メーターが100を振り切った頃に雨に追いつかれ、ワイパーでは捌ききれない飛沫で視界は0メートルになった。走行車線もかすむ中で、前方に見える薄っすらとした尾灯だけを頼りにアクセルを踏み続け、油断すれば落ちていこうとするまぶたを数秒おきに跳ねさす。ハンドルを握る指先が異常に冷たく、途中で血がとまっているかのように感覚がなかった。マジで運転かわってくれと吐きだす無意味な懇願が独り言になって、フロントガラスにかかる水飛沫に笑われる。
「おい寝てんじゃねェよ!!」
 豪雨に負けぬ声を腹から出したせいで激しく咳き込み、運転が揺れた。うるせえ響く……と身じろいだ助手席の男が、身体を縛るシートベルトを鬱陶しげにひっぱった。追い越していったトラックが浴びせていく飛沫に一瞬顔を濡らされた気がして、うお、と漏らした男が、なんだこれと呟くしかないほどのゲリラである。
「それもヤベェがもっとヤベェことがある」
 薄暗い中で拾うその声は珍しく切羽詰っていた。だるい頭の向きを変えてまで運転席に目を走らせれば、今にもスリップしそうな目つきで前を見据える横顔があった。そのとき本当にここで死ぬかもしれないと胸をよぎったその予兆めいたざわつきに、どこからともなく笑いがこみあげていると、
「そこでお前に一生の頼みがあんだけど」
 ハンドルを握る男の横顔に走っていくオレンジの光を見た。
 一生の頼み。という響きからはろくでもない匂いしかしなかったが、「時間がねェ。後ろのどっかに転がってるはずだから取ってくれ早く」と凄まじい剣幕で唾を飛ばしてくるそれに、なんなんだと舌打ち、脇腹をおさえながら首をよじると、後続車がいるのかどうかもわからない雨あられがガラスを殴りつけているのが見える。あれからどのくらいの時が経過したのかも、執拗に張りついて離れなかったメルセデスをうまく撒けたのかどうかもわからなかった。
 急かされるままに伸ばした腕で後部の暗闇を探る。
 よじれた内臓からじくじくと染みだす痛みに息が荒くなっていく。
 異常なほど眼が眩しかった。深夜で雨で僅かな照明灯しかないはずなのにこれはなんだと思う。開けていようが閉じていようが同じだった。死ぬほど眩しい。
 やがて彷徨わせていた爪先に当たった。想像よりも手にあまるそれを掴みとってすぐ、他にはないその歪なかたちに、「なんだこれ」脇腹をおさえながら呟いた。
「あァ、あったか尿瓶。じゃあ俺のチャックおろせ」
 ばきっと握りつぶしたそこにヒビが走るのと同時、変わらず前を見据えたままの男と一瞬目が合った気がしたが、この雨でそんなことをしたら死ぬ。
「今テメェの命握ってんの俺だから。ちょっとでも余所見したら仲良く心中だぞ。それが嫌なら早くしてくんない。正直もうずっと我慢しててヤベェ、モタモタすんな。ほぼ毎日、見たりしゃぶったりしてんだろうが」
 なんてことをぬかすその口に対して、ここを抜けたら舌も下も噛みちぎってやる。と思いながら
「……それが一生の頼みでいいんだな」と歯のすきまから漏らした声は震えていた。
 男のチャックに手を伸ばす。その僅かに上、赤く濡れたシャツが、走っていく明滅にあわせて浮かびあがるのをじっと見た。脇腹から離した手で握る尿瓶にもべったりと同じ赤がついていた。さらにアクセルが踏みこまれて加速した車を、どこまでも雨が追いかけてくる。男の笑い声。「漏れずに済んだ」タイヤがスリップする音がした。

2016.08.31/一生の頼み