自分を殺したいと星の数ほど思ってきたが今は心底かぶき町の夜空に刺し貫かれたかった。数歩先を行く男の、めくれては吸いつく着流しのすそばかりを映しているグラサンをぐしゃぐしゃにしたかった。
今、俺は死にたい。
死ぬなら今だ。
何度も立ち尽くしたビルの屋上からの喉を血で潰す景色、それが今は眼前の、ひとりの男に集まって俺の中の何かを痛く焼け焦がす。
やがて二軒目いく?みたいな軽さで振り返った男の、足元だけを相変わらず追っていた俺は、ひゅ、と肺で息した。これまで特段まじまじと見てこなかった着流しの渦が水色でゆれて目が泳ぐ。夏に働いたプールでずっと瞳にゆらしてた、うすい水色が、急に溺れる色になってちらついた。あのとき足のつく水中で溺れるわけもなかったのに腕をとられていた俺はいつものくだらねえ下ネタに笑うふりをして逃げたのだ。水滴を吸った銀色がちかくで捨て犬のように振れたのが飛沫で見えた。だれの目も届かない夜はこの手にすがったくせに、俺は、
「んな握りしめてねェで嵌めたら」
いつのまにか間近にいる存在に、は、と心臓をひっぱられた気になって、おそるおそるあげたグラサン越しはいつもの男の気だるい空気だった。言われてはじめて質屋を出てから握りっぱなしだった拳を見る、糊でもひっついてんのか?というほどそこは頑なだった、それなのに男によっていともあっさりと開かされた、「いや、いいよ、……」という抵抗虚しく、催眠を解かれるみたいな、よわい力で。
「ほれ、薬指」
言い訳じみたことが口から次々とこぼれでた。悪い、必ず金は返す、利子分もちゃんとつける、なんなら証文も書くから、と口だけを動かし続けるのを鼻で笑って、「いつも借りパクなくせによく言う」、左手をなぞる硬い指の感触に俺は泣きたくなった。ゼロの数が違うだろ。そんなろくでもないことしか言えない俺の薬指に嵌められていくプラチナが冷たく、ぞくっと背骨にまで駆け抜ける。
「つーかこれアレだな、今は俺が買い取ったわけだから、俺のんじゃね?」
触れているのは手だけなのにぜんぶ触られている気がするのは、なんでだ。そんな問いかけに答えてくれるものがあるわけもなく、ただそれが根本までゆっくりと来るのに、永遠の愛を誓ったあの日を重ねていた。最悪だと思った。今、俺達が立ちどまっているここは、何度も距離を詰めた分かれ道で、思考を潰して曲がる角には誰の目も届かない安い空間がある。最悪だった。ほんとうに。
「さて帰るか」
交わっていた熱がすんなり離れていったことに、俺は顔をあげてしまった。
あれだけ合わさないようにしていた視線がぶつかる。
そのとき俺の心臓はよじれたと思う。でも、それよりも目の前の男のほうがずっとよじれていた、これは俺が逃げたあのとき、すぐそばにあったものだとわかった、溺れるわけもない足のつくプールで感じていた視線、俺を見ていた目
「銀さ、」
噛みつくように戻ってきた熱が俺の酸素を奪った。
吸われてめくれた唇が火を移されたみたいになって足を半歩ひく、一度入ることををゆるしてしまった舌を追い出すこともできずに口内で溺れさす。このバカでさみしい男の匂いを流しこまれる。どう聞いても萎えるよなと思う、くぐもった低音を鳴らす喉で、届かない何かが孤独になった。
最後に表皮を辿るようになぞっていった糸が切れる。
「安心してんじゃねえよ」
急にフィルターを無くした視界が、男の顔に滲んだ。
あ……という声から遠ざかる、指にひっかけられたグラサンが夜にブレて、
じゃあな、これは担保でもらってくわ、
俺をふちどっていた形あるものを崩して、ぬるい風で去っていく。それをひきとめようと伸びた腕が、どこにもかすることなく宙に残された。ひきとめて何を言うんだ、いったい、何を
ひろげた左手薬指を見る。手放したのは、たった一日。
そこに集まっている鈍い光はかつての俺の人生だった。
2016.11.27/たった一日