未明、道端、明滅する紙袋に坂田は手を突っ込んだ。紙袋の中身はほぼゴミで、すれ違いざまの客引きに入れられたビラで埋め尽くされ、掻き分けながら探るうち、底が抜けた。直後、ビラもろとも落ちていった携帯が地面に叩きつけられ、くたばる音がした。人間が腹を押さえてうずくまっているような体勢でいる、二つ折りのそれに向かって、生存確認のつもりで裏返す。光った。まだ生きていた。バキバキに割れた光を手に、電柱の影に寄る。直後、坂田のいた道を轢いていくタイヤの回転、舞い散る風俗のビラ、罵声がわりのクラクションが尾を引いていく。無性に吐きたくなる側溝が足下に来て、泡でせりあがってくる生唾が掌をじっとり濡らす。口をぬぐった親指で、一件の不在着信に触れた。
 高杉
 ひび割れたその名を唾でなぞる。液晶に波紋。
 背後を車が流れ去る風の一瞬、坂田は立ち尽くす。どこからか犬の遠吠えがかぶさった。返すもののいない遠吠えだった。寒さで丸まるドカジャンを摘まむようにはためかす風。チャックが踊る。
 よろめいた坂田の足が側溝の網を震わし、ガシャガシャ住宅街を波打っていく。横殴りの風に雫が混じりだす。それが坂田を音もなくぶち続ける。
 一件の不在着信。それが坂田の手をポケットに向かわせる。
 昔の習慣が、そうさせた。勝手に手が行った。
 その体勢のまま、坂田は嘔吐いた。地面に散った唾の泡が、汚く光る。吹雪く弾丸に半身を撃たれながら、ポケットの中の手を蠢かす。指の形に蠢いた後、裏地と共にジャラっと出てきたキーリングには複数の鍵がぶら下がる。二重リングの隙間に突っ込んだ深爪を傷めながら坂田が抜き取った鍵は、家のでも原付のでもない。明らかに長年使われた形跡のないそいつからボロボロ舞う赤錆が、坂田の掌をみるみる汚す。




 吹雪く斜面を、ふらつきながら上ってくる男の輪郭がだんだん坂田になっていく。その頭、舞い狂う風、撒き散らす息、すべて白い。
 市営プール・体育館はコチラ……の矢印を一瞥後、それとは逆に行く背は、確実に道を覚えている足取りだった。どこを過ぎ、どこで曲がり、どこで渡るのか。足が道に跡を残していく。顔をぶつものが段々みぞれになってきた。肌に触れては無くなるそれに坂田は肺を喘がせた。顔面をぶたれる脳裏に桜が掠める。ここの桜が吹雪く坂の光景。喘ぐ口に、花弁が入った事があった。舌に生きた感触がし、ぺっと吐き出すと、あっというまに遠ざかった。いらない記憶、そういうものほど汚くこびりつく。捨て損ねたゴミみたいにいつまでも。
 朽ちた校門を、坂田は携帯の光で照らす。
 ドカジャンの背中の刺繍と同じくらい、そこは剥げてしまっていた。
 母校の名はもう読み取れそうにない。
 坂田は年数を数えかけ、やめた。今の年さえ定かじゃない。
 校門を跨いだ瞬間、白い風に殴られる。思わず瞑った瞼に何かの影が揺らめいて、それは坂田がいつも見る夢の影に似ていた。いつも掴めずに終わる夢だった。覚えていたい夢ほど、どうあがいても遠のいていく。
 あけたくない目をあけた。広がる視界へ吹きつける。風が白く吸い込まれていく先に、腐りかけの校舎が見える。
 土埃による風が、連れてくる。ろくでもない日々が砂になって。
 坂田の目が、雪だか埃だかを彷徨って揺れる。まだ学校の原形を保てていることが坂田を笑かす。そこは、今にも壊れそうだった。若干傾いている気がし、一緒になって坂田も傾いた。その坂田も、今にも壊れそうだった。
 壊れそうで壊れない。
 死にそうで死なない。
 泣けそうで泣けない。
 特に塞がっていない正面から踏み込み、埃の雨に遭った。口を手で覆ったがもう遅い。吸ったものに咽込みながら闇の校内を探る。携帯の光は奥まで行かず、手前の下駄箱にぶつかった。何足かの上履きが当時のまま残っている。記憶を辿るまでもなく、体が行く。すのこに土足で上がり、土をつける。しゃがみこんだ坂田の目に光は、いらなかった。出席番号順……サ行とタ行……最下段で、たまたま三年間、横並びだった。見つけた二つの名に、かぶさるセロテープが、押さえつけても押さえつけても捲れあがってくる。
