水を浴びたい。それ以外考えられない土方は、そのへんのあらゆる水気へ、眼球を巡らせるのが物騒だった。数秒置きに排水ダクトから垂れてくる雫、ただそれだけをピンボケさせ続けていた土方に、やがてパトカーの回転灯が血の色で射す。吸殻を落とすついで、虫の息で転がる体のひとつに目を遣った。裏返ったビールケースにかぶさる裂けた背中の、布地。
「あ、もう乗るスペースないでさァ。土方さんは歩いて帰る。オーケー?」
「オーケーじゃない」
 という返事を待たずして沖田の運転するパトカーは瞬く間の風になった。その赤い残滓を追って横に流れた土方の眼だけが、この場に置き去られた。だれもいなくなった虚空に向かい、「一応、怪我人」と、たくしあげた袖から擦り傷を覗かせた土方はアホらしくなり、血の池に浸っていた煙草の箱を拾って歩きだす。水を浴びたい。今、自分には一滴だってない気がするそれが、すれ違う酔いどれ達の眼にはある。眼球がちゃんとそこに浸れているから揺らいだり、光らせたりできる。水溜りなんてないのに光入り混じる足元は濡れて見え、唐突に、昔、女の手によって飲まされた一杯の水が土方の脳裏を伝った。雨上がりの逆光に、見あげた細い手首。そこに浮きでた血管の透ける薄青さを。切れた咥内に流れくる生ぬるい水は、ほとんど受けとめきれず端からこぼしていった。半端に溶かされた血の塊が、自分では届かないどこかで引っかかって、飲み込めない。死ぬほど乾いていながら、誰かに与えられる水をこぼしてしまうことがよくあった。これは生まれついて、そうなんだろうといよいよ支離滅裂な、土方の思考。光が絶えない町で、ひとりだけ砂漠にいる目つきの土方は、下品な煌きの中にようやく自販機を見つけた。棒立ち。上段から下段まで順に辿っていく視界には、売切の赤いランプばかりが滲み、意識は遠のきかける。何を見ても血に思えてきた。目を塞いでも入り込んでくるネオンでぐちゃぐちゃとしてきて光の届かないところへ行きたい。そうして閉じた視界の中で、光のない方へ逃げ続けた結果、闇でしかない空へと薄っすら開く土方の両目は彼方へ飛んで遠く、駅の高架を超えた。超えた空に、凝らしていくうち、夜に棒で立つ煙突を見つけ、ふっとよぎるもの。なぜか思いだすにはどうでもよすぎる男の苺パンツが浮かんだもので、よろめく。土方の足は、帰り道とは逆方向のそちらへ、ふらり踏みだした。人の浸かる湯で、汚れた苺パンツをゆすいでいた胸糞わるい顔。そのあとの死ぬかと思った、氷山入りの水風呂。こんなのでさえ、いつか懐かしい水の流れになることを、土方は知っている。
 ここから銭湯の煙突まで、まっすぐ直線に歩けばすぐにも着きそうな距離を、人の住む匂いが流れる家々や、足止める信号や、前を行く誰かの遅い足取りや、遠回しに何度も曲げさせられる道のせいで、たやすく着けやしない。水を浴びたい。それ以外考えられない土方は、近道に突っ切っていけそうな公園へ踏み入れた足を、水道の前で立ちどめる。飲めるツバもない。すがるように伸ばした手で、ざらりと触れた感触はひやりと冷たい。やけに固いそこを捻った。なにも、出てこなかった。回しても回しても錆びた音が嫌な響きで鳴くだけで、なにも出てこなかった。血がこびりついて見えたのは、よく見れば赤錆だった。諦め悪く指の一本を蛇口に突っ込んで暫く待つと、なにか濡れる雫を感じたので引いてみれば、それこそ血を薄めたみたいな一滴が、指の腹をツウ、と伝っていった。無駄に足元の砂を蹴り飛ばした土方は、舞い上がった砂埃の中、明らか不法投棄された粗大ゴミの山を今にも崩れそうと思う。屑入れがあるのに散乱している空き缶やペットボトルの、砂を転がる回転に、風の流れを見る。新たな一本に火を点けながら、なんとなく目をやった階段の上、ここまで奇跡的に見かけなかったコンビニの光が、ある。水の色だと思った。今まで、そのコンビニのカラーとしてしか見ていなかったそれが、はじめて水の色で、土方の中に入ってくる。