目に痛いひかりを滲ませているのは濡れた終電だった。白線を踵で踏んだままシャツの襟あたりから滲みでる雨混じりの体臭をじっと嗅いでいた。肩を擦り抜けていくのは、車体にぎりぎり飛び乗る人間たちで、そのたび襟のところで黒いネクタイが浮きあがった。あちこち線香くさい。車体を弾く雨粒が、早く乗れと急かしてくる。明日もあるから帰らねばならない、この電車に乗って。
「時化たツラしてんなァ」
 白線から浮かしかけていた踵の行き場を失ったのは、視界のはじっこに鈍い銀色が這入りこんできたから。ぎょっと右を向いたら夜に浮かびあがる男の横顔が雨を遮っていた。またもや巡り合った、この男との偶然に心臓が軋む。最終電車のドアが、ひたい擦れ擦れを掠めていって、あっと思う間もなく生ぬるい空気だけを置き去りにしていく。電車の背中がカーブを描いていくのを呆然と見送った。えっ今ので最後かよ、と云ってのけた男の、風で掻き分けられた銀髪から覗いた耳。それを目にした途端、どっと首筋に降りかかってきた疲労感は今日という夜の蓄積だった。断片的に点滅する、通夜の走馬灯。
 ぼしょぼしょと過去の話に花を咲かせる人間たちの群れの奥、白い花や供物にびっしりと囲まれたその中心、ぎこちなく目尻をさげて笑う故人の姿。ぎらりと光る額縁。連想せざるをえない彼女のときの、
「おおい」
 肩に置かれた手のひら、覗きこんでくる乾いた瞳。死人のための儀式が遠ざかり、そのかわりに脳裏をよぎる、数日前の邂逅。浮きあがった男の喉仏を伝う汗を、ぼんやりと目にいれていた夜。そこを今流れていくのは雨粒で、あのとき律動しながら翳らせていた男の瞳にはこの瞬間、喪のネクタイがなびいていた。その端っこを男の手が摘み取り、線香くさい、と爪先で黒の光沢を辿っていく。なんだその格好、でもなく、誰か死んだのか、でもないのがこの男らしく、数日振りに顔の筋肉がひきつった。襟元から伸びた喪のネクタイが、生きる男の手のなかでぐしゃりと潰される。土方のまぶたの先に、坂田がいた。

 手のなかで折り曲がっていた切符をゴミ箱に投げ捨て、改札の向こう、弱まりそうもない雨でびちょびちょのアスファルトが目に滲んだ。お前、傘もってねえの。折りたたみとかよ。勝手なことをぬかす男の肩がこちらのものと擦れ合う、雨の駅前。終電に乗り遅れた者たちでタクシー待ちの行列ができているのを横目でとらえ、そちらに向かって足を進めかけると、「おい、あそこの居酒屋まで走るぞ」、一瞬だけ袖をひかれたかと思うと次の瞬間には男は雨のなかへ飛び込んでいった。は? ぽつんと取り残され、ひろい背中が居酒屋めがけて遠ざかっていくのを目で追いかける。いや。俺はまっすぐ帰るし。タクシーで。明日もあるんだよ。明日も。あ、る? 遠ざかった坂田の気配に、またも、土方の首筋に落ちてきたのは夜の蓄積。ぎらりと光る額縁。焼香の列。次の瞬間には舌打ちとともに、やけくそで飛び出している。靴底から飛沫が跳ね、喪を濡らす。いつまでも酔うことのできない種類の酒が、胃のなかで揺すぶられる。

