高杉の目にあらわれた点は、はじめ雪のようだった。
遠くからだんだん近づいてくるごとに人のかたちに滲みだしたそれを、じんわり潰していくように高杉はまぶたをおろす。
そこに車体をゆらしながら乗りこんできた坂田、その口からたなびく冬を追いだすようにドアを閉め、「はァ、30分かかるってよ」、暗やみにおちる声。薄っすらとしか見えない高杉の横顔にしばらく目を這わせていた坂田は、その閉じたまぶたにすっとはいる一本の傷をふいになぞりたくなったが、殴られるのも痛い冬なのでやめておいて、そのかわりにはじめるどうでもいい話。
「電話借りた家が爆音でクリスマスソングかけてやがってどこのパーティー会場だって話だよ、うるせーったらねェ、ディーラーにもなかなか伝わんねェし何回エンストって言えばいいんだよ俺ァ……はー、アレ、定番の、なんつったっけホラ、♪ラースクリスマス アゲビュマハーってやつ」
「……言ってんじゃねェか」
「ラストクリスマスはわかってんだよ、歌ってるほう」
「wham」
「あーそれ、ワム」
そこに、ガンッ、と意味もなくグローブボックスを蹴った高杉はピースの箱だけひっつかんで車を降りていった。角度的に反射してみえたpeaceの字づらになんとなく気分をさげながら後部座席とのすきまに落ちてた毛布をひっぱりあげて包まった坂田はその目を高杉へと投げた。暗くても風にながれる黒髪はわかる。男の指先に挟まれたタバコから飛ばされてくその灰だって。
その合間にボンネット蹴るのをやめろと薄ぼんやり思いながら、こんなところで足止め食らわされてほんとは今ごろコタツのなかでぬくぬくドラマの最終回をみていたはずなのに今あたまのなかでぐるぐる流れているのはラースクリスマス アゲビュマハーだ。人生なにがおこるかわからない。こんなバカみたいに些細なことにも感じいるほど坂田は近ごろ、人生に参っていたりする。その元凶のほとんどは今あそこで平和を吸っているやつにあり、もはや俺の平和もすべてアレに吸われてしまったんじゃねえかと毛布に鼻までうずめて沈んでいきかけたら、激しく揺さぶられる車体。ぼふぼふとシートであたまをぶつけて腹が立つ。そうして毛布をあたまからかぶったまま車を降りた勢いのままに高杉の背中にとび蹴りを食らわせ、へこんだボンネットに舌打ちしていると背中に衝撃、倍返しでくるキック力。
じつは高杉もあのドラマにはまっていた疑念さえわいてきて、あーまだ10分ちょっとしか経ってねェ、と、たたらを踏みつつそのままボンネットに凭れかかる。電柱でタバコ消してる高杉といえば、こういう無駄な時間をひどく嫌悪するのだ昔から。人生そのものが無駄みたいなもんだろといつかの誰かが言ったソレには同意も否定もせず、その目をただ翳らせていた。それを思いだしている坂田の目にじわじわと高杉が滲んで、夜に潰れていく。感覚のない手でボンネットに触れながら、「もう星でも見てろテメェは」、坂田が投げた適当なことばに、意外にもすんなりと夜空を見あげた高杉がうしろに一歩あしを引いた。
「あ」
声がかさなって、毛布がばさり落ちていった。
バカみたいにひらいた口につめたい空気がふってくる。目のはしでとらえた一瞬のきらめきは、ずっと昔まだ背も伸びきっていない頃にみた以来のそれで、あまりに現実味に欠けていた。いちど目を合わしてから再び見あげたそこにはもう僅かにぽつぽつと瞬くものがあるだけで流れおちることはなかったが、まだ、まなうらにはひかりの尾がすうっと伸びている。そこに願うことなど何も持ち合わせてはいないふたりはそれでも空を見あげたまま、いま見えるだけの星をその目でたしかにとらえていった。宇宙をおもうときはいつも不思議な感覚にとらわれるが、惰性にあぐらをかいた日常のなかでそういうことはとても深追いしていられない。そんなところに思わぬエンスト、ぽっかりとあいた無駄な時間、そこでまたその深淵に触れるとは。まだ鼻先にピースの残り香があってそれをかるく吸いこんだ坂田は、たぶん今おなじ星を見ているだろう高杉にもはや求めるものは何もないのだと悟った。近くにいることはわかっている。それでいい。この目に見える星があるだけで。レッカー車のヘッドライトに遮られるまでふたり、そうしていた。
2015.12.22/ラストクリスマス