7、火葬場
歩きまわるうち昨日の酒がこみあげた。耐え切れずそのへんの道にしゃがんで吐き出すが、出てくるのは酸っぱいツバの泡ばかりでビチャビチャ道を汚す。それを通りざまの母子に見られ、幼児に指を指され、ふらり立ちあがった。吐瀉物を靴底で伸ばしてから、また当てもなく歩きだす。車が通れるかも怪しい住宅間の道を歩く姿は、濡れ雑巾だった。眼だけが妙に乾いてくる瞬きの狭間に、周囲を切り取る。
いない。
角を曲がる。
いない。
引き返す。
どこかの住宅の窓から降る視線と合った。即、閉められる。顎から滴る汗をぬぐう。つきまとう空気はまだ夏で、その夏の間、住んだ町をただ歩く。
――じゃあ俺は今、生きてるか?
風で吹き抜けた隣人の目が内臓のどこかに刺さったままだった。
クラクションが鳴った。振り返る。
眼に、風。
瞬く。
狭い道を、一台の車がバックで引き返してきて迂回した。ふらり、そちらへ足を踏み出す。無意識に脇腹を手でおさえながら霞む住宅地を瞳に揺らす。
立ちどまった。
息がこぼれた。
見据える目の奥で、陽を弾く。
道を塞ぐ、古い車体に視界を狭める。
それだけになる。
丸型4灯のテールは、一目でそれとわかる。吸いこまれるように一歩、また一歩と足は出た。あの日、探し回って見つからなかった。徐々に目に迫る。
最後に見た姿のまま、スカイラインはそこにあった。
「よォ銀時」
名を、呼ばれる。
眼前のスカイラインから、ゆっくりと横にずらす。
路肩に乗り上げた車の影、そこに座りこんでいる男の眼とぶつかる。陽が散る。おさえても漏れだす息を、ツバにして飲む。朦朧と、その濁音を聞く。
「お礼参りついでに、取り返してきてやったぜ」
次の一瞬、ひゅっと飛んできた光の軌道が、自分達を繋いだ。片手で受けとめたそれは、妙にぬくい。生々しい熱だった。開いたそこにある鍵を、ぼやけさす。そこから頭上の空を仰いで、数秒、真っ青に浸かった。そった首の筋を流れていく汗を、すくう風はない。さっきまであれだけ吹いていた風が、やんでいた。音もない。一切の雑音を消した体に、暴力的なまでに吹きこぼれてくる。空の青に溺れる手前で、顔を戻した。
目の前の、男に。
泥臭く刺さる、高杉の眼に。
「おい 歯ァ食いしばれ」
地面を擦る靴が、目の下をかすめる。頭の隅に隣人がよぎった。部屋を出るとき適当に借りたのを、そのまま履いてきてしまった。悪い汚す、と脳内で謝った。笑いを浮かべ立ちあがる高杉に、体は向かっていく。わざわざ殴るまでもなくヤツは、ボロボロだった。関係なかった。拳をつくった。あたまがカラになる。何も入ってこない。ふっと吸いこむ息を聞いた。直後、肉のぶつかる血の衝撃が体中に波紋でひろがって、人間を忘れた。
「…これ以上は通報される……」
仰向けの地面で銀時はア゛ー誰か起こしてほしいと空に手を伸ばす。この夏、毎日伸ばした手を引っ張り上げてくれた隣人を浮かべ、鼻から垂れてくる血を舐めた。生きてて水面なんてどこにもない。空の青を掴んで握る拳に、生きた血が通っていく。青に浸かった目で横を向いたら、同じくそこに高杉も浸かっていた。その体の息を感じる。まだ殴れる距離にいる。このまま寝てたい。のを力の限りを振り絞って起きた。ふらつく体で、高杉のほうへ歩く。朦朧と見おろす。特に酷い手首と足首の内出血を見る。その体を蹴りあげて仰向けに転がした。その際、高杉の手の甲に、薄っすら数字が見えた。マジックの痕だった。その横の『M』っぽい何かはなんだ?と思った銀時の中でそれはウサギの耳に繋がった。それは団地の番地と、下手なウサギの絵だった。かすれきったそれを見おろす銀時の背中が静かに息をしていた。高杉の首根っこの襟を引っ掴み、そのまま車まで引きずって歩く。高杉の重みにはった手首の筋が痛い。道を行く靴は破れた挙句、泥泥だった。
引きずられている途中で薄っすら瞬いた高杉は、道を波打たせた。生きる間の、道だった。どこに目を飛ばしても、波打つ命が、うるさい。
「銀時 あれ見ろ」
道に落ちているものを指して言った。
立ちどまった自分を引きずる銀時の足が、微かに振り返る気配がある。
こちらの目線を辿って、よわく細まる。
「…なんだよ」
「歯ァ落ちてる。どっちのだろうな」
「……てめえ…落とすぞ」
「最後まで運べよ。俺を」
一度よわまりかけた力が、高杉の伸びきったシャツの襟を強く掴み直す。
車までのたった数メートルが、バカみたいに長かった。咥内で舌を使って歯を数えても、欠けているかどうかの判別もつかない。