 二階の座敷にて、斜向かいに腰を据えた男は壁にあたまを擦りつけながら壁の品書からは目を離さず、「暑苦しいから外せよ」、ネクタイのことを云った。傾けたジョッキの底にはあと僅かしか残っておらず、むにゅりと押し潰したところから飛び出た枝豆が男のほうに転がっていった。べつに腹など空いちゃいなかったのに、あったらあったで自ずと箸は伸びた。だから外せって。暑苦しい。鬱陶しい。拾いあげた枝豆を口に放り込み、ネクタイについてしつこく言い募る坂田のくちびるの端が切れていた。血は固まっているものの、あきらかに真新しいその痕を坂田のくちびるからはみ出た舌が舐めとった。なんとなくそこから視線を外し、きつく閉めていたネクタイを緩めたら、ようやく土方は解き放たれた気になった。およそ数時間後には再び締めなければならない喉奥を今は開け放ち、そこに酒を流しこむ。酒を舐めては煙を吸いつづけ、夜が深まるごとに灰皿は盛っていった。
「てめーは帰らなくていいのか」
「なにで帰れと?嫌味かよ」
「帰りてーならアシはいくらでもある、それにどう見ても終電だった」
 ゴン!と坂田の置いたジョッキで、からあげが皿から飛んだ。芋焼酎ロック。通り過ぎざまの店員に低く注文してから、ところでよう、とあからさまな話題の変え方をする。レモンのかかった、からあげに坂田の箸が伸びることはない。噛み潰したメザシから漏れた苦みが土方の舌のうえに広がっていった。
「こないだ公園でガキにガン見された」
「平日の昼間にンなとこいるからだろ」
「うっせーよ」
「あれ、タバコない」
「知るか、シケモクでも吸ってろよ」
 絹ごし豆腐に醤油を垂らしている男の眼球からは何も読み取れやしない。ぽた、ぽた、と醤油が染みていく豆腐に、薄暗い目を向けている。端でよっつに割ってから、器用に掬いあげた。そばに置かれた皿をざっと確かめてから、テーブルに裏向けで貼りついていた濡れた伝票をひっくりかえす。坂田の注文したやつはすべて、歯ごたえのあるものを見事に避けている。皿から転げおちたままの、からあげは冷めていく。渡されたタバコのサンプリングに火をつけながら土方は、相手の切れたくちびるを見据えていた。不安と安堵がごちゃまぜに襲ってくる、ゲロみたいな味。そんなものでも、ないよりはマシだった。

 避けきれない水溜りをふたりの靴底が踏み散らす路地裏。背中にあった駅はすでに遠ざかり、引き返すには面倒なところまできたあたりで、コンビニのひかりに引き寄せられた。舌を這うサンプリングのゲロ味を薄めるためにも、いつものマヨボロが恋しい。そのままコンビニを素通りしていく坂田に声をかけずに、向きを変えた靴が自動ドアをくぐった。べつにこのまま別れてしまったほうが楽だ、という土方の期待はあっさりやぶられる。背後で閉じかかっていた自動ドアがこじあけられたのは、振り返るまでもなく。タバコを買ってから彷徨わせていた土方の目はすぐにその銀髪を見つけ、それでも近づくのを躊躇するのは、どうあがいたってそういう気配があるからだった。二度目がはじまるだろう、気配。逃げだしたいような気持ちで、汗でぬめった首筋をゆびさきで撫ぜている男の横顔を見つめた。「おい」、微かなのによく通る、かすれ気味の呼びかけがしっかりと土方の耳まで届く。仕方なく近づいていった土方は、坂田の手のなかにある小さな箱の存在に気がついた。顔色を変えた土方と、なにひとつ顔色を変えない坂田が、夜のコンビニのひかりのなかで並んだ。いる?、と、あくまでかるい調子での問いかけに喉が焼ける。べつにいらねーか。また元の位置に箱を戻した坂田の、くちびるの端で固まっていた血が今にも切れてしまいそうにひきつれた。その笑い方が、だれでもいい、と云っている気がして張り裂けそうだった。
「っ待て、やっぱり、」
 連れ込まれた公衆便所のざらついた壁に手をつきながら、土方は今にも這入りこんでこようとする男のものから逃れようと身体を捻る。少し動いただけで、さっきまで内側に押し込められていた男のゆびのかたちが鮮明に蘇り、いやらしくもひくつくのがわかった。一回目のときよりも半減した痛みのかわりに、なみだが滲んでくるのが信じられなかった。音が漏れでてくるまでにほぐされた土方のそこに、坂田のものが押しつけられる。坂田の乱れた息が耳を這い回り、土方の瞳はますます濡れていく。だめだ。だめだ。力の抜け落ちた腕がかくんと折れ、決して汚してはいけないシャツの袖を壁に擦りつけた瞬間、
「あぁッ、ん、はっ」
 這入ってきた。奥深く、えぐりこむように。かさついた手のひらに口を塞がれ、なにかにすがりつきたくてたまらない手のひらが壁をずっていった。呼吸を整える間もなく性急に動きはじめた坂田の生ぬるい吐息が土方の耳のなかを湿らせていく。かるく出ていったかとおもうと、またぐちゃりと這入ってきて、
「ン、んんっ、」
 押し殺しても漏れつづけた。たくしあげられたシャツのなかで、しつこく胸の突起を撫ぜていた男のもう片方の手がゆっくりと下がっていき、震えるそこを握りこまれる。締めつけが増す。坂田のゆびが土方の頬に食い込む。ぶれつづける眼球をずらせば一瞬だけ男の欲にまみれた瞳とかち合い、端のゆびから順に剥がされていった。解放されたくちびるを、かわりに塞いできたのは男のくちびるで、潜りこんでくる舌の熱さに限界は近まる。深まった結合部からひっきりなしに濡れた音が洩れつづけ、揺すぶりが小刻みになっていく。擦りあわせた舌から流れこんでくる男の血に、ぶるり身体が震えた。

