを見下ろしながら、無い。と舌が動いた。
「何もない」
頭蓋に響く声は、空っぽだった。そこに通っているはずの血の音が、もうずっとうまく聞こえない。目の下で揺蕩うものに喉の渇きを覚えて、その場で一筋、啜った。ズルルっと麺を吸いこむ音に、年の数だけ通ってきた夏がこみあげた。
さ、帰るよ。銀時、と呼ばれて歩きだす。汗ではりつく後れ毛。その濡れて細い首筋を目の芯に揺らしながら、ついていく。
今、この体に降る粉が、火なのか陽なのか、わからない。それでも。
2018.09.01/迎え陽