イチゴ牛乳のキーホルダーを鍵につける。それをイグニッションに差し込もうとして、シリンダーの周囲の傷が目に入る。差し込み口を見ずに挿そうとして何度も擦ったその痕を、親指の腹で撫ぜた。埃っぽい空気にひとつ咳をこぼす。キーを差し込み、回した。エンジンがかかるその瞬間は点火のようだと思う。あっさり火がついた車の振動には、二人分の息が混じる。バックミラーを動かしがてら、後部座席に転がる高杉をチラと見る。座席全部を使って伸びた体を見て、チビはいいなと呟くとシート越しに衝撃がきた。散々蹴られた直後の内臓に地味に響く。
「靴脱げよ、お前」
シートに靴痕がついたに決まっている。アクセルを踏み込んだ。わざと横に車体を振って、その足を退けさせたらシートへの圧迫が消えた。ハァ。戻ってきたこの感覚に胃が痛い。高杉は銀時より遥かに諦めが悪かった。銀時は、二度と運転することのないと思っていたハンドルをゆっくり切る。助手席の、潰れた煙草の箱が振動し続ける。
「おい銀時 あれ見ろ」
「…もういい、それは」
一時停止と同時、酒焼けの声をさらに掠れさせた。二日酔いに殴り合いと来てグロッキーが今またこみあげる。事故るぞマジで…というのは無視で「風船もって何してんだ、アレ」という高杉に「あ?風船?アレ?」こわごわ窓の外に目を走らす。車の脇にぼうと突っ立っている男がいた。全体が見えず、腰をずりさげて「あ」と声が出た。次の一瞬にはクラクションに手がいっている。ほぼ脊髄反射的に押してしまった。遅れて頭蓋に響く音に「やべ…」と跳ねた銀時はここが住宅街だったことを思いだす。同じくぎょっとこちらに向くそいつの眼付きの悪さは相変わらず、そそられる。こちらをチンピラとでも思ったか無視して歩きだす。それこそチンピラっぽく並走してやった。窓をあける。
「土方」
呼びかけたのは、高杉だった。その声に、ふ、と立ちどまる男を銀時は横目に見て視界の半分が陽に浸かる。そのスカイラインは埃臭かった。泥まみれの車体の、汚れに曇る窓がゆっくりとあがっていき、その中にいる銀時と高杉を、土方は見た。
この夏の二人しか知らない。
じゃあこの感覚はなんだ?と土方は思い、車に歩み寄った。ずっと昔から続いてきた流れを感じる。泥臭い光に殴られる。見ているだけで痛い。窓に手をかけて覗き込んだそいつらは、全身ボロボロだった。シャツの一部が裂けていたりするのが、笑えるぐらい。
「ちょっとって、言わなかったか?」
「うるせー、それより手にもってる風船、何」
喋るたび口角に血が滲む銀時に顎で示され、ああ…と手に握る紐を辿った。頭上でぷかぷかと平和に浮いている風船は軽すぎて持っているのを忘れる。
「なんか、そこでオッサンが配ってた」
「怖ッ…っとーに、なんでも受けとるなテメーは」
中からロックを外される。窓にはりつく高杉の、青く変色した裸足が酷い有様だった。助手席側に回り込んだ。乗る瞬間の埃臭い空気。尻で踏んだ何かを抜き取る。空き箱かと思ったが、触れてみると空洞じゃなかった。最後に一本残っている。火をつけた。吸いこむ。それを咥える土方の口を、銀時は見た。先端の火と同じぐらい銀時の中を流れる血がじわりと滲む。ゲホッ…濁音で喉をひっかからせながら深く取り入れる。
「俺は欲しいもんしか、受けとんねェよ」
とんでもない間を置いて返ってきたそれに銀時は、
「……あ…そう…」
斜め上の空に目を飛ばす。土方が胸に抱えている風船がガラスにちらつく。割れないように置かれたその手の、けっして突き放さない温度をもう知った銀時は、俺や高杉みたいなのに、つけ入られるのはそういうとこだってわかってんのか?と言いたいのを抑えてハンドルに爪を立てる。咥内のえぐれているところを舌先で撫ぜながら急カーブを切った。団地とは逆方向へ流れる景色に、土方が銀時を見た。銀時が親指で後ろを指す。
「コイツ、病院連れてく」
「あ゛?いらねェ」
おとなしいと思ったら急にドスのきいた浮上をしてきた高杉は無視する。
「このへんで初診で見てくれるとこあるか」
「あるっちゃあるが、お前ら、保険証…」
「いや持ってるわ、何その目」
「そのナリのまま行ったら通報されんぞ病院に」
「そこはなんとでもなる」
「つーか絶対テメェが悪化させてんだろ、アレ」
「そこはムカついたから。別の話」
「オイいらねーっつってんだろツバつけてりゃ治る」
「うるせえブレーキもろくに踏めねェバカは黙ってろ!」
最初の一目で、凹んだバンパーは見つけていた。路肩に乗り上げた車は、先の電柱にまで軽くつっこんだ状態で駐まっていた。そこに足首・手首のどんびくほどの変色。「よく生きて帰ってきたな…」代弁してくれた土方のその口から「煙い」と吸ってた煙草を銀時は抜き取って、窓から捨てた。ふと再び沈黙した高杉を、銀時はバックミラー越しに窺った。起き上がって、こちらに意味深な視線をそそいでいる。
