山崎は埠頭に向かって歩いていた。このまま歩いていけば海だった。道の先に見えるあの真っ暗な空洞が海だった。そこに向かっていく熱帯夜の肌はじっとりと汗ばみ、ぬらついて見えた。埠頭の付け根には一台の車が停まっていた。ナンバーを見るまでもなかった。闇に揺蕩う海のようなアルピナの青。土方の車で間違いない。時々、車体が不自然に揺れた。それに気づいた山崎の目も不穏に揺れた。味のしなくなったガムを口から捨てた山崎はそれを紙で揉みこむように丸めてから車を覗いた。後部座席に、額を寄せ合って俯く男二人が見えた。土方と坂田だった。窓を指でノックすると、白と黒の頭が同時に持ちあがる。ルームランプの淡い光を吸った彼らの目が山崎を見た。身を乗り出した坂田がロックを解除する音を聞いてから、山崎はドアを開けた。シートに手を着いた猫のごとき体勢で、遅かったなと坂田が言った。
「すみません。ちょうどシャワー浴びようとしてたとこだったんで」
「脱いだ服、また着た?」
「え、臭います?」
こちらの襟ぐりを嗅いで「焼肉」と一発で当てた坂田に山崎は引いた。目ざとすぎて怖い。
「早く閉めろ。蚊が入る」
土方に言われ、山崎は運転席に乗り込んだ。買ってきたハイライトを後ろに差し出すと切らして随分経つのか、土方の手はすぐ封を破った。「次、お前」と坂田に促され、煙草を挟んだままの手がルーレットを回す。カラカラという音の回転を見守る僅かな沈黙。
「『女の子が生まれる。車に乗せ、お祝い二千ドルもらう』」
「またかよお前どんだけガキつくんの。もう乗るとこねえじゃねえか、その車。何回祝儀払わす気だ、腹いせか、俺への?」
「うるせェさっさと払って次回せ……はん、また一マスかよ、ざまあねえ。何々、『火事で家を失う。火災保険があれば四万ドルもらう』」
「っざけんなよ保険入っときゃよかった!」
コマの車にピンクのピンを挿そうとして「穴が足りねぇ」と煙を吐く土方はシートに膝を立て、足首をさすった。その横で指を舐めつつドル紙幣をめくる坂田は「で、焼肉って?」と急に山崎に話を振った。
「まさか女と?」
「ねえよ、どうせ原田だろ」
「違います。一人焼肉です」
ウワ〜と二人の声が綺麗にハモった。その間も交互に回され続けるルーレットと、とんとんとマスを進む車のコマと、眼下に広げられた人生の盤面に山崎はもはや耐えきれなくなった。
「ウワ〜はこっちですよ! なんで人生ゲームなんかしてんですか、アンタら」
「いいだろ別に。ゲームの人生でくらい、いい夢みたって」
「火事で家失ってんじゃないすか」
「俺は夢のマイホーム庭付きを手に入れたし、犬も飼ってる。ほら見ろ乗りきらねえほどのガキにも恵まれた。あっやべ、マヨ美が落ちた」
「マヨ美って誰だよ!」
山崎はなんともバカらしくなって、窓に視界をずらした。闇しかない。どこからが海かわからない。車ごと海に浮いているようだった。このまま闇に流されてしまいそうだった。空調の黴臭い冷気を吸う息がどこか苦しかった。窓には耐えがたい夏の日々を愚かに燃やす男達が映しだされていた。その境目は溶けてわからなかった。
「ハア運転できなくなったって聞いて、飛んできたんですけど。ピンピンしてるじゃないですか」
「いやできねーよ? 俺は手首イッてるし、コイツは足首イッてる。ほら、ブランブラン」坂田が左右に揺らす手首は確かにどこかに逝っているようだった。土方がしきりにさすっている足首はよく見ると異常に腫れ上がっていた。どこかテンションがおかしいのは痛みでドーパミンがドバドバだからか。
「何したんですか?」
「いやカーセックス? 夏だし特殊な体位に挑んだら別の意味でイッた。やべーなアレ、お前知ってる? ヘリコプターっていう……」
直後、宇宙一バカなクラクションが響き渡った。
人生のどこかのマス目。ある夏の夜の埠頭。
2022.08.18/人生のどこか