 立ちあがり、手探りで壁を伝って歩きだす。坂田の通過が、割れた窓に映りこんでいく。かつて出入りした保健室が混沌と、欠けた壁から覗いた。ひび割れた水洗い場に置き去られた、網入り固形石鹸の残骸。
 光の輪を揺らめかせた先の階段がホラーっぽい。途中で千切れてたりして……無様に闇に落ちる心臓の感覚が坂田によぎる。ミシ……ギシ……と鳴く体重の軋みの、一歩一歩が破滅に向かうようだった。哀れな息切れが続く。踊り場ごとに屈んでは、息つく間の霞んだ視界で闇をすくう。各教室から、窓や扉を突き破って雪崩れた机や椅子が、廊下を塞いでいた。長い年月をかけ、壊れていったそれらに塞がれた廊下の窒息を、坂田は聞いた。
 ポケットの中の手を蠢かす。
 不在着信を見たら、行く。
 ばかげた昔のルールが、今も坂田の中で生きている。死んでいなかった。最後の踊り場から、階段の果てを仰ぐ坂田の唇はひび割れ、血の滴を生んでいた。ライトを消す。闇に飲まれる中、かつて、ろくでなしの溜まり場だった屋上への扉が、坂田を見つめ返す。
 いない。
 もういない。
 ポケットから裏地ごと出された鍵が坂田の荒れた掌に握り込められる。一歩、一歩、段差を踏みしめていくその顔は、今から開ける扉の向こうを知っている。何もない。空っぽだと知っている。
 正面に立った。ジャリッと嫌な音が鳴って足元を見ると、ガラスの破片が散らばっていた。靴をあげると光で降った。顔をあげ、鍵穴へ。立入禁止の札に迫る鍵に、坂田の影が濃くなった。
 嵌めこみ、回す。
 
 中から、自分たちの声がする。







 襲う陽射しは脆く、寒気がした。
 汚い光だ。目を背け、外に踏み出る。その一歩目に、罠か?というほどのビニール傘が一斉に倒れてきた。蹴ってどかす。入口を塞いでいたらしいそれら傘のうち、適当に掴んだ一本からビニールがずり落ちる。脱げた手触りが、クラゲと思う。昔、浜に打ち上げられた砂まみれの光を死んでいると思って触れた。手に激痛が走った。いつの海かもわからない、遠いそれらが瞬き、歩きだす。
 半裸の傘を引きずっていく。
 破片が続いていた。奥に向かって煌々と。踏まれたそれが、いちいち痛そうに鳴く。鳩の糞まみれのコンクリに立ち、生の風を浴びた。みぞれ混じりのそれは、涙っぽく頬を濡らす。落下防止のフェンスを横目に破片を踏みしめ、行き止まる。ここからは二十五メートルの、でっかい空洞だ。昔は水がはっていた事もあったとか。ひび割れた飛び込み台の上に乗った。そこから垂直に下を見た。
 高杉がいる。
 普通にいる。
 毎日見ている高杉の顔だった。それが今なぜか無性に眩しく、高杉に当たる陽と自分に当たる陽が同じだと感じて吸う息がしづらい。
「高杉」
 呼ぶ声が掠れた。返事はない。屍のようだ。
 いやに疲れてしゃがみこむ。背負う光が重い。高杉の制服についた破片が、斬撃みたいに反射する。なんで破片まみれなんだコイツ……
 上から傘を、ぷらぷら揺らす。
 日頃の殺気を込めて。
 傘の先に溜まっていく雫。瞬く。雫が切れる。それが高杉に向かって降り落ちる。その頬を微かに打ち、濡らす。直後、音もなく、傘が無残にバラけた。骨までひしゃげ、折れ曲がった。捻り潰してきた、高杉の拳によって。
 骨が折れる。文字通り、コイツを起こすのは。
 傘を身代わりにした俺の顔が、開けたての高杉の目に逆さに揺れた。傘を破壊しといて、空振り、という顔をしていた。空に尽きだしたままの拳がブラブラ残念がって揺れている。それを躱して着地し、高杉の襟元に煌く破片をつまんだ。
「なんだこれ。窓ガラス壊してまわった?」
「歩いてたら降ってきた」
「雨みてえに言うな。どこで」
「さァな。にわかのようなゲリラのような」