「なんだよ」
「てめーら、ヤったのか」
ぶ、と飛びかけたツバを飲み込んで抑えたそれが危うく肺にまでいきかけた。横の土方にチラと目をおくれば、こっちに全部投げてる目で、返される。二度目の生唾を飲みこんだ。「あ゛ァ、ヤってる。毎日ヤってる猿よりヤってる」とやけくそ気味に答えた銀時の運転が荒くなる。大通りに出た。
「そうか」
高杉からいつも出る荒々しいのとは違う、凪いだ声に、銀時はナビとは違う道へ進んでしまった。一方通行だった。もう戻れない。
「次は俺も混ぜろよ」
やなこった。と呟いてアクセルを踏み込む。陽に擦り切れて消え入りそうな銀時のその顔を、土方は窓に見た。ガラスに映るその顔を、指でなぞる。
病院に入る前に買ってきたキャップ・グラサン・マスクを「つけろ」と高杉に渡し、同じく真顔で自分にも装着しはじめた銀時の傍らで土方は完全なる虚ろだった。
「ボケられたところで、つっこめねえ」
「え?」
「え?じゃねーよ。何がなんとでもなるだ。顔の痕しか隠せてねえだろうが」
「いやイケる。設定も考えた。風邪気味でちょっとふわふわしていた俺達は熱にうかされるあまりプロレスごっこに転じてしまい、その最中に足を滑らして階段をおっこちた」
「ヤベェ奴らすぎる」
「ちょうど声も酒焼けでかすれてっし」
「喉も見せろって言われたらどうすんだ」
「そこは苦手とかなんとか突っぱねて地団駄攻撃で嫌がる」
「何歳?」
「平気、平気。世の強盗も大体これで突撃してんだろうが」
「あァそうだな。見事に強盗にしか見えねェよ」
本気で警察も呼ばれる事態を考えていた待合のソファで、顔面にガーゼをはりつけた銀時と包帯姿の高杉が戻ってきた時、ようやく土方は脱力できた。通報は免れたらしい。土方を挟んで二人が沈む。銀時からはキャップを、高杉からはグラサンを、なぜか両側から伸びてきた手に雑に装着させられた土方の視界は狭まり、病院の廊下は色褪せた。
「手首と足首はヒビと打撲。あばらは折れてんだと」
短い報告に、グラサン内の眼球を動かす。光のカットされた視界で銀時の横顔を見るその背後、くすんだ赤色灯が回っている。外にとまった救急車らしかった。
「にしても、まったく酷ェリンチっぷりだよな」
「アバラは、てめぇだがな」
高杉の横槍が入り、土方の眼は今度はそっちへ動いた。キャップの鍔が邪魔をして、包帯の足元しか見えない。前に向き直り二人と同じ位置までずるずる沈む。視界を閉じた。
「てめえが一番、酷ェじゃねえか」、土方の息に、グラサンが曇る。
全員が朝から何も食べていなかった。病院の地下一階にあるというレストランで食べて帰ることになった。エレベーターを待つ間、銀時と高杉は口をきかなかった。必要最低限の会話が終われば、また険悪が、ぶりかえした。あばらにヒビがいくほどの殴り合いを経て尚、気が済まないらしかった。
無言の圧力を孕みつつ、微妙に離れた距離でパネルの回数を見あげている。到着音と共に、二基の扉が同時に開いた。そこで、さも当然のように別々のエレベーターへ乗り込む銀時と高杉に、土方は心底面倒くさげな目を投げた。どちら側についていこうかと一瞬の逡巡の後、怪我の重い高杉へと行きかけた土方の足はとまる。閉じようとする箱の中で、しゃがみこむ銀時が見えた瞬間、足はそちらに向いていた。滑り込んですぐ閉じた密室が、銀時の吐く息に籠もる。高杉には聞かせられない息なんだと、わかった。下降する間、土方はただ横に突っ立っていただけだった。しゃがんだ銀髪が、眼の下にちらつく。握るまではいかない、かすかに掴まれた手をよわく繋ぎ返す熱に、汗ばんでいった。
エレベーターが着くと同時、すっと引いていく手の熱。出ていく間際、耳打ちされた。「吐かずに済んだ」それに土方は目をあげた。いつも通りの乾いた銀時がそこにいた。先に着いていた高杉の方へ、歩いていく。手に残る湿り気を土方は握りこむ。
三人共、箸で掴んだだけで肉と衣が分離するスカスカのカツ定食を食べた。自分達以外は病衣姿の患者達の中、黙々と食べた。こうも静かだと逆に耳は拾う。咀嚼音に嚥下音、テーブルごとに置かれたピッチャーからコップにそそぐ水音、食い終えた人間から出ていく足音、複数のそれらが重なり合うなかで、土方には、銀時と高杉の音だけが近かった。飯を掻き込み、咀嚼して、飲み下す。単純で、生々しく、ここにいるどの人間より汚い音だった。何度もカツを落とす高杉の手首の包帯に目をぼやけさせながら「食わせてやれよ」と土方が言えば、「はあ?」銀時が水を垂らした口で言う。その口角のガーゼがずれて血に滲む青紫を覗かせていた。目の上のたんこぶも似たようなものだった。
