背凭れをずると、曇天が流れる。
 朝らしくない空だった。曇天の癖に妙に眩しい気がする。眩しい物は疲れる。そこらじゅうに波打つ電線が、勝手に視界に吸い込まれてくるのに疲れた土方は、眼をずらす。頭上のサンバイザーに挟まった何かの半券に、焦点を絞る。シネマ5。日付は一昨年の七月。タイトルを見ても土方は微塵もその中身が思いだせない。見た気もするし、見ていない気もする。
「俺も見たやつ?」
「さァな。テメェの海馬に聞けよ」そう投げやりに寄越した高杉がウィンカーを出す。支柱の曲がった看板を、ずった視界で見あげる。ドライブスルーの文字の、スが抜けて、ドライブルーになっている。カレーが食いたくなる。
 音を刻みながらの左折に合わせ、後部座席に置いたペットボトルが転がった。地面の矢印に沿ってゆっくり進むタイヤが回転の痕を残していく。注文口の横に車をつけた高杉が折り畳まれたクーポンをだらりと垂らす。高杉との間にあるクーポン券の切取り線に点々とぼかされる。店のマイクは「お待ちください」と漏らしたきり黙り込んでいる。その間も土方は、こちらの雑音が店内の耳に掻き集まる気がして無駄に息を殺す。窓から虫が入るのを見た。高杉の眼がそれを追って動いた。羽音を聞いた。
 およそ一分放置された挙げ句、このまま寝てやろうかと思った矢先、唐突にマイクが喋りだす。
「いらっしゃいませ。只今、パネルにあります期間限定のストロベリースムージーをおすすめしておりますが、いかがでしょうか」
 マイクから飛び散るはずがないツバを土方は感じた。つらつらと勧めてくるその声を完全に無視して高杉がクーポン番号で返す。土方はぎょっと高杉を見た。どっから出した今の声? 初めて聞く高杉の裏声に一瞬で土方の腹はよじれかかる。目尻に水が溜まっていく。続けざまに裏声で喋る高杉の顔が虚無以外の何物でもなく、殺されかかる。これは絶対バレる。マイクの向こうもおそらく瀕死だろう。ぷるぷる体を震わしながら土方は腹に食い込むシートベルトを感じた。
「ではお気をつけてお進みください」
 内臓の波打ちが治まりきらぬまま、車が店を回り込む。眼の中をカーブしていく空。裏声を使ったせいか高杉の喉から濁音が漏れる。
 受取口まで車を進めると、ガラの悪い笑顔を貼りつけた店員に迎えられた。煙草をチョキで挟んだままの高杉が窓から支払う。今にも触れて紙幣が焦げそうだった。向こうからも伸ばされた手が釣銭と紙袋を高杉の手に握らせる。
 徐々に閉まる窓の隙間に土方は、見送る店員の顔を見た。去り際のそいつの残像は油の匂いがした。嗅ぐと食欲を刺激する油臭だった。同時に強烈な空腹感を覚える。高杉は出てすぐの路肩に停めた。紙袋に突っ込んだ手が、じっとりと湿り気を帯びた。抜き取ったそれにストローをぶっさし啜る。浮いてくる氷をストローの先端でつつく。包みを剥がす音が車内に籠もる。剥がす直前、高杉の手からコンソールの灰皿に向かって落ちていく粉々の灰を見た。
「おい、それ」と顎でしゃくる土方に「釣銭渡すついでに握り潰してきやがった。今頃、焦げた手ェ洗ってんじゃねェか」と漏らす高杉の笑い。ハンバーガーにかぶりついていた土方の笑った口端から肉汁が垂れた。「おいシートに一滴垂らすごとに銀時の飲ませるぜ」「テメェのじゃなくて?」「それだと罰にならねェ」咥内の肉や卵やチーズやパテが混じったのを噛むのも忘れた放心顔で土方は朝を見あげた。さらに眩しくなった。朝日はどこにも見当たらないが、射すものがある。痛く細めた眼にドアミラーの白い反射。
「あー来たぞ」
 土方の口から食べカスが飛んだ。ミラーの中、こちらに向かってまっすぐ歩いてくる男が見えた。店の制服を着たままだった。大股で歩いてくる。ルームミラーでそれを見あげる高杉も同じくらい眩んでいるようだった。
 そのとき土方の海馬を、青いポスターがよぎった。その前を、ぜってー駄作だろ、と漏らしながら過ぎるろくでなし二人、順に券を差し出す背中、重ねられた三枚の切り取り線にそってもぎられる券。
 土方は改めて頭上の半券を見た。
 切取り線に沿って全然切られていないそれを。
 ドアミラーの中でだんだんでかくなる男の、キャップを取った静電気の銀髪が、この曇天の朝の眩しさだった。あと一度の瞬きで、そいつは窓に手をかけるだろう。
「カミングスーン」土方がつぶやく。高杉は笑う。

2020.05.05/ドライブルー