坂田の箸によって、ぶり大根が四等分に切りとられていく。少し箸をいれただけで柔らかな大根はとろけるように崩れおちる。切りとったひとつを坂田は口に運び、二三回もごもごと動かした後すぐに飲み込む気配がした。坂田の持つ箸の先が濡れて光っている。同じようにその唇も濡れて光っている。切りとられた四分の一に長谷川も箸先を伸ばした。強く挟むとそれは瞬く間に崩れてしまう。
 眉間の皺を軽く揉みながら長谷川は酒を嘗める。安酒独特の雑多な味が舌のうえを滑っていき、喉を通っていくのがわかる。サングラスのせいで何を見ても味気の無いものに映るのには慣れてしまった。がぶがぶと酒を呷っている坂田と目が合う。完全に目が据わっている。如何していいものかわからず、長谷川はそのまま視線を下にずらす。酒を飲み干す坂田の喉仏が上下する。再び眉間の皺を揉む。
 小便、と云って坂田が席を立つ。カウンターに突いた坂田の手首に血管が青く浮きあがる。坂田が厠の向こうに消えてから、長谷川は初めて店内にいるのが自分たちだけであることに気付いた。壁に掛けられてある時計に目をやると、それほど遅い時間というわけでもない。これ動いてる? 店の主人に訊ねると、動いてるよとの返答。そのとき外で物凄い音がした。思わず長谷川が肩を強張らせ戸外に視線を走らせると、何か看板らしき板状のものが吹き流れていくのが見えた。その直後にビニルの残骸や傘の骨だけになったのが飛んでいくのも見えた。低気圧が接近してるんですってよ。主人がそう寄越してくる。そろそろ引き揚げないとお客さんたちも帰れなくなっちゃいますよ。外に見える木が横倒しになっているのを見ていると坂田が戻ってくる。ああ気持ち悪。胃液まで全部出たわ、とぶつぶつこぼしながら椅子を引く。銀さん、外やべえよ。長谷川の声と同時、主人が店のラジオをつけた。『……低気圧が本州付近を発達しながら北上中。江戸では今夜から翌朝にかけて非常に強い風と激しい雨が予想されます。無理な外出は控え…』雑音と共に漏れ出てきた情報に長谷川は耳を傾け、外の様子を窺う。立て付けの悪い店の引戸ががたがたと振動するのに合わせ、轟轟という風の音が耳朶を叩いた。……さすが結野アナだな。そのとき坂田が掠れた声で呟いた。昨日からの予想ピカイチ。……昨日? 長谷川は目を見張った。知ってたのか、と思う。知っていて珍しく坂田の方から誘ってきたのか、と思う。銀さん。長谷川の声も掠れていた。そろそろ引き揚げねえとマジで戻れなくなるから。外を吹き荒ぶ風の音を聞いている。坂田が長谷川を見た。ああ、別に。ああ別に? 長谷川は脳内で坂田の返答を繰り返す。きょう新八きてるしアイツらには言ってあるし、朝まででも俺は別に。ひゅ、と長谷川の喉が鳴った。あの子らに何を言ってあるんだ、と少しずれたことを考える。……長谷川さんは。あんたは何処に帰んの。こいつはこういう奴だったということを長谷川は思い出した。 酔いが身体中を巡るのを感じている。
 半ば強引に坂田を引き摺るようにして飲み屋を出た。途端、容赦なく作務衣の裾が風に奪われ引き剥がされそうになる。はためくのを手で押さえ、長谷川は坂田の腕を引き寄せる。簡単に此方によろめいた坂田に逆に驚かされてしまう。万事屋、と口のなかで呟いた。とにかくこいつを其処に帰さねえと、と思う。前方からビラが飛んで来、長谷川の顔面に張りつく。次々と何かしらが飛んでくるのを手で避けながら坂田を振り向くが、風が強すぎて表情がよく見えない。名前を呼んだ。長谷川のサングラスの外側で唯一、坂田の巻きあがる髪の色だけが際立って見える。その隙間から坂田の据わった眼光が覗いた気がし、長谷川は進むことが出来なくなった。立っているのがやっとだった。唾を飲み込む音がする。
 予報通り天候はますます荒れたものとなり、ついには雨粒が落ちてきた。それは手の甲に当たったかと思うと、あっという間に町全体を飲み込んでしまった。最早歩くことも困難となり、その場凌ぎとして公衆電話ボックスに揉みくたとなって二人は逃げ込んだ。逃げ込んだのはいいものの、本当に一歩も動けなくなってしまったことに長谷川は途方に暮れた。このボックス自体が風で揺さぶられ続けているし、雨は酷くなる一方だった。透明のガラスに雨が打ちつけ、赤い屋根が今にも剥がれていきそうに浮いたり沈んだりを繰り返していた。長谷川は声を出す気にもなれず、坂田は黙したままだったので沈黙が続いた。雨風の音だけに意識を沈ませていった。