捨てた吸殻を靴底で踏み潰し、コンビニへと歩みかけた土方はそこでふいに振り返った。滑り台もブランコもない。唯一そこにある土管っぽい遊具が目に入る。コーティングの剥がれたドーナツみたいだった。じっと見れば見るほど見失っていくような、何も見えなくなっていくような、暗い空洞。その内側の闇がもぞり動いた気がして、ひゅっと息を吸った土方は喉に水気のないせいで粘膜に直接触れた空気にゲエッホゲエホゲホッゲホはあ゛ッんッゲエエとなった。おさまってもまたすぐその繰り返しに、ぜえひゅうと虫の息でいる間、土方は絞っていないモップ……を連想する。屈んだことで穴の高さになった目線の先にいるソイツは最初、そうとしか見えなかった。ぼろぼろのモップ。一見白く見えて、ところどころ鈍くちらつく。その天パは灰にも銀にも見えた。
「万事屋」
 みそっかすみたいな声でそれを呼ぶと、またも穴の中でもぞりと動いたソイツはギリギリ落ちるか落ちないかの際で、首をこちらへのけぞらす。穴の中、窮屈そうに肘を折る。黒い半袖から伸びた肌色が、土管っぽい天井にざらり這った。曲げた片膝が、奥でゆらゆら動く。余った隙間から突き抜けてみえる向こう側の、蛍みたいな外灯の光。
「なァ この雨」
「雨?」
「やませろよ」
 濡れたくねー……
 土方の知っている、いつもの物ぐさな話しぶりでありながら言っていることが全然わからない。それでも反った首でこちらを見てくる目は、土方が逸らせない何かを帯びていて、降っている雨の線が、その一滴が、男の瞳の奥に見える気がしてくる。本当にここだけ、局地的に降ったとか?さっきから数秒おきにポタリ振っては砂の色を変える、男の濡れた髪を目にしながら、どこで降られた?と試しに聞いてみたところ、
「さっきそこの電柱で吐いてたらバケツひっくりかえしたみたいなんが突如として降ってきやがって、まるで俺を狙い撃ちしたみてェな雨に、パンツん中までビッチョビチョ……」
 土方はここまで来た道をそういえばと振り返って、外灯の向こうの電柱に焦点を絞った。結果、薄っすら見えてくるのは道端に落ちた青。ひっくりかえったバケツだった。
「……。うん。てめえだけ狙い撃ちされてるな。間違いなく」
 そんなことは聞いちゃいない男は、自らの髪から滴り落ちる一滴に反応しては、「まだ降ってやがる。お前も入れば」と普段ならありえない文句で土方の腕を引いた。こいつ相当酔ってやがんな、とブレる視界にようやく悟る。狭い穴に上半身だけ招き入れられた土方は、真下にある男の目と。銀時の目と交わった。やっぱりそこには、土方が逸らせない何かが、ある。顔を挟む形でついた手首を、なまぬるい熱に掴まれた。酒くさい息がかかる。
「濡れてんじゃねえか、テメェも」
 なにを言ってるんだと思う。こっちはたった一滴が手に入らずに歩き回っていたというのにどこが濡れてるって?と言いたい矢先、掴まれていた手首から這いあがってくる指先が、袖の隙間から侵入してきて忘れていた腕の擦り傷を雑に撫でられた。この男はいつだって、遠慮がない。肉を触られる痛みを走らせた土方のその顔を見あげながら、袖の中で、歩くみたいにトントンと下りていった指は抜け出して、親指と人差指を擦り合わせる。その擦り合わされた指の間から聞き洩らしそうなほどの、微かに湿り気を帯びた音がした。服のほうに飛沫いた他人の血は乾いていたが、自身の傷はまだだったらしいと腑に落ちながら土方は眼球の下で濡れて見える銀時の指を、べろり舐めた。気づいたら、そうしていた。完全なる無意識だった。
 ずっと欲しかった一滴に、見えたのだ。
「…………」
 ほんの一瞬、瞠った銀時の目に、今しがたの行為があとから土方の中に雪崩れてきて、いっそ死にたい沈黙が落ちた。違う、今のは。
「……喉が渇いてた」
