昼過ぎ坂田が起きてきて映画を遮った。
邪魔だという高杉の舌打ちを無視してテレビボードの抽斗を漁りだす。中腰のだらけたトレーナーに遮られ一時停止にしたリモコンで、ソファの角をコツコツやりながら高杉はのけぞった視界に真昼の光を溜めた。
「単四使った?」
「知らねェ」
もはや完全に映画を遮っている男の分厚い背中を観賞するはめになった高杉は、坂田のたるんだトレーナーの剥げたロゴを見た。その剥げ落ちたローマ字が何だったか思いだせない。遥か昔から坂田はそれを着ている気がした。そこへ「ゲ、高校」の声がして顎があがる。「の生徒手帳でてきた。アア、お前は永遠の中二だったな」
紙をめくる音と共に突きだされた、十代の坂田と目が合った。高杉は灰皿に煙草を捩じ込み、立ち上がって坂田の無防備な足をぐりぐりと踏んだ。濁音で呻く坂田の手がさらに抽斗の奥を探り、掻き回し、引っ張りだす。「あったあった、お前のも」折れ曲がったそれをパラパラと捲っていく頁から埃が舞う。行き過ぎたと言って頁を戻す坂田の指が、十代の高杉に触れる。「若ぇ」と漏らす坂田の、湿気た笑いが空気を生ぬるくする。思考の奥まで湿気りそうで高杉は新たな煙草に火をつけた。ずっと近くにいるからわからない。十代の坂田と今の坂田を交互に見比べ、違いを探す。
「目が死んだ」
「雑な間違い探しやめろ」
ところどころ張りついた頁を坂田の指が剥がしていく。「うわ、コロッケのカスみたいなん挟まってる」
「これはアレだな、購買のコロッケパンの……そいや何年も食ってねーなコロッケパン、最後に食ったのいつだっけ。それこそ高校が最後だろ。コロッケはしょっちゅう食うがパンがつくとなると…なァお前は最後いつ食った?」
テレビの前で突っ立つ彼らにふいに陽が射した。映画と現実の陽が混じった液晶にようやく意識を向けた坂田が目を眇めた。「どこで一時停止してんだテメェは」
「テメーが遮った」
「いや朝から見る映画じゃねえ。頭爆発してるもん。グロが画面いっぱいに飛び散ってるもん。なんでスキャナーズ?」
もう昼だと返して高杉は灰皿ごと移動する。レンジフードのスイッチをつけた際、コンロのふちに引っ掛かったニラが目に入る。昨日の夕飯がレバニラ炒めだったことを高杉は思い出す。
トレーナーを脱いで半裸でうろつく坂田のその裸に刻まれた傷と、いまだグロを飛び散らせている液晶が、何か懐かしい抽象画のように、高杉の煙たい視界を遮り続ける。
見切り品と貼られたビワを高杉は眺め回す。擦れた跡や傷、日焼け、ヒビ。何をもって見切られたのか。角度を変えながら確かめる高杉の存在は安っぽいスーパーの景色に溶け込めない。その存在感は、どれだけ混ぜようと残り続けるダマのようだった。そのダマのような高杉が、主婦の押すカートの隙間を潜り抜け、レジ待ちの坂田の背後に来る。持っていたカゴが微かに重みを増した気がした坂田が振り向く。入れた覚えのない見切り品のシールに瞬いた。何かを言おうにも、高杉はそのまま過ぎ去ってしまった。少し傷みかけのビワを見る。ビワを最後に食べたのはいつだろう。坂田は考える。コロッケパンと同じく、遠い日のように思う。
もう遠い。
なにもかも。さっきまで見ていた夢すら、もう二度と思い出せないのと同じこと。
傷物のビワが店員の手に掴まれる。バーコードを読み取っていく音の中、坂田はレジ横の電池を束で鷲掴み、カゴに追加した。
会計を終え、ぐるりと店内を見回す。高杉はいなかった。窒息しそうな陽射しの下に出た。高杉はいなかった。坂田は一人で帰った。
テレビの液晶はいまだグロを飛び散らせたままだった。
手を念入りに洗い、昼だか夕だかわからない食事の用意に取りかかる。空腹のせいで、頭の中までスカスカだった。