 適当に凭れかかった壁で肘を擦り剥く。学校のプールの壁って謎に痛い。手触りがほぼ紙やすりな壁に、頭でずった状態の高杉は、完全にネジが足りていない。それで大体、見てもいない高杉の今日がわかる。高杉は鬱陶しげに体についた破片を片っ端から摘まみとっては捨てはじめた。魚の小骨を取るのに似ている。たまに血もチラつく。ムラムラ腹が減ってきた。空きっ腹で空を仰げば余計に空いた。無意味に弄んでいた鍵で己の手相をなぞる。そこを流れる生命線は、ぶちぶち切れまくっていて、「何回死ぬの俺」
 生命線から高杉へと目をずらす。さっきよりさらに下にずっている。おい、頭にも破片。どこだ、と頭をぶんぶん振りだす高杉に「痛ッ、いや破片っ、飛んでる、飛んでるっ、犬が水分飛ばすやり方ソレ!!」とその髪を束で鷲掴めば、掴んだ端から指の股をすり抜けていく。自分には無いその感触に舌打った。そのまま通過しかけた指がふいに引っかかり、止まる。鍵を、握ったままだった。高杉の髪に絡みつかれたそいつを、右に左に回す。意味なく回す。
「銀時」
 の声に振り向いた、いつぞやの炎天下が朦朧と意識を侵しだす。
 日光に炙られながらも、ずらかる途中だった。まだらに地面を濡らしていく自分たちの汗の跡を振り返っては、「溶ける」しか言えなくなっていた。
 なんでもいいから涼もうとして潜ったコンビニの自動扉に血糊がべったりの顔が映り込み、アとなった。我ながら、関わりたくない人相だった。通報されるかもと寸止めした体に、冷気が来る。ガーと開いていく扉の奥、怯んだ店員の目と合った。へらへら笑って手を振りながら一歩下がってUターンをきめ、また灼熱の外に逆戻りしたのだった。言えよと高杉に一発蹴りを入れてからコンビニに背を向け、すぐ横の公園まで来て、蛇口を捻った。
「焦げくせえ」
 遊具の、砂場の、自分たちの、焦げる匂いがする。
 溢れでる水に触れた血が、アイスが溶けるみたいにして流れていった。朦朧と太陽の位置を確かめようと頭上を仰げば、知らんおっさんと目が合った。公園沿いの住宅、こちらに突き出た露台にタンクトップのおっさん。竿竹に干した穴あき布団の上に肘を置き、時々煙をふかしながら俺たちを見下ろすその目は、網の上で焼けていく肉を見つめる虚無の眼差しだった。いつもいつのまにか燃えカスになっている、そういう夏の光。蛇口を閉める。水がやむ。顔から滴り落ちた雫が地面を濡らす。激しく振った頭から水気を撒き散らす。
「銀時」
 の声に振り向いたのは、そこだった。
 濡れた視界。逆光に潰れ、まともに見えない。
「合鍵」
 逆光が言った。
 あいかぎ?
 脈絡のない単語と共にピンボケの高杉がぶん投げたそれが、空中に煌いて、眩みながらもキャッチすると、鍵だった。何もつけていない、裸の鍵だ。ぬくい。べたつく。乾いた血痕付き。高杉の手に握りしめられていたと嫌でもわかる。 「いや何だよ?」と開けた口が、ぽかんとなった。
 いねえ。
 今いた、そこに。
 高杉がいた場所を、風が吹き抜ける。
 人間みたく、生々しい。
 周囲の遊具に小石がぶつかる音がした。誰も乗らないブランコが、振り子を描く。公園に降りかかる陽射しを、吸殻のように思う。手の甲を無慈悲に焼く、灰の熱さを思いだすせいだ。生きるのは痛い。朝日夕日今日明日。
 毎日の光が。光は。死ぬまで痛い。
 かろうじて捉えた、公園を出ていく人影に向かって息を吸いこんだ。
「なんッッの鍵か言ってけや!!」
 踏みつけた砂場から舞いあがる。吸いこんだ砂を粒子で感じ、喉の粘膜を擦っていくそれがそのまま胸底の取れないざらつきのようでたまらない。
 遠ざかる高杉を道連れに、空は燃えカスになっていく。
 むしゃくしゃしてしゃがみこんだ地面に、蟻がいる。焼けちまうぞと呟いた。通じたかはわからない。届いていようがいまいが、蟻はそこを動かない。取り残された手にある鍵が、焦点をぼかす。俺達に家はない。合鍵と言われたって、どこか見当もつかない。こうしている間にも、今しかない時は消えていく。また明日?