 ……今って冬? えっ、頓狂な声をあげてしまった。長谷川は喉を鳴らしてから改めて坂田を見る。予想以上に近い距離で坂田と視線がぶつかり、再び奇声をあげそうになる。え、えっと何て? 今、冬かって。 ああ、えーと冬、いや春だと思うけど。一瞬、坂田の眼球が揺れた気がした。なにか可笑しなことを云ったかと思い、長谷川は口を開く。いやだって彼岸ももう終わるし、あれ明日で終わりだっけ。ぶつぶつ長谷川が呟いていると、突如坂田が公衆電話の受話器を持ちあげた。悪ぃ、ちょっと電話。えっ誰に。長谷川の問いかけには答えず、坂田は懐から小銭を取り出し投入口に落としていく。そのとき、ボックスの外が赤く光った。反射的に長谷川が首をあげると、縦に稲妻が空を裂いていくのが見えた。その直後、鼓膜を突き破るほどの轟音が公衆電話の箱を揺らした。さすがに尻込みしてしまって、長谷川は暫し呆然とする。い、今のやばいんじゃ。振り向くと、坂田が受話器を持ったままボックスの外を見ている。雨が、一層激しくなる。地面を打ちつける音が耳朶を覆う。……増えてくばっかだな。坂田がふと笑う。増えてくばっかで一向に減りやしねえ。雨のことを云っているのではないと、思った。


 慣れぬ喪服を身に纏い、後列に交じって墓地までの道を歩いた。降り積もった雪に太陽が燦燦と降りそそぎ、それが長谷川の瞼を焼いた。空が途方もなく青かった。雪が溶け落ちる、どしゃりという音が偶に聞こえてくる。先頭には死者の骨壷を抱える縁者がゆっくりと歩いている。酷く、痩せ細っているように見えた。彼女の首筋に光が当たり、その光が彼女を殺してしまいそうに見えた。簡単に彼女の細い首をへし折ってしまいそうに見えた。戦場で拾われた誰のものかもわからぬ遺骨を抱え、葬列は進む。其処には白と青しかない。白と、青と。此岸と、彼岸と。
 増えていくばかりで、減りはしない。あのとき長谷川はそう思ったのだった。生きていく限り、彼女の重みは減りはしない。話したいことも伝えたいことも見せたいものも、あちら側には届かない。増えていくばかりなのだと。減ることはないのだと。彼女の首筋を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
 今、同じようなことを目の前で坂田が云う。坂田の雨で濡れた首筋を長谷川は見つめている。小銭を入れたままの公衆電話の受話器から発信音が漏れている。狭い箱の中、坂田の息遣いがはっきりと感じ取れる。肩と肩が触れている。坂田の人差指の腹がボタンに触れたまま動かない。電話、と長谷川は思わずこぼした。電話、するんだろ。坂田の瞳に虹彩が散って見えた。いや。坂田が受話器を置く。よく考えたら番号わかんねえや。はは、と坂田が笑う。相当酔ってんなこりゃ。坂田から目を逸らし、長谷川は懐から煙草を取り出す。湿ったパッケージがぐしゃりと鳴る音。また、稲妻が空を裂く。身体を強張らせたが、雷鳴はこなかった。煙草を銜え、ライターで火を点ける。じゅわりと赤が先端に浮かびあがった。煙を肺まで吸う。吐き出す。生活もこうであったらいいのにと思う。吸って、上手く吐き出せたら。吐き出して、上手く吸えたら。いいのに。坂田の手が伸びてきて長谷川の唇から煙草を奪っていった。煙い。そう文句をこぼすと、坂田は煙草を公衆電話に押しつけ潰してしまった。長谷川さん。今度は花見酒でもしようや。坂田が笑う。彼の首筋の血管が動くのがわかる。煙草を抜き取られる際、坂田の指先が唇に少し触れたことを思う。その冷たさに長谷川の心臓は跳ねた。危なかった。長谷川の手は先程からずっと固く閉じられている。爪が手のひらに食い込むのがわかる。少しでも緩めると、坂田に触れてしまいそうだった。此処に縫いとめるのは自分ではないとわかっていた。触れられるわけがなかった。それでも少しでも緩めると何かが溢れ出してしまいそうだった。堪えろ、堪えろとひたすら歯を食い縛っている。

2012.04.11/遥か葬列