文字書きワードパレット(→
21.クラン・ドゥイユ:檸檬、跳ねる、視線







 レモンかけていい?
 衝立を蹴倒して踏み込んできたチンピラを無視して坂田が聞いた。唐揚げの上空で黄色い涎を垂らしかけているそれは律義にも土方の答えを待っている。その間も、がなり声で喚く野郎の汚い唾が、ふたりの横っ面に飛沫でかかる。肩を掴まれた坂田が揺れた。土方の眼中で坂田の手中の黄色がブレる。オーケーを出した。かけていい。許可の下りたそれが、坂田の強すぎる握力で絞られる。プシャッ。激しく飛散。唐揚げじゃなしにチンピラの眼球に直撃するそれ。直後、顔面すれすれに滑り落ちてきた刃物を土方は避けた。坂田の蹴りが、チンピラの顔面を吹っ飛ばす。もんどりうってひっくり返ったそいつを踏み台にして、壁のフックにかけてあった二人分のジャンパーを坂田は取った。こちらに放られたそれに腕を通しながら水滴に浸かった伝票をつまみ取った土方も立ちあがる。つーか俺にもかかった……。沁みる片目を擦りながら、このノーコンがと舌打つ土方を、えマジで? と坂田が振り返る。そうして畳を通過する坂田と土方に立て続けに踏まれた体が、ぐえっと漏らす。倒れた衝立の向こうで怯えた目をした女が、さっと目を逸らす。座敷を出て靴を探す。どこだ俺の。これだろ。ひときわ臭ェ。鼻を摘まみながら土方が坂田の前に靴を投げる。汚物扱い? 舐めさせんぞテメー。そうして履きかけた靴を、またボトッと落とす。何がしたいのかと踵に指を突っ込んだ姿勢から視線をあげた土方に「ちょい待て」と言い置き、座敷に引き返す。テーブルの皿から、唐揚げを摘まみ取って戻ってきた。そのたび踏みつけにされるチンピラの躰がいちいち跳ねる。「もったいねェ。オラ、テメーが落としたのはテメーが食え」畳に伸びてる男の口へ無理やり唐揚げを差し入れ、「よく噛め」と言うと素直に咀嚼音が聞こえだす。よし。そうして坂田に飼い馴らされた野良犬を土方は数え切れぬぐらい知っている。坂田の歯に齧られた唐揚げから滲む油。指に垂れたそれを土方の服になすりつける。いまだ沁みて開きづらい土方の片目をふと見て、坂田が噴き出す。お前そのままずっとウインクしてろよ、ウケるから。どこか寂しげに眇める坂田の、間近で揺れる笑い声。エレベーターで下って出た雑居ビルの外は、そこらじゅうがレモン汁まみれだった。朝日ってこんな酸っぱかったか? どこに目を巡らしても薄っすら黄味がかった光射す路地に、坂田と土方は並んで立つ。ぶるっと身震いしながら空を仰いだ。
「うあー沁みる……」
 その坂田のまなじりに光る、笑いの名残りの雫。
 ここから帰る方角は別々だが、無駄にダラダラ留まり続ける。寒くて飛び跳ねそうだった。その場に白い息が散り続ける。
「てか、さっきのヤロー何にキレてたんだ?」
「知るか」
「突然おしぼり飛んできたか思ったらお前の顔面に直撃したじゃん。くく……っ、そこはまァ同調せざるをえねェよな。俺もたまにそのツラに物投げたくなる」
「テメー……わざとか。レモン」
「いや無意識だよ無意識。うっかり手元狂った。ぷぷ。まだ痛え?」
「今度レモン汁の眼薬さしてやる」
 まだ瞼の奥にそれはある。朝日にも似た檸檬の汁。そのせいで土方は今この瞬間も滲みている。坂田を映すのが痛い。夜が明け、徐々に増す黄色い光線が痛い。ポケットから抜けた坂田の掌が、晴れてるのに降ってきた雪を掴もうとして空振る。
 何度も空振るその手を土方は掴みとる。冷たい中に通る熱の芯。掴まれてこっちに向く坂田の青臭い視線が、土方に絞られる。

 青酸っぱく、絞られる。


2019.07.01/レモンの朝