「ぶつけてもしんねェぞ」、言いながら車を発進させる。土方にとって久方ぶりの運転だった。もう既にコイツがぶつけまくってボッコボコだよ。後方からする眠たげな声に、てめーらもボッコボコだけどなと団地に向かって走りはじめた。不思議と一度も信号に引っかからなかった。ずっと青だけを目に、アクセルを踏み続けた。助手席で、薬の袋がガサガサと振動していた。やがて、やつらの寝息が重なって聞こえはじめた。ルームミラーに、擦れて混じり合う髪がちらつく。その摩擦で毛羽だった髪の筋が、陽を吸っていた。くずおれそうだった。土方は、道の果てに沈む陽に目を絞った。団地が、見えてきた。
とりあえずは敷地内の空きスペースに駐車して、起きそうにないやつらは放置で、土方はひとり車から出た。随分と肌寒い。身震いする。汚い寝顔を窓越しに見てから住棟に向かって歩きだす。エレベーターはまだ故障している。高杉のあの足ではきつい。銀時はどうするか。背負うのか。肩だけ貸すか。手は貸さず、ただ先で待つか。土方は階段を駆け上がった。腹が震えた。全身の筋肉が笑いだしそうだった。
数十分後、キレながら帰ってきたヤツらの息は、二人揃って荒かった。
銀時、と高杉が呼ぶ。いつだってそれは一度きりだった。一度目を無視すれば、もう呼ばない。その瞬間の用は、二度とわからない。毎度くだらないとわかっていても、そのたびに銀時が無視できないのは、同じ波は二度と来ない事を知っているからだった。
「おい銀時」
今も、それだった。現場仕事から戻って、まだ間もない。深い眠りに落ちる過程で、ひきあげられた。まぶたが逆らう。全身が、起きたくないと言っている。ここは無視で…と再度深くへ潜りかけ、一瞬で楽にいけたはずのところを、ふと、まなうらに揺蕩うものへ目をあげてしまった。途端に楽が、去る。意識すると一気に息がもたなくなるそれで、浮上せざるをえなくなった。まず最初に入ってきたのは包帯を巻いた足首で、それが引いていく畳に向かってつい手を伸ばした。掴んでから、それが怪我している方だと気づいてアまた悪化させる…とボンヤリ思う。「何゛…」溺れてるみたいな濁音が、喉から出た。
「歯磨き粉が絞れねェ」
「…………」
差し出された歯ブラシと、残り少ない粉のチューブを、見上げて捻る無理な体勢が一気に脱力した。はあ〜と盛大に溜息を吐いて、「貸せ…」逆さに映る高杉に向かって手を出す。受け取った歯ブラシと粉を、仰向けから見あげ、目ヤニの引っかかる視界を瞬かせる。ブラシに粉を絞った。そこへ伸びてくる高杉の手を避け、腹筋の力で起き上がった。
「ついでに歯磨きも手伝ってやるよ」
そしてまたその足首を掴み、体ごとひっくりかえしてやった。暴れかかるのを上から押さえつけ馬乗りになって歯ブラシでその口をこじあける。腹を蹴ってくる足も、手首を掴んでくる手も見事に包帯を巻いている方で「痛えんじゃなかったのか?おい…」ドスのきいた声で吐きかけた。流れる前髪をひっぱりあげ、両の眼とも暴いてやった。白く泡だつ高杉の咥内からツウと一筋、垂れていく。
「なんなんだ、テメェ…構ってちゃんか?」
高杉の眼が、笑い、煽られる。そこには以前と違う、別の臭いをはらんでいるからタチが悪い。たとえばここで殴ったとして今は、ありえない流れへもっていかれそうな、空気がむんむんとする。どこか擦切れた視界で、顎にまで伝っていく白い筋に、銀時はかすれた。意図せず動かした手で、ブラシが奥歯を擦る。
「ん゛ぅッ」
「変な声出してんじゃねェ…ッ!!」
うるせえなァ…
スープ春雨を啜りながら土方は壁に耳を当てた。
ドス、バキ、ガタ、壁を通じて伝わる、お隣の騒音にまぶたをおろす。殴り合ってる光景が、閉じた目に走る。それは一昔前の、青春映画みたいな色合いだった。少しだけ息が詰まる。たぶん、いくつになっても振り返る。人生で、最も短く、長い。春雨を口から垂らしたまま壁に耳を当てたまま棒立ちで、土方はそんな映画の夢を見ながらグウグウ寝た。
「身がもたねえ…」
音をあげ、こちらに逃げてきた銀時の、手すりに凭れかかって反られた喉仏の隆起を、吐いた煙に滲ませる。首を反って頭に血がのぼるまで、逆さに景色を見続けた後、戻ってきた顔に土方は目線をそそいだ。鼻をひくつかせたのがバレたか、「笑いたきゃ笑えよ」酷いパンダ目で吐き捨てる。目の上のたんこぶは腫れがひくにつれ、重力に従って下までおりてきて今じゃ目の周囲が真っ青だった。笑いの許しが出たので土方は笑った。
「今までにねェくらいの笑顔をどうも」
「……で?なんの身がもたねェって?」
「四六時中、見てくる」