 明日なんか待ってられっか。
 圧し潰してくる陽に逆らって、立ちあがる。公園を出た。あてはない。あてもなく、ぶらつきはじめる。ふだん意識しないだけで、町中に高杉との痕跡はある。高杉がいなかった道は無い。内容なんて覚えちゃいない喧嘩で凹ませたコインロッカーは、今も凹んだままだった。喋る自販機は夜道によく響く……センサーで話しかけてくるそれにビクっとした高杉が反射で返事した夜にゲラゲラ笑った。バイト先の裏口は、廃棄品を分け合う自分達の食卓だった。財布の中身全部つぎこんでも取れなかった高杉っぽい宇宙人で埋まったクレーンゲームを覗きこむ。高架下の駐輪場はどんな声も掻き消すため、珍しく笑った気がした高杉の息を聞き逃した。バス停のポールにかけられた謎の南京錠を、屈んで弄っていた高杉の風に舞う髪。雑草まみれの空き地に放置された車に並んで凭れながら見る空は、雲の流れがよくわかる。留まっているように見える雲が、気づくといない。探したところで、同じ形のものは二度と見つからない。
 ロッカーの、自販機の、裏口の、クレーンゲームの、南京錠の、放置車の。
 鍵穴、鍵穴、鍵穴、鍵穴、鍵穴……目についた穴に片っ端から差し込んでは途方に暮れる。背中では日が暮れる。ムリヤリ含ませた鍵の先っぽは、これ以上入れそうもなく。俺は開かない鍵穴をずうっと掻きまわす。
 べとつく掌を開いて鍵を見る。合鍵、と言った逆光の声を思う。立ちどまると噴きこぼれてくる汗をぬぐいながら仰いだ坂を、風が下ってくる。ふらっと足を進めたところで肩を叩かれた。振り向いたらお巡りが二人立っていた。


「やんのか?」
 息が顔にかかる。高杉が目の前にいた。
 捻った鍵は、高杉の髪の中だった。細く絡みつく毛を見る。にわかだかゲリラだか知らないが、最後の破片を頭から払った高杉の目は、すでに渇きだしていて、早くも次を求めだす。いつも死に際のような光を湛えて、俺を見る。それは毎秒、取り返しがつかない気がした。
 毛根が剥げそうなほど髪を引っ張った状態で、秒数が刻まれる。カスみたいなその数秒に、どこからか光が群がってくる。
「なんか喉から手ェ出そう」
 自分でもわからないうちにそう漏らす。漏れた声が高杉の顔にかかる。近すぎて逆に見えない。高杉が見えない。日が傾きはじめたのか、光が邪魔で。
「出せよ」
 本当に、喉から手が出たと思った。
 何だ?