ジャガイモの皮を百均のピーラーで剥いた。それを電子レンジで加熱した後、穴あきのお玉を使い無心に潰した。微塵切りした玉ねぎを挽き肉の中に放り入れ、塩コショウ、ナツメグを加えて炒めた。粗熱を取ってから、潰したジャガイモと混ぜ合わせ、ひたすらこねた。ねばついたそれを分割して手ですくいとり、いくつもの小判型の塊にしていった。そいつを溶き卵にくぐらせパン粉をかけた。鍋に油を注ぎ、火をかけた。
そのときチンという音がした。
あれはエレベーターが各階に着いた際に鳴るものだ。坂田は油から目を離さなかった。鍵穴の回る音がした。坂田は油だけを見つめていた。廊下を踏む裸の足音がした。
二百度の油に向かって坂田は聞いた。「どこに行ってた?」
高杉が答えた。「どこにも」
そうだろうと坂田は思い、パン粉まみれの塊を油に落とした。跳ねあがる灼熱の雫を避けながら坂田は瞬く。横から油の海を覗きこんできた高杉がまるで何千キロも歩いてきたかのような息の重さで言った。「雨かと思った」
「うんざりするほど晴れていて、首を絞めてくるような陽射しの中を歩いてきたってのに、ここから雨っぽい音がするもんで、この短い一瞬に降ってきたのかってな」
坂田が、最後の塊を油からすくいあげると、高杉のいう雨音はぴたりとやんだ。ふいに夕立が去ったあとのような濡れた光を坂田は感じた。それが高杉から来る視線なのだと坂田はわかる。揚げたての塊を半分に割ってかぶりつく。衣の熱が歯の隙間で弾けた。中身はどこまでも柔らかく時折肉のすじを感じる。そのとき伸びてきた高杉の手に坂田は胸倉をつかまれる。ぐっと引かれ襟ぐりが伸びる。え、そんなにコロッケ食いたかったの? そう言おうとして何ひとつ言葉にならなかった。咥内で弾けた油があまりに熱すぎたのだ。そうして火傷した呂律ごと、坂田の口は塞がれた。
一時停止。
映画を中途で止めたかのごとく。息も体も脳も、体内を巡る血すら。
瞬きも忘れ乾いていく坂田の目に、高杉の瞳の闇が広がった。宇宙に放り出されたように息ができず、そして無重力。地に足を着いているのかわからなくなった。唇を這うざらついた熱が生々しく擦れ合う。空気を求めた口の渇きを埋めるように入ってきた高杉の息が、自分の中でする。
「……」
そうしてまた遠ざかっていく宇宙が、本来の距離に戻る頃ようやく坂田は息を思い出した。それはいつも吸って吐く息だった。一人きりの息だった。今までもこれからも死ぬまで繰り返すその息を急に苦しく思い、坂田は高杉を見た。
「これが最後か?」
そう言って離れ、ソファに沈んだ高杉はテレビにリモコンを向けた。映画が動きだす。巻き戻そうが早送りしようが、そこにあるのは変わらない。同じことしか起きない。始まりも結末も。
坂田はコッペパンの切り込みにマスタードとマヨネーズを塗りたくり、千切りしたキャベツを敷き詰めた。そのふわふわのキャベツ布団にコロッケを押しつける。はみでた黄色を指ですくって舐めたら鼻に来た。涙目になりながら冷蔵庫から作りおきのシソジュースを取り出しコップに順にそそぎいれてから、坂田はシンクに手をついた。
「は?」
俯く髪がシンクに影を落とす。そこについた手は油と衣まみれだった。触れたコップにも、べたついた指紋が反射した。
「いや今の何」
顔をあげた坂田の目が彷徨う。高杉を探した。すぐに見つかった。近くにいるのだから、当たり前だった。もう探さなくてもいい。それなのに時々こうして何光年ぶりに見つけた気になった。
最後にコロッケパンを食べたのは。
最後にビワをしゃぶったのは。
最後にキスをしたのは。
最後に殴りあったのは。
最後に海を見たのは。
最後に触れたのは。
最後に泣いたのは。
「高杉。お前、最後にヤッたのいつ」
コロッケパンにかぶりつきながら坂田が聞いた。えぐそうなビワの皮を剥きながら高杉が「今日かもな」と答えるので、坂田は汚れた手を伸ばす。その手はビワごと高杉の手を覆い、さらに汚れ、ふいに坂田はそのとき最後に見た夢を思いだす。目が覚めたら必ず忘れてしまう夢を。どこまでもろくでなしと共に行く夢を。
2022.06.11/コロッケパン