「は?」
「寝ても覚めても殴っても、あの野郎のねちっこい視線を感じる」
土方は意識を空に飛ばして、ふうんと言った。
「今更だろ?」
「なにが、」
「前から、そうじゃねェか。少なくとも俺から見たら、最初っからそうだったよ」
風が吹いた。そこに夏はもう嗅ぎ取れない。やつらは夏を生き延びた。これまでも、これからもそういう風にしか生きられない。そういう風が、この団地にも土方にも吹きぬけた。それだけだった。それだけの夏だった。
「ところで、なにしてる」
背後からシャツの中に入り込んでくる手を布越しに抓った。
「おっぱい揉ませろ」
「ねえよ」
這いあがってきた爪に引っ掻かれ、執拗なまでにそこを甘噛みしてきたいつかの舌のざらつきが蘇る。摘まみ挟んで確かめながら「元気な乳首」と耳に吹きこんでくる声がアホだと思って放っておいた。籠もる息が、舌の水音になった。あまりに空が青くて、水中みてェだなと瞬いていたら急激にのしかかってくる重みが倍増しして危うく落っこちそうになった。振り返りたくても振り返れないほどの圧迫に、土方が悪たれを吐く前に銀時が「おい なにしてる」棒読みの低い声を漏らした。
「俺にも揉ませろ」、高杉の声。
「ねえよ」
おい…ねえっつってんだろ…そう言いながら土方の乳首を弄る指の動きはやめない。高杉が乳首を弄る指の動きには「痛ッ、とれる、とれる」と銀時の叫びが。いつのまにか二人から三人のサンドイッチになった重みで、圧し潰されそうになりながら土方はさっきから尻に当たるソレは、どっちのせいでだろうなと気が遠くなる。どっちにしても、救えない。
口笛を吹く口が間近にあって気づくと、それを吸っていた。あの曲が、咥内に吹きこまれる。舌の上の唾液がそれに吹かれて滑り落ちていく。もっと、この音が欲しかった。足音が近づく。湯気に目が曇る。土鍋を運んできた銀時を、揃って見あげた。高杉と土方を繋げる唾液の糸を、銀時の指がすくう。
殺伐だだ漏れの銀時が、土鍋からうどんを啜る音が汚い。半熟が溶けて広がるダシ汁を土方は蓮華ですくった。噛み千切った海老の衣にもそれは滲みこんでいた。肌寒さが一気に引いて、熱い波に体は浸かっていく。あいかわらず銀時も高杉も半袖だった。
食べ終えた直後、意識を手放した高杉の寝顔を目の下に見て、それから土方へとずらす。「ぬくもった意味ねェだろ」アイスの棒を握る銀時に、土方が言った。畳に流れる高杉の髪を、裸足の裏で踏みながら銀時は「さっきの俺にもやれよ」浮かしたそこに静電気でひっついてくる髪の筋をじっと見た。
「さっきの?」
「口笛キス?」反芻してくる土方に傾げた首で言い、畳に手をついた。アイスを一口齧ってから、ぱかっと開いた。おら、溶かせよ早く…舌に沁みていくアイスの塊を見せる。間近の土方の眼が、こちらに絞られる刹那に銀時は遅れて寒気を走らせる。口笛のかたちに、すぼめられる唇に笑った。次の瞬間、咥内に、吹き流れてくる曲に目をつむる。曲というより風だった。この夏の。血みたいになまぬるく、生々しい息の臭い。舌にかかるそれで、塊がどろりと溶けていく。口笛下ッ手だなァ、おまえ…拙い音階を一度飲み込んで言うと、土方はもっとかすれた。アイスがなくなるまで、吹かせ続けた。乾いた唇のささくれが、ずっとそよいでいたが、最後は千切れて血がでた。アイスの味なんてわからなかった。
アイスのなくなった、べとついた棒を捨てるゴミ箱が遠かったので、真下の高杉の顔に持っていった。どうせ悪夢をみているその顔をぺちぺちとそれで叩いて、べとべとになっていく様を見下ろす。殺されんぞ…、土方の横やりに「誰が?」と返した直後、手首をがっと掴まれた。ゆっくりと、そちらへ目を落とす。ブレる木の棒。殺気。銀時に隙はない。ただその隙をこじあけられた。次の瞬間にはひっくりかえされ、下に見ていたものが上になった。遅れて、ぶつけた肩の痛みがじわりと畳で伝わった。手の中にあったアイスの棒が、高杉の手にあった。げ…。嫌でも、こないだの歯磨き騒動が、ちらついた。
「まだ残ってんじゃねーか。余さず舐めつくせよ」
高杉の持つ棒が、迫る。上唇に、なすりつけられる。
開けたら終わりだ。奥歯に力をこめた。それでも強制的に、こじあけてくるそれが歯列に当たる。鼻を摘ままれた。クソと漏れた。漏れた一瞬の隙を、またしてもこじあけられる。差し込まれた棒で、粘膜をなぞられる。必然的に、唾液が生まれる。木の味に、滲んだ。こ、殺してェ…と細めた目に、高杉がぼやける。銀時は拳をつくった。噛み砕こうとした矢先、掻き混ぜていた棒がピタリとまった。
「おい銀時」
また、呼ぶ。今度はなんだ?
「血は足りてるか」
?