 手だ。掌だ。高杉の。
 喉仏を、掴まれている。皮膚同士が吸いつきあって、生あったけえ。あったけえと死体がよぎる。もういないとわかってしまう。魂が遠ざかる、あの冷たさ。「出せよ。早く」赤ん坊にゲップを出させるみたいに。喉仏をさすられ、濁音。蠢いたそこが高杉の熱の手に、すがりつく。
 水もないのに息を忘れた。
 水もないのに高杉を沈めた。
 俺の手に沈められた高杉が、力に逆らって首をよじる。押さえつけた指の股の間から、射殺す光で、俺を見る。その光に負け、瞬いたのがいけなかった。手の甲に鋭い痛みが襲い、力がよわまる。その隙を猛烈に、突いてきた。文字通りの、頭突きだった。視界に、高杉の髪が散る。同時に、若干、気も散った。起き上がりざまの回し蹴りが首を掠め、わかっていても、次に来る拳は避けきれない。さっきの傘みたいに、骨になる自分が頭をよぎった。しかし顔面に迫る上履きの底に、それも忘れた。のけぞった二秒後、鼻からタラ…と出た赤が、溝を伝って枝分かれしていく。
「手じゃなく、血がでた……」
 足元に、鍵が落ちていた。
 微妙に痛む手の甲を見れば、跡がついている。それはこの町のあらゆる鍵穴に、俺がつけた傷とそっくりだった。
「次は何だ」
 高杉の問いかけ。
「次って」
 高杉は拳についた俺の血を角度を変えながら見回し、
「てめえが出してえもんだ」そう言った。
 そもそもまず血を出したがった覚えがない。上擦る息に、血の唾が混じる。プールの水をがぶ飲みしたときの味を思いだす。
「じゃあ、精子」
 高杉が、俺を見た。
 ガキみたいな眼差しだった。その目に、俺越しの空がちらついた。
 次は何する? 鬼ごっこ。そんな夕方、最後の遊びの空気。
「……冗談、」
「冗談?」
 静かなのに妙な圧を向けてくる高杉に背を向け横になる。目の前のハシゴの錆を見つめた。さっきの高杉の目がよぎる。空が見えた。俺がいた。


 浮上した意識を、鳥が横切る。糞が落ちてきそうだ。首だけ横に向けると、高杉が転がっていた。眩しかった。リンチを受けた光景のようだった。痛いと、眩しい。それから、勃起している。蹴りを受けた時からだった。萎えていない。すぐそばの高杉の息を感じながらベルトを抜き、チャックを下ろし、己の性器を掴みだす。重さをはかるようにして握り込む。血管の浮いた肉に指を這わす。徐々に滲みだすそれは血と変わらない。痛くて死にそうで、とまらない。そこを流れる愚かな血を感じた。掌で包む亀頭。握った竿に、高杉が脈打った。
 それ以上どうしようもなく、放りだす。擦りも、出しもしない。自然と萎えるまでの、風の時間が、なぜ悲しいのかわからない。高杉の、同じ風に吹かれている髪や制服が、光を帯びて自分の中に入ってくる気がした。
 高杉を起こすのは簡単で、殺気を向けたらいい。いつものようにこちらに晒された背中に、そそごうとして、別の物が入り混じる。別の物って、なんだ。殺気をそそげるほどの、魂への執着。光が嵩を益した。高杉が、身じろいだ。
 仰向けに寝返った胸が、吸って吐く息を感じる。「朝か?」
 高杉のその声が光のように体を巡った。目頭に熱く溜まっていく。
「夕方」
「へぇ」
「なんか…なんだっけ……アー…夕日の方が、汚ェんだってよ」
「へえ。じゃあ俺も、落ちてんのかもなァ……」






 ドラム缶を見下ろす。
 そこは落ちる日の色で、燃え盛っていた。紙袋の中から出す学ランの、乾いた衣擦れが響く。ボタンが指に引っかかる。何度も取れたボタンだった。掴んだ胸ぐらからぶら下がるソイツを何度も見た。そのことを思いだしながらボタンと布の隙間に突っ込んだ指で捩じりあげる。ぶち抜いたボタン一つを握りしめ、あとはドラム缶の中に投じた。炎に舐められ溶けていくそれを一人見下ろしていたが、次第に破滅的な何かがこみあげはじめ、気づいたら自分の学ランに手をかけている。破る勢いで脱ぎ放ったそれを、ドラム缶に投げ捨てる。花火の火を分けるみたいに制服から制服へ燃え移った。飛び交う灰が付着した手で携帯を開く。履歴の一番上を押し、耳に持って行く。呼出音が耳に籠もる。
 三十九コール目で、繋がった。危うく切るところだった。
「言われた通り、焼いた」
