血の雫が地面に落ちる。もう海は近いはずだった。
 潮騒以外の音がしない。電柱に手をついた土方は、血と一緒に意識も落ちかかっていた。土方は今電柱についている手が足で、地面についている足が手だと思った。血が足りていない頭は既に半分夢に浸かっていた。
 そんな土方の背後に、犬は来た。
 あてどもなく彷徨っていた犬はふいに足をとめ、血生臭い人間の土方を見た。電柱まで点々と続く血の跡に鼻を寄せ、ひくひくと嗅ぐ。みすぼらしく垂れた尻尾が地面を擦った。犬は電柱と土方の周囲をぐるぐる彷徨いたのち、片足を高く上げた。鼻をつくアンモニア臭がした。土方は目を開けた。尿の匂いで、夢から醒めた。現実の痛みが戻ってくる。抉るような痛み。実際、えぐられたのだった。血を流しすぎた体は寒気がした。身じろぐたび滲み出る血が指の間からまたひとつ雫をこぼす。地面に滴るはずだったそれを犬の舌がすくった。
 土方は犬を見た。犬の目に土方がいた。ああ野良かと土方は思い、湿っぽくざらついた熱の舌や、元の色がわからないほど泥や埃がこびりついた毛並みや、乾き切った鼻先が血まみれのこの手を欲しがっている気がし、絡まりあったそこに手を差し入れる。弱まる犬の目のふちに溜まったヤニが涙の跡のようだった。
 犬はその場にへたりこんだ。土方も一緒になってへたりこんだ。地面は土方を拒まなかった。そうすると何故今まで必死に立っていたのかわからなくなった。横たわった土方の視界は空になった。血が出ていくのを止める術もなく、犬の腹に敷かれた手が生ぬるく痺れていく。掌に犬の心臓が乗っている。その鼓動がする。何もなく彷徨っていた犬の、ただここにある鼓動。土方には何もない。分けてやれるものが何もない土方といたところで、渇いていくだけだった。共に寝る意味なんてない犬の腹に、手を敷かれたまま土方は、こうして意味なく寝たことが前にもあったと思う。いつからか土方の浅瀬をゆらゆら漂うその男は、届きそうで掴めず、死んでいるようで生きていて、触れてみたら痛かった。寝てみてわかったのは、それぐらいだった。
 星の瞬きに見おろされながら土方はみるみる血の感覚を無くしていく。犬に敷かれているはずの手が、どこかに行ってしまった。手の次にいくのは、体のどこなのか。狭まっていく空に星が滲み、土方は意識を飛ばす。しかし痛みが走って一瞬で戻った。その痛みは、どこかに行ったはずの手に走った。
 鈍い視界を横にずらした土方はその手に噛みついている犬を薄ら見た。どこかに飛んでいった物を走って拾ってきたかのような犬の眼差し。振り解こうとしても、噛みついて離れない。宙に浮かしたところで犬ごと宙ぶらりんになった。土方の意識も宙ぶらりんだった。土方は犬を見た。犬も土方を見ていた。どこかでそそがれたことのある光の気がして、噛みつかれたままの手をついてくる犬ごとズルズル持ちあげる。そうして毛布代わりにした犬をそっと抱いた。犬の毛に鼻を埋める。犬の咥内の、指で感じる粘膜や歯が泥濘のようだった。この牙は土方を殺せる。
 死んだら食うつもりだろうか。
 この犬の空腹を満たせるだろうかと思いはじめたとき、かたくなだった犬の口はあっさり開き、手が土方に返される。よだれまみれで返されたその手には歯形が散っていて何かの星座のようにも見える。その星の跡を今度はベロベロ舐めてくる。そこにこびりつく血をこそぐようなザラザラした犬の舌。それはかつて土方の肌を吸った男の舌そのものだった。
 手を差し入れている毛も、頬にかかる熱の息もまるでそうだった。土方はその鼓動を感じた。感じるのは、あの男の心臓だった。
 いよいよ幻覚がはじまった。もっとマシな幻はないのかと思う土方の腕の中で、みるみる犬の輪郭が骨ばっていく。肌を這う舌は縮み、耳は人のそれに形を変え、増す重みに潰されていく土方の腕の中の犬が犬でなくなっていく。
「あ、戻った」犬が言った。
 人語を喋った。末期といえる幻聴に、幻聴とはこんなにうるさいものなのかと土方は舌打った。べらべらと話し出すその声は夜な夜な吠えたくる犬のようだった。いや犬だよな?
「朝目覚めたら犬になってたんだよ。カフカの変身かっつう。まー虫じゃないだけマシか? とにかくおかげでチキンもケーキも食い損ねて、せっかくのクリスマスがパァだよパァ。腹は減るわ吹雪きだすわ、だんだん人間の感覚忘れていくわ…もうちょっとでマジの犬になるとこだった…危ねえ危ねえ」
 散々舐めまくっておいて、そこで初めて土方の血に気がついたとでもいうように、「で、なんでお前は死にかけてんの?」と首を傾ぐ。その口についた血と、唯一残った尻尾をつっこんでやりたいが壊滅的に血が足りない。
「おーい寝るな、死にてーのか? いや待て、俺の方が死なないコレ? マッパなんだけど? 奥歯ガタガタゆってんだけど? 凍死する…社会的にも死ぬ…つーか、ここどこ?」
「うみ……」
「うみ?」
 搾りカスのような土方のその声を拾って、周囲を見渡すが海なんてどこにもない。
 そう告げると土方は、犬にするようにこちらの頭を撫で、アアなんだ潮騒じゃなく血潮だったのかと言ってプッツリ意識を絶った。

2022.12.25/犬