わけのわからない問いかけが、耳の穴から入って内臓をひとしきり巡り心臓に飛散する一瞬にそれは火花で散った。銀時は一気に思いだす。血の夕方に、滲む顔。頭蓋に響く、自分を呼ぶ声。肺いっぱいに取り入れた息と、目覚めた瞬間、咥内から垂れてきた血の色に首を傾げたあの日。自分のにしては、妙な違和感だった。わからなかったそれが一気に火花で散って、また血液へと返っていくポンプの動きに、ぶわっと熱が走った。
「た…足りてる。足りてるスゲー足りてっング゛ゥ…」
舌で言葉は塞がれた。頬の粘膜にある木の棒が邪魔して閉じることも叶わない。初めてではないと今わかったにしろ、体中の細胞が高杉としている現実にざわめく。押しのけようとした手も無意味だった。その間も、掻きまわしては蠢く舌に死ぬ。逃げをうった舌ごと吸われて泡立つ、その音に死ぬ。爪が食い込むほど拳に力をこめた。やられたら、やる。ずっと、そうしてきた。がっと、その頭を掴む。何本か抜けた毛の感触が指の間に絡みつく。頭突きする勢いで、自分から舌をつっこんだ。血がでるほど噛んで、自分の中に取り入れる。これ以上ないほど吸いとる。そうして、擦れ合った唇の生々しさは殴り合いでも知りえない味で、まだ知らないことがあるかと当たり前すぎる愚かな思考に視界を薄めた。
横でそれを見させられている土方は、終わりそうにねえなと銀時と高杉を繋ぐ唾液の糸に思う。なんにも変わらない。冷蔵庫をガンガン蹴る靴や、団地中を駆ける鬼ごっこの残響や、壁を破ってきた体から降る破片や、弁当屋や車の中でくずおれそうに混じり合っていた髪や、海で並んで立つシャツの膨らみも、すべては、肉と肉のぶつかるあの音だった。どこにいこうが、打ちつける波の音は変わらない。百年経とうが変わらない。
勝手にやってろと思い、手持ち無沙汰になった土方は煙草を吸いに出ようとした。よそへ向きかけたその土方の体は、突如、濁流にのまれる。伸びてきたヤツらの手に、ほぼ同時に鷲掴まれ、一瞬息を忘れる。全力疾走した後並みの乱れた息を上擦らせた銀時から押し寄せるそいつを、土方はごくりと飲む。
「どこ行くんだテメェ…」
口から垂れた唾液を手の甲でぬぐい、銀時は告げた。
「お前も、混ざるんだよ」
三枚の舌が、交ざり合う。合わさると舌の違いがわかる。一番厚みのあるのを、両側から噛んで滲む血に離れては、擦り合わせる。やわらかい部分もあれば、ざらついた部分もあった。啜った分だけ啜られた。飲み込むのが追いつかずダラダラ垂れ流れていった。顎から首筋、首筋から鎖骨へと伝っていくのを感じる。塩水に濡れていくようだった。だれかの喉を下っていく唾の音を聞いた。髪の一本一本に通る神経が指に絡まった。触れ合う皮膚の下にある骨を感じた。首筋に浮く血管の青い筋を、流れていく。畳に手をついて曲がる肘の角度を仰いだ。脇の窪みに差す影にぼうっと吸いこまれた。声を耐える息に、籠もっていった。そういうのは嘘をつかない。互いの指が、互いの穴を埋める。こみあげる。揃って色気のない呻きが漏れる。埋まってすぐ、抜けていく繰り返しは、果てるまで続く。「はいるところ、みせろよ」そう煽られた銀時が、土方の中に入った。入る刹那の、埋められていくのに怖ろしいほど来る空洞を堪え切れない。「お前の穴、泣いてる…」そう吹きこまれながら奥の奥まで探られる。よわい粘膜ぜんぶを擦って、揺すぶられる。それを、ビール缶に口をつけながら高杉が、見ている。水の膜をはったその眼が、打ち寄せる。小刻みに擦りあげられる中で、嫌というほど知った形が脈打ち、グプグプという結合音にまみれた。もがく土方の爪が、壁を毟った。水面がない。どこにもない。「テメェはまだいくなよ」背後で声がした。息を詰める気配の直後、ひとり押しあげられた先で、光に潰れた。そのとき土方の耳朶を湿らす息が、あった。それと同時に中にぬるくかかる一滴が、あった気がした。それだけを残して、完全に去っていく。振り返ったそこに、膝をつく高杉が朦朧と見えた。「って…めェ、殺゛す…っ」土方の中にいた銀時が、高杉の咥内に咥えこまれている。喉深くまで埋めて、また抜けていく亀頭を追う舌の皿を見た。そこで味わうように擦る。銀時の呻きすべてに濁点が含まれた。落ちているゴムの残骸、凹んだビール缶からこぼれた泡を、畳に見てから「っあ゛ー、くそ…」喉を反って天井を仰いだ銀時の目に、蛍光灯の紐が垂れてくる。無駄にそこに手を伸ばしたが、掴みそこなった。下腹が、震えだす。まだいくなよ、と、さっき堰き止めてきた高杉の眼が、明滅する。開閉する穴を塞ぎながら啜られて、だめだった。うっかり引き寄せられた。引き寄せられた先で、眼が交わった。刹那、出口を奪われ巡っていた中の血が一点に向かって流れだす波に思考は飲まれた。出口にいるのは、高杉だった。殴られて出る血のように、飛び散った。「っく…」高杉の顔が、白濁の血に汚れる視界に、食い入る。銀時はなぜか、この光景をずっと前から知っていた気がする。