 嘘はついていない。とはいえ理由になってない言い訳の端で、舐めたせいで薄赤くなった銀時の指から土方は目が離せない。血の色で浮いた、指紋。己の血が、銀時の肌色に移っただけの。己の血の一滴から、遅れて伝わる人肌に、欲しかったのはこんな単純なものだったのかと土方は思った。自分には一生ないものだと、思っていた。そして知りたかったのは、知りたいのは、他の誰でもなかった。今この男の肌に触れて初めて、それを知る。
「おい、いつまで見つめ合う体勢なわけ」
 次の瞬間、胸倉をつかまれた土方は「奥、行け」という声と一緒に為す術なく手を進ませてしまった。この瞬間をあらがって、穴から抜け出しておけばよかった。あるいは止まらず進んで、突き抜けた向こう側から出ていればよかった。大の男ふたりが収まるには無理がある。男の体のそばに無造作に転がる木刀、いちいち引っかかる自身の鞘、擦れ合う衣擦れを耳にしながら光の手前で、動かなくなった土方に、「これはこれで69の体勢……」と落とされる、そのいっそ死にたそうな掠れ声に、いっそ殺したい。雨の音がうるせー……とまだ酔いどれの幻聴あるいは幻覚にいるらしい男が愚かで、声を殺すように笑った土方は手探りで爪に引っかかった銀時のチャックを一気に下げる。風情もなにもあったものではなかった。嫌気が差すほどの偶然で繋がってきた自分たちは、この瞬間にも、伝える言葉がない。ずりさげた黒から覗く苺パンツの赤が、暗がりに訴えかけてくるバカさ加減と、「色々、雑……」かすれ声でもいちいち反響して届く声、がうるさく血の中を巡る。手のひらで確かめる、自分以外の血管から伝わる熱に、これは性の器と書くのだということを擦り合う皮膚の感覚で思う。あたまがどんどん空になっていく。遠く、届かない空を仰ぐみたいに。それに代わって、この場にあるものすべて拾おうとする体が、痛いぐらいの感覚になる。見つめ合う体勢は殴りたくなると言う言葉通り、至近距離に戻した顔に耐えている銀時の目は、土方を何度も瞬きで閉じこめる。土方の唇をなぞる性器は乾ききっていたが、指でひっぱりだされた舌に好き勝手、なすりつけては、瞬間の息を詰めたような小さいツで空気を震わし、やがて泣いてんのかと思う音を立てはじめた。涙を啜るように、性器を啜った。土方の乾いた唇を湿らせながら出入りする銀時の、終始無言で進めていた時間に、挿れてぇという息が降る。無意識だかなんだか、そう漏らしておきながら「入るのも入られんのもクソ痛ェと思うが、どうする」。土方の上顎の凹凸で動きをとめ、自分の形を教えるようにしておいて。ずっと出していなかったみたいに濃い精液、その一滴を伝わせながら、土方は銀時の目を見た。少ない一滴をなじませただけで殆ど乾いたままの指が土方の中に入ってくる。奥歯を擦った。こんなにも生々しく感じるものがあるのかと思った。なにげなく見てきたこの男の指が、爪の先にはじまって柔い皮膚で根元まで中にいる感触。熱い酒を飲むときの喉を流れて食道を落ちていくのがわかるあの瞬間にも似た、見えずとも存在しているモノを意識させられる。指一本で、ここまで暴かれる。広げられる。そこに何があるのかを教えられる。それが二本になり、三本になる頃には相手が銀時じゃなければ命がなかったほどの力で土方は暴れていた。暴れているのだが、それらすべてを抑えこむ銀時の片手によって内に溜まっていくばかりだった。知識では知っていても、体では知らなかった。ここまでのよわさとも知らなかった。その指の動きで、確かめられていると思った。この体の、どこまで触れられるのか。土方のどこまで、触れていいのか。お前はそれを、どこまで許す?言葉ではないもので伝わってくるその問いかけが、次第に波をもって小刻みになっていく。それでも決して欲しいとは口にしない土方を、銀時はかなしいぐらい、知っていた。自分たちには、それがない。ないということだけわかっている。銀時も土方も。それを、生まれついてのさみしさで知っている。指を抜き、無言で土方の中に入る。唇を噛み千切ってもいいつもりで抑えたのに人生で出したことのない声がどちらからも漏れた。痛みしかなくて笑ってしまう。息吐け。吐けねえ。じゃあ吸え。吸えねえ。それじゃあ死んでんじゃねえか。と銀時も笑った。間近で見たその顔に、そんなふうに滲む痛みなんて、見たことがない。

