坂本には、坂田が遠く感ぜられた。坂田は坂本の近くでなにかしら動いたり物を呟いたりしていたが、その全てが何処となく曖昧に見えた。ごく日常的な会話をしては、これが最期のものになるような気がして坂本は時折坂田の目を見据える。坂田はそんなとき大抵、指についた握り飯の粒を舐め取ったり暖を取る際の爆ぜた炎を見つめたりしていた。坂田の目に映るものが現実のものと思えず、坂本は空腹のため干した喉を鳴らしながら空を眺めた。記憶にある空は殆どが夜のものであった。瞬きの狭間に朧に届く月光が坂本の瞼裏を白く染めあげた。
 空が白みはじめる頃、天人の乗った船が自分たちを捜し求めて浮遊する。坂本は堪えきれず坂田を見る。坂田が消え入りそうな光をその目に散らしながら空を見上げている。また朝だ。坂田の呟きは途方もなく坂本の鼓膜を震わせた。志士達が刀を抜いていく。
 夜がきた。その夜は予想を遥かに凌駕する寒さであった。じっとしていたら凍りつきそうな肌を擦り合わせて、掻き集めた枝木が燻り朽ちていくのを眺めた。青を含んだ炎を見つめていると目の前が眩み、瞬きすら忘れそうになった。ぱちぱちと音を鳴らして崩れ落ちるのに坂本が食い入っていると、坂田がそれに小石を投げ入れた。坂本は坂田を見た。坂田は顔をぐしゃりと崩す。黄ばんだ歯を見せて、さっびいな、と笑った。その汚れた歯の隙間から白い息が溢れた。そのとき風が強く吹く。炎が大きく揺らぎ、飛び火が坂本の衣服を焦がした。そして、眠りに就いた。
 浅い眠りを繰り返していると、おかしな夢をみた。宇宙に放り出され、ぷかぷかと浮く自分を坂田が見ている。坂田は地球に垂直に立っていて、手をひらりと振っている。坂田に近付こうにも一向に近付けず、宇宙の広さを嘆く。坂田が何かを叫んでいる。聞き取れないまま宇宙を泳ぐ。届いてほしいと、手を伸ばす。
 雨音に起こされた。身体を震わせ、鼻から空気を吸い込むと湿気交じりの匂いが肺を満たした。上半身を起こして周囲を窺うと薄闇の中で方々に寝転がる志士達の姿が見える。ふいに隣に目をやると、光る坂田の目とかち合った。 ぎょっとして坂本は思わず声をあげた。シ、と坂田が人差指を唇にあてる。眠れんがか。跳ねた心音を抑えつつ小声で問うと、坂田はそれには答えず身体を起こし小屋から出て行った。坂本はそれを暫し呆然と見送ってから、自身もまた後を追った。転がる志士達の隙間に足をおろしながら外を見ると、細雨が降っている。先に出た坂田の肩が濡れるのがわかった。土は既に泥濘み、水溜りが幾つも出来ている。
 坂田は小屋の壁に凭れ、煙草を吸い出した。薄汚れたフィルター部分に歯を立てているのが見える。坂田の癖だった。今、いつだっけ。坂田が坂本を横目で見た。煙草の先端から灰がぼとりと落ちていった。いつって。何月? 坂本は首を傾げた。はて、何月ろうか。暦なぞ、此処暫く見ていないことに気付く。……たぶん俺はもうすぐ春だと思うんだけど。坂田が煙を吐き出す。春? 坂本は目を見開いた。こがあに、ひやいのに。なんとなくだよ、と坂田は笑う。ほんならこりゃあ春の雨か。坂本も笑い、降り続ける雨を見る。突如、胸に迫るものがあった。坂本はそれをごまかすように坂田を見た。坂田の唇から短くなった煙草が落ち、水溜りに沈む。坂田はこぼしたそれを見おろした。最後の一本だったのにな。坂田はそう言って髪を掻き毟った。衝動的に坂本はその腕を掴んだ。坂田が驚いて坂本を見る。何、どしたの。濡れた坂田の腕は予想以上に冷たく、坂本は目を伏せた。
 声を出そうとして、喉が震える。坂本の熱が坂田に伝わったのか徐々にその腕に血が通ってきているようだった。銀時。名を呼ぶ声が掠れている。坂本は目を伏せたままその名を溢れさした。銀時。涙の膜が視界に浮かぶのを感じた。後の言葉が続かず、泥濘んだ地面ばかりを見る。坂田が坂本に掴まれたままの腕をゆたりとおろした。辰馬。坂田が息を吐き出して笑う。……おまえも行っちまうんだろ。雨音でよく聞き取れず坂本は顔を上げた。坂田から手を離す。右腕で目尻を拭った。坂田が空に向けて指差す。つられて坂本も見た。滲む視界に雨が降ってくる。坂田の横顔を坂本は見つめた。その虹彩が雨を映して光を放つ。坂本の視界は滲んだまま、耳朶に雨音ばかりがこもる。坂田の目尻に涙のような雨垂れが溜まっているのを、坂本は見た。……やっぱ春の雨だよ。坂田が歯をみせて笑う。

 随分後に、あの夜が春に程遠い冬の日であったことを知った。本物の宇宙に触れてから、あの頃は夢のようなものだったと坂本は思った。自分たちは春を夢見ていたのだった。もし坂田に自分があの春を浴びせることができたなら、死んでもよかった。地球の青を見おろして、聞き取れなかった坂田の叫びに手を伸ばす。然為れば坂本は宇宙の果てで、笑ってゆける。なにもかも、飛び越えてゆける。

2011.04.24/春の頃