寄せては返す、やつらの眼、狭い空間で息だけが混じり合い、揺すられる景色の、終わっていく感覚。土方はその波に殴られ続けた。やつらの地獄をそそがれ続けた。いった端から、また入られる。飲んだ端から、また注がれる。「混ざりたかった?お前も」いつかの銀時の眼が、精液の波に流された。高杉と土方の体にこびりつくそれを舐め、青臭ェと銀時が呟く。その青臭さの奥に、微かに灰を感じた土方は、死んだら灰になるもんなと妙に腑に落ちて、いずれ果てて灰になってくやつらを今、この手に掻き抱く。
てめーらが骨になった暁には拾いにいってやる…
何、お前の灰皿にでも捨ててくれんの…
じゃあ安心して、いけんなァ…
いつのまにか朝だった。終わった後の朦朧とした意識の膜に、交わっていた体が、ばらけていった。もうなんっも出ねェ…と転がったその並びは川にしては崩れすぎていて、そこに朝陽がきて、浸かっていく体の、心音を聞く。
陽に潰れた窓を、土方は見あげた。細めた視界に、ゴジラの絵が、透けている。以前ここにいた誰かが、結露を使って描いたそれを、指でなぞる。ゴジラのあたまに『M』を足す。ウサギの耳だった。世界に向かって火を噴くそれが、朝陽になった。
果ては、みんな灰…。
燃やされていく意識のふちで伝わる息に、さびしく脈打っていた。
砂の風が吹き流れる中、土方は帰ってきた。
昼間なのに静まり返った団地群の中を、自分の息だけがうるさく続いていく。隙間でブランコが揺れていた。ぐしゃりと何かを踏む感覚に目を落とすと、足元に紙皿が纏わりついていた。夏にバーベキューをしていた家族の光景が浮かんで消える。ちらと横目を投げた草地には、やつらのスカイラインが反射した。空き地に駐めっぱなしの車に、誰も文句は言わない。それとは別に、軽トラが敷地内に入っていた。その荷台に積まれたゴミ山を、枯れ草だらけの空き地に立って眺める。ゴミの中に人間が混じっている。土方の視線に気が付いて、荷台をひょいと降りた。近づいてくる。それは、いつかに大量の花火を押しつけてきた、おっさんだった。
「あんちゃん、全部、燃やしてくれたか?」
土方が頷くと、そうかと目の奥を弱めた。空虚なその目は土方を通り越して刹那、団地を見たようだった。そこを乾いた砂が流れていく。足元に溜まった吸殻が灰になって飛ばされる。生きてる端から風化する。荷台にゴミを積んだトラックを背に、土方は住棟の中へ入る。敷地を出ていくエンジン音が、かすかに届いた。3…2…8、ポストにつけたダイヤル錠を、合わせる。他のどのポストにも名前はなかった。今日もエレベーターは死んでいる。階段を踏む足音が荒い息になる。持っている紙袋がじわりと油に滲む。最後の踊り場を曲がった。チェーンで繋がったドアの隙間から、ひりつくような日没の匂いが漏れだす。
「あれ、弁当は」
高杉に上から腹を踏みつけられながらこちらを見あげる銀時の顔が、眼窩に残る陽に潰れる。振り落とされる足を避けた頭を揺らめかす静電気が、綿埃に見えた。
「閉店の張り紙出てた。だから、かわりにハムカツ」
ここも再来週には閉めるらしいけどな。紙袋から出したハムカツを齧ってくる高杉の歯からポロポロこぼれたカスが下の銀時へ降りかかる。てめェいいかげん足どけろ!!言いながらその食べカスを舌で舐めとった。
冷蔵庫のポケットのマヨ残量を見ていた土方は肩に重みを感じた。口んなか油っこい。と囁いてくる顎の振動が肩に伝わる。なんかお口直し的なん、ねえの。肩口
までニットをずり下げてくる手に、伸びる…と文句を漏らす土方は無視で肌を這う口は拭いてもないから油まみれだった。土方の肩につけた歯形を、なぞる。唾液にテカるそこを嗅ぐ。くせェ。銀時は薄笑った。「食わせろ、舌」土方のそれを食む。今朝、高杉に噛まれていた箇所と同じ所を歯で擦った。ひっこみかけるのを指で挟んで空気に晒され一気に乾いていくざらつきに自分の唾液を垂らす。舌先を合わせて啜る音に、くぐもる。開きっぱなしの冷蔵庫から来る冷気を顔に浴びながら、擦り合わせる唇の熱に蓋をする。土方の息が、喉奥までかかる。銀時はそれを飲む。微かに血の味に滲みた。その血は、ぬくかった。人生が、混じる。土方の中にいる誰かを、銀時は感じる。なぜか電柱の根元に咲いた三つ葉が過った。自分達にとっての、あの些細な目印が血の風にそよいでいた。混じる夕方。記憶。土方の喉が上下する。受けとる銀時の血に、高杉がいる。落ちない日の血で、燃える。ばらけても離れない。
ぐじゃり。
柔らかいなにかを潰す感触に、手が濡れた。
口を繋ぐ糸が切れる。
「……忘れてた」
土方の手の中にあるそれは、わずかに潰れていた。千円以上買ったら半額のあの日、最後に銀時が手に取ったその桃は、ずっと冷蔵庫の奥に転がっていた。
「ギリギリ食えんだろ、まだ」
銀時の手が、傷みかけの桃に生えた産毛を撫ぜた。「あーグジャるな、これは…」切り分けてから皮を剥く。動く刃先に、めくれていく皮がボトリと落ちる。
