お題箱:沖田と新八
蕎麦は人間に戻れる飲み物だった。ひときわ汚らしく啜り上げる沖田の、口角から垂れた蕎麦がちぎれて落ちた。その蕎麦屋の前を、沖田を探して徘徊する土方が通過した。やつが過ぎた風に、はためく暖簾が影をさす。直後、窓を弾く雫があった。雨がぱらつきはじめたらしかった。そんな雨と一緒に入ってくる客がいた。目をひく見馴れた白髪男が入口に飛沫を散らす。大江戸マートと印字されたレジ袋からポタポタ滴る雫がその足下に水溜まりをつくった。次いで暖簾をくぐってきた連れのメガネが店内のじめった空気に曇って、「垂れてますって」と男の持つレジ袋の底を掌全体で持ちあげた。一拍ずれて、男が足元に目を落とす。底をもちあげた若い手の、指の股を伝って垂れ落ちる雫をじっと見て「手ェ洗う手間、省けたじゃねェか」。いやここに入ってんのアンタの使用済タオルですよね。あん?汚ぇって言いてェのか! そんなやつらの間で飛び交うツバの飛沫を沖田は見ていた。浴びせられた飛沫を、うわ汚ッ…と指でぬぐうメガネのレンズに唾液の線がツウと伝う。やつらをふちどる反射が、まるで水溜りだと沖田は思い、前の客がこぼしたまま放置されたテーブルの水溜りを指ですくった。先刻まで沖田も、そんな水溜りに立っていた。正確には血溜りだった。血を振り払って持ちあげた靴下からボタボタ落ちた。その靴下は脱ぎ捨ててきた。べちゃっといった。真っ赤な畳。血は重い。
「席ねェな」
入口に立つ、やつらの眼が、空席を探して店内を見回す。
「いや空いてますよ、アッチとソッチ」
ソッチ、と差してくる指の先に焦点をぼかされながら蕎麦をずるっと吸いこんだ沖田は、「ゲ、」そんなわかりやすい一文字を発してこちらの存在を認識した二人に向かって手を振った。振り返してはこないヤツらの手は代わりにグーとかチョキとかパーに変化して「あいこで」の叫びを執拗に繰り返した末、勝敗を決したのか、アッチとソッチのテーブルに分かれて歩きだす。沖田のいるテーブルにやって来たのはメガネの方だった。隣、いいですか。という息で曇る眼の鏡を、波紋のように思いながら沖田は「敗者?」と聞いた。席は詰めてやらなかった。わずかしかない狭いスペースに割り込んできた足が、存外図々しく沖田を動かしにかかりながら「いやいや勝者ですよモチロン…」棒読みで答えた。銀さんジャンケン弱いですし。と言いながら品書きを手にする顔は、うっすら濡れていた。擦れ合う肩から、雨に降られた人間の匂いがした。最後の蕎麦をたぐる。残ったつゆにワサビを溶かしてゴクゴク飲んだ。
「痛そうですね」
交差した箸の隙間で、眼が合った。曇りが晴れてふいに透けたレンズの、奥の目が、沖田にそそがれている。沖田は、ああ…と瞬く。シャツの袖に点々と散る、返り血を思いだした。肘まで袖をめくりあげているせいで、それが、あらわになっていた。
「俺の血じゃねェ」
「いや沖田さんがですよ」
即、跳ね返ってきたそれに、沖田の膝が卓を蹴った。裸足で履く靴が気持ち悪かった。その不快さが突如こみあげ、膝を跳ねさした。その振動で散った雫が、品書きの紙を滲ませていく。構わず蕎麦を選ぶメガネは、品書きに目を落としたまま、ただ指を一本突き出す。それはすっと、沖田を差した。
「痛そうです」
もう一度、言われた。差してくる指の先に焦点をぼかされながら「人を指差すな、って習わなかったか?」自分に向けられたその指を、沖田は掴んだ。ああ、こりゃまた随分とぬくい、人差指だ。人を差す、指だ。
2018.12.21/人を差す指