 聞こえてきたのは、凄まじい雑音だった。タイヤが道路を擦る不快な高音の後に、罵声が飛び込んでくる。こちらの声が届いたかわからず、もう一度口を開きかけたところで、「あァ。見えてる」という声が吹きこんできた。荒い息も一緒に。耳奥にかかるそれが血管を巡る。真下の火が爆ぜる。
「見えてる?」
「煙」
 言われて、頭上を仰いだ。乾いた空に昇っていく煙が見えた。
「てめえ別のモンも焼いてんだろ」
「え?」
 思わずマシュマロの袋を抱きしめる。開けた口の隙間からひとつ転がり出た。拾って手でパッパと払って、枝に刺して炎の中に突っ込みながら「朝から枝とか枯れ葉とか掻き集めさせられて焼くのが服だけって、もったいねえなと思って。前からしてみたかったんだよな、焼きマシュマロ」柔らかな塊を炙っていく。
「共食いか?」
「誰がマシュマロだ」
「クソ甘ぇ。女に刺されても笑ってる」
 罵声が、近づいてきている。
 もうそこまで迫っている。飛んでくる複数のツバが絶えずかかって、何かが激しく割れた音が耳をつんざく。携帯から一瞬耳を遠ざけ、また戻す。
「うるせえな、周り。黙らせろよ」
「クク」
「え、笑ってる? 怖……」
「味噌汁にガラス入った。ジャリジャリする」
「アサリみてえに言うな。って、何呑気に味噌汁啜ってんのお前?」
「シジミだ」
「そこはどっちでもいいんだよ。なんでテメーはいつも破片まみれなんだよ」
「てめえの卵焼きもよくジャリジャリしたな」
「勢いつけて割ると殻がどうしてもインすんだって」
 アレ何の話だっけ。
 上手く頭が回らない。すぐそばで燃えているからだった。火が眩しい。溶かされていく感じがする。大事なもんはぜんぶそこに吸いこまれ、散って、いつか忘れていくしかない。高杉。からっぽの頭が意味なく呼んだ。
「出してぇ」
 灰になっていく制服を見つめる。明日から一体何を着るんだと思った。何も持っていない。裸で生きなきゃならない。制服と一緒に、高校生の自分が死んでいく。高校生の自分達が死んでいく。
「何をだ」随分と時間を置いて、微かに返ってきた。
「精子」答える俺の目に、ひが燃えている。俺を見る、高杉の眼のようだった。ガキみたいな眼差しで、落ちていく日に縋っている。
「ぶっかけときゃよかった」
 お前に。と付け足して口を閉じたその瞬間、すべてを引き裂く音がして、俺達の通話はグチャグシャに轢かれた。何も、聞こえなくなった。ぺっしゃんこの沈黙の後、ブツっと切れた。
 ドンッ! ドンッ! ドンッ!
 切れた途端、こっちの外野の音が入ってきた。凹む勢いで叩かれる扉が、横目に霞む。すっかり忘れていたマシュマロを、炎から浮かす。枝の先の、焦げカスが、風と散って行く。扉が激しく叩かれる。開けろと言う声が聞こえる。日は落ちる。パンツ一丁の体で立つ屋上から、煙は昇り続ける。











 高杉の名前が、不在着信の一番上に、来ている。
 それに気を取られていた坂田は、足下の落とし穴に気がつかなかった。あの頃あれだけ毎日いた空洞の存在を、すっかり忘れて、踏み外した。
 もちろんそこは水なんて、はっていない。マットも用意されてはいない。笑ってくれる誰かも、ドッキリの看板も出てこない。痛みが全身に波打っていく空に、息をのむ。狭まった視界に、白い粉が降りかかる。幻覚みたいな空だった。時間が、止まって見えた。このまま降り続け、溶けたら、プールになるんじゃないか。いや元々、ここはプールだったと坂田は死んだ顔で思いだす。
 そろそろ朝が来るはずだった。
 光が少なく、日が昇ったかわからない。携帯の電池が赤くなった。不在着信の一番上を押す。でっかく表示された高杉の名に舌打った。メニューを出して、迷惑電話に登録に向かってカーソルを持って行く。それを何を誤ったか、発信を押してしまう。がばっと飛び起きて取り消そうと電源を連打しようとして坂田は空中で指をとめた。切ることを、躊躇った。番号が明滅し、発信中の文字が出る。仮に繋がったとして、何を言うのか。そんなもの、この世の言葉にある気がしない。かつて横にいた高杉を思いだそうとして、光が、邪魔をする。
 携帯を耳に持って行く。

 呼出音が、始まった。

2021.09.11/光が邪魔