 幅のひろい滑り台に身体を横たえた坂田が「疲れた」と云う。タバコをくわえながらそれを見おろしていた土方は汚れたシャツの袖をめくりあげ、公園の中心に立つ時計の秒針を聞いていた。夏の夜明けは、はやい。あと少しで昇ってくるだろう朝日のことを思うと、無意識にフィルターを噛み潰している。外灯を叩く蛾のしつこさ。風で揺れるブランコ。インドボダイジュのざわめき。坂田の浮きあがった肩甲骨。
「別に行かなくてもいいんじゃねえの」
 背を向けたままの男がふいにそんなことをこぼすものだから、面食らってタバコを落としかける。
 行きたくねーんだろ。
「……そんなわけにいくか」
「んじゃあ頑張れよ」
 間髪いれずにそう云い放たれ、風でなびいたぐしゃぐしゃの前髪のうちで土方の目は笑った。そうだな。すぼまったタバコが手のなかでじゅっと燃え尽きる。幅のひろい滑り台を照らすのは月光ではなく切れかけの外灯だった。痛む身体を坂田のとなりに横たえると、乾いていない雨が冷たく背中に染みていった。汚れようが不謹慎だろうが、ちゃんと行く。だからもう少しだけ。
 土方の眼球のなかを黒雲が流れていった。タバコを捨てた手のひらで坂田の背に触れたら、あまりにあたたかくて視界がぶれてくる。握りしめたところから皺が寄っていくのに合わせ、背骨にひたいを当てた。匂いも、骨のかたちも、呼吸の速度も、心臓の動きも。今この瞬間に生きている、この男のすべて。
 朝が、すぐそこまで来ていた。


 水呑場で髪を濡らしていた坂田が、うああっ、と漏らす呻きが薄明かりの朝に響きわたった。ひろくない公園はひかりと影でななめに切り取られ、鳴きはじめるタイミングを見計らっているかのような蝉の気配に満ちていた。ぶんと振られた坂田の銀髪が、昨夜の名残の水溜りに映りこんでいる。
「カツ丼食いたくね?」
「食いたくない」
「いや食いたいはずだ、ほらあっこにちょうど」
「朝から、んなもん食えるか」
 まだ開いていないカツ屋の前で坂田の足に擦り寄ってきたのは野良猫だった。土方の手は見事にするりとかわされ、長い尻尾が警戒したように張りつめた。はんっと鼻で笑った坂田は顎を撫ぜようとしたゆびを思い切り噛まれていた。「魚臭いんじゃねえのか、お前」、そう云って歯をこぼして笑う土方のまぶたが震えるのを坂田はじっと見ていた。うん。猫が鼻をなすりつけてくるのが昨日流した血のせいだったとしても。うん。こうしてまた今日がきて、魚臭いとかゆわれて、なんかよくわかんねーけど笑ってる。
 午前七時、カツ屋のシャッターがあがった。
 灰皿が見当たらなかったので、ひらいていたジャンプのあいだに先端だけ出して置いたら、足を蹴られた。湯気のあふれだすカツを噛み砕き、熱々の白米を掻き込みながらの朝飯は土方には重すぎた。
「重いぐらいがちょうどいいんだよ」
 タバコをどけてジャンプのページをめくる坂田のかおは、あいかわず土方の斜向かいにある。そのゆびからタバコを抜き取り、くちびるに挟むと、たったいま飲みこんだカツが喉元までこみあげてきそうになる。これ先週のじゃねーか。ジャンプを放って爪楊枝で歯の隙を探りはじめた坂田のくちびるの端はもう完全に固まっていた。懐に閉まってあったネクタイを首に巻きつけはじめた土方に、もう行くのかよと坂田が目で問いかける。ネクタイの位置を調節したあと、財布から札を抜き取りテーブルのうえに置く。
「いろいろ忙しいんだよ。受付も頼まれてる」
「ふーん、じゃあ行けよ」
 立ちあがりかけた土方の腕が斜向かいへと伸びた。胸倉を掴まれた坂田から、うおっと間抜けな声があがる。微かに触れ合ったくちびると、間近で見開いた男の眼球。そのとき土方のおやゆびが一瞬だけ坂田の血の塊を撫ぜた。くちびるを離して笑った土方は、じゃあなと云い残して背を向ける。店を出る際に少しだけ振り向いた土方の眼に、耳のあかい坂田が映りこみ、そうして朝日のなかに足を踏み出した。先ほどの猫が擦り寄ってきて、土方のおやゆびを舐めかけた。悪いな。これは、俺の。とつぶやいた土方は猫に別れを告げ、斎場までの道を歩きはじめた。喪のネクタイがなびいても、とまらずに行く。

2014.09.26/さらばモーニング