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1.プリンシピオ:走る、明け方、神様







 それは雨粒より激しく駆けてきて、さびれた住宅街を踏み散らかした。
 水溜まりを蹴りあげる泥を顔面に浴びながら無様に走る。
 荒い犬みたいな息で銀時は走る。
 ここまで一度も振り返らなかったのは、当然ついてきていると思ったからだった。最後の直線の線路沿いまで来て、風に煽られるままテンションあがって振り向きざまに呼びかけた銀時の目には、真っ暗な夜道のみ伸びていた。誰もいない。思考ごと静止する。己の足が速すぎたかと遠く目を絞るが何もない。影すらない。呆然。むっと溢れる自ら放つ汗の蒸気に籠もる。ぐあーーーーー。声が出た。
 僅かな外灯に目が眩む。
 勝手に足が引き返す。
 ふらふら前の角まで戻る。いない。さらに前の角へ。いない。
 走ってきた道をそうして引き返す。走り出した地点まで引き返す。そこまで戻ってようやく見つけた二つの影に、銀時の眼は擦切れる。走るどころか歩いてすらいない。歩くどころか立ちどまって煙草をふかしている。それを見据える銀時の足元には水溜まりが闇を広げ、その水面を、汚く雨粒が跳ねあげる。
「てめーら……」と吐き出す声は嗄れていた。身を寄せ合っていた二つの顔が持ちあがり、そこから吐きこぼれた異なる匂いの紫煙が、銀時の視界を滲ます。
「どこまで走った?」
「線路」
 くくと笑って、燃え殻を揃って差し向けてくる。
「急に喚きながら走り出したお前、傑作だった」
「さみしくて、戻ってきたか?」
 その二つの影、高杉と土方にぐっと目を絞る。
「だれが、っ」ゲッホゴホカハッ。
 息切れるそこへ二人分の吸殻を受け入れた銀時の盛大な咳き込みが辺りに散った。
 その近くを轟音が通過する。
 走れば間に合ったはずの終電の光が、住宅の狭間を駆け抜ける。




 ようやく家が見えた時には、全身ずぶ濡れになっていた。
 歩き疲れてふらつく体の脇を、一台のバイクが過ぎて飛沫を起こす。その荷台に括りつけられた、ビニールのかぶった新聞の束に、もうそんな時間かと雨雲を仰ぐ。容赦ない雨の矢がぽかんと開いた咥内にまで降ってきて溺れそうになりながらクチャクチャ噛みしめる。配達員のかぶるカッパが風に膨らむ道に、遠く目を飛ばす。
 濡れた夜道を、だらだら歩きまわる間。
 踏板が崩れそうな住処の、蒸した階段をのぼる間。
 家の前でポケットをひるがえして鍵を探し回る間。
 その間中、噛み続けていた味のなくなったガムを銀時は掌に吐き出す。それを擦り合わせた指の腹の摩擦で揉みこみながら窓辺の高杉と土方を見比べる。やつらを交互に指さし、ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な、神様、の……とやる銀時の内に伝う。始まったからには終わるこの場所を、時間を、かなしく伝う目が笑う。垂れかかる汗を無造作にぬぐう。家のどこかがミシッと軋む。頭上にぶら下がる洗濯バサミの束がジャラジャラ揺れ回る。そこに干された下着に手を伸ばす高杉の、土方の、肩の隆起が見てわかる。それらハサミのばらついた振り子の下にいるやつらを、噛みしめた欠伸の膜に潤ませて接近する窓が、視界に雨を降らす。窓にはりつくやつらの肩口から真下の路地を覗きこむ。陰気に濡れた家・道・電柱。水溜まりを跳ねさす雨の線が、二階の窓から見おろす銀時の眼を刺す。汗臭い雨だ。ずっと体臭の中にいる気がする。雨の眼薬を浴びながら、神様の言う通り、どさくさに高杉の方の尻になすりつけるガムがびよんと伸びる。銀時の中を精子がよぎる。生死がよぎる。ふとした思考の狭間、そいつは命みたいに昏く銀時の中をよぎる。即効で高杉にバレたガムつきの指が捻り上げられ「折れる、折れる」と口走った。
「ちょっとバンジーガムしてみただけだろうがッ。ヒソカ知らねーのかお前」
「……。伸縮自在の愛か?」
 めちゃくちゃ知ってた。
 高杉の口から出た、愛の単語によろめき頭上のパンツを鷲掴んだ。
 つーか、その微妙な間は何だ。
 含み笑いで見てくる土方は、何が言いたい?
 もうやだ、こいつら。
 どっと疲れが溢れ、引っこ抜いた自身のパンツと共にその場に仰向けに寝っ転がって、しぶいてくる雨を浴びる。高杉と土方の、話す息を浴びる。そんな飛沫にまみれる今を、これまで見たどんな映画より忘れはしない。
「何見てる。視姦か?」
「神様でもいたか」
 やつらの頭上で回る黴臭いパンツが、そこから飛散する明け方の雫が、よくある赤子をあやすメリーのように、銀時の刹那を笑わせる。

2019.07.19/神様の言う通り