 ないはずの雨音が、聞こえた気がした。







 深夜のコンビニ、やる気が皆無の店員に傘ないですかと聞いてみた。何言ってんだコイツって目で見られ、あれだけ買いたかった水の存在も忘れて自動ドアを出た土方は澄んだ夜空を仰ぎながら、やまねーなと思いつつ公園まで戻った。まだ土管から出てこない銀時を覗きこみ、ひっぱりだそうとしても木刀を抱えたまま微動だにしない重さに、ここまで濡れるのを嫌がるとは天パは湿ったら爆発でもすんのか?と考えながらダメ元で屑入れの中を探っていたらビニール傘が一本発掘された。広げたら二、三本の骨が折れていたが使えないことはない。それを銀時に渡して、よかったなと言うとお前が使えと言って受け取らない。
「俺はいい」
「風邪ひくぞ。すでに鼻声じゃねーか」
「……濡れたい気分なんだよ」
「何、その月9みたいな台詞」
 うるっせえ。いいからそれ差してとっとと帰れと土方から押しつけられたそれを何か命綱みたいに握りしめた銀時はそのまま土管から這い出てきて、傘を広げると土方の腕を引いて歩きはじめた。折れた骨が、土方の頭に刺さる。
「じゃ、あそこの高架下まで送って」
 元々そこへ向かって歩いていたんだったと思いだした。ここからまだ随分ある。さっき下りたばかりの階段をまた上らされ、傘の置いていなかった水の色のコンビニを過ぎる。コインパーキングの看板も水の色で、揺蕩っていた。静まり返った住宅街の中を歩く間、明かりの点いている窓を数えたりして、あの家まだ起きてんぞという銀時に、いや逆に今起きたんじゃねえのか、もうじき明けると言って土方は黙った。銀時も黙った。そこからは一言も交わさなかった。廃れ気味のアーケードの中でも傘は差し続けた。目の端を過ぎていくシャッターと、目の端で動かない銀時に、並んで歩く今が刻まれる。たまにすれ違う夜の住人が、こちらの頭上の傘を見ては、え?という顔で空を見た。銀時と土方には、自分たち以外のすべてのものが濡れて見えた。重なり合った足音がアーケードを抜けた先、さっき上ったと思ったらまた下りなければならない階段が現れ、酔っ払いにも年寄りにも優しくない。真ん中にある手すりを挟んで差された傘は、のろかった。見おろす先に点で存在しているマンホールに降り立つまで、本当に動いているのかと思うほど時間がとまって見えるほど、のろかった。サイレント映画の長回しのような時間を終え、離れていたふたりの肩が、手すりが途切れたことでまた傘の下に戻る。顔をあげずとも、目と鼻の先に高架があるのが、わかった。
「…………」
 黙りこくったまま高架下まで来て、目を合わした瞬間に落ちる闇。明ける前の最後の闇が、互いに落ちる寸前まで見ていた顔だけ、残像で焼きつく。
 見えずともそこにいるのが伝わるのと同じくらい、土方の暗闇に伝う雫があった。たった一滴。そこには銀時がいる。銀時だけが、いる。
「泣いてんのか」
 土方の声に揺れる空気。遅れて、は?と肌にかかる息はまだ酒くさく、どこまでも乾いていて土方はふとこいつは毎日泣いているんじゃないかと思った 今日まで生きてきた日々の死んだ目で一滴も流すことなく毎日毎日泣いてきたんじゃないかと思った
 その一滴が伝うのを見えた気がした。
 こんな交わり方は、最初で最後とわかる自分たちには。
 一生分になるかもしれない一滴を、指先ですくう。ふわりと舞いあがる傘。裏返って落ちた足元のそれを、拾おうとする手はない。乾いた目尻から、たしかにすくわれた一滴が、銀時と土方を雫でぼかす。ふたりだけの高架下。今日最初の頭上を走っていく轟音に、闇が薄らいでいく。肩に置く手に架かった、虹の輪が眩しい。

2018.01.13/生涯に一滴