「そういや管理会社。電話しといた」
皮を剥く手はとめず、告げられた言葉に土方は桃から目をあげた。
「もういいってよ、直さなくて」
「だろうな」
「なんせもう俺らしか住んでねェ」
来年には更地になるここに今立ち、息をしている。桃の皮を剥く手を、待っている。最後の皮に、刃先が入る。そこにかかる銀時の息が、わかる。
「なんで果物って、果ての物って書くんだろうな」
銀時の眼は、潰れてグジャりそうだった。高杉の眼も、そうだった。
汁がこぼれそうだと土方は思い、
答えかけた口を噤む。まな板に落ちる影が濃くなった。
銀時が顔をあげる。土方の手が伸びる。一秒。抱きしめられた。背中にまわる土方の手。髪に埋まる鼻先からの息。体温。匂い。ぐじゃり。潰れた汁を波打たせた銀時の眼に、切った桃をすくう手がぼやける。もってくぞ。二本刺したフォークが柔らかすぎて倒れるのに、沁みていく目を瞬かせた。
「腐りかけで、食えたもんじゃねェな」
種の周りに残る身を、むしゃぶっていたところへ背後から声がした。カラになった皿とフォークがシンクに雑に置かれて音を立てる。食ってんじゃねーか…すぐに去ればいいものを、そこに凭れて居座る。桃の汁を喉に引っかけて咽る銀時を、眺めている。
「…ゲエッホゲエてめ゛ー高杉゛…ゲホッゲホ…ッ」
「汚ェなオイ」
「…はあ゛俺も折れてんじゃねェのか、コレ」
そう言ってアバラを上から摩る銀時をチラと横目に見た。「そこまで強く蹴った覚えはねェがな」高杉の声が腐りかけの桃なみに、咥内で啜るそれに混じりこむ。銀時のふせた目に波打つ汁が、桃のタネを絞る手からも、咽ながら空気を求める口からも、
「息が、痛ェ…」
ボトボト垂れ落ちる。
夕方、スカイラインの窓を小突いた。なにをどうしたらそうなるのか、シートが抜けてひっくりかえったその下に、埋もれた足が見えた。その足が、パワーウインドウのスイッチを押し込んで半端に開く窓の隙間に、風が入り込んでいく。散乱したゴミは滑り落ち、塵埃が舞いあがるそこにシートを抱き枕みたいに抱えた白い頭が転がっている。
「もうひとりは」
「知るか…」
着ているパーカーの紐が抜けて、垂れていた。シートにも窓にも体にも痕が残っていた。隠す気もないらしい点々と体に残る痕が夕暮れに薄赤く、まぎれる。殺り合ったか、ヤり合ったか。どちらにしろ、つく痕だった。どちらでも同じことだった。
「あー…今、一瞬…」風に混じって聞こえるその息が、夕日に飲まれる。
「あした死ぬ夢、みてた…」
今どこかで高杉もみていると、土方は沈む日に思った。今、自分もみていると土方は終わる今日に染まりながら息を吸った。肺が夕方の匂いに膨らむ。スウ…。それこそ死の直前にも似た深い息に振り返ると、二度目の眠りに沈んでいく顔があった。
今日の残りかすを、土方はすくうように歩きだす。
ブランコが揺れている。自販機が滲みだす。何度も通ってきた道を歩きまわる。歩くのに合わせてブレる自分の手が空を切るたび、どこにも繋がっていない感覚で、からっぽの犬小屋を前に、フェンスを鳴かす。網目に食い込む手が冷えていく。繋いだ手の熱を覚えている。手の皮に残る記憶はひとつじゃない。混じる。今日を終えた数だけ。明日に届く数だけ。混じって巡る。蓋の開いた側溝を、濁った水が流れていく。降りたシャッターに閉店の張り紙がはためく。外で重なった丸椅子からはみだす綿が内臓のようだった。粉物屋が、看板に火を灯す。ここらで唯一の娯楽・パチンコ屋の喧騒を通過して、壊れて閉じ切らない扉が透けた公衆電話が、眼の端に流れ去る。道が波打っている気がする。風しかない。反射的に仰いだ空に、息を漏らす。果ての空へ、目を飛ばす。
「高杉」
煙草自販機の前に、高杉は立っていた。沈みきったと思った日が、まだ残っていた。消え入る日が、高杉を滲ませた。横に立つと、吐く煙が流れた。その風の流れる先、遠くにも、たなびく煙があった。煙突だった。あのあたりには火葬場があった。
「銭湯の日…」
高杉のそれが風に混じって届く。なんだそりゃと土方は思い、セン…トオ…と口の中でボソボソ反芻するうち、笑いがこみあげた。
「極楽、極楽…」あの煙がなんだろうとアイツなら、そう言う気がする。
身震いで銀時は起きた。ここがどこだかわからず巡らす目に、闇がかかる。睫毛の先に伝う雫が瞬きで落ち、視界を揺らめかせた。埃っぽい空気に咳き込みながら起こす体があちこち軋む。車の中だった。うつろな銀時の目が、ガラスへ走る。夕日に浸かっていたはずが、夜になっている。放置かよ、と独りごち、外に出た。風が冷たい。足に闇が纏わりつく。夜の手を感じる。ここに越してきた夜を思いだす。ふらりと一歩前に出て、顔をあげる。団地群が風で迫ってくる。轟音。流れ散る。生まれついての白い髪。これだけ無数の窓があって、火が灯っているのはひとつしかない。最初の日も、あの窓は灯っていた。歩きだす。息を吸うと、あの火が滲む。滲みて、揺らめく。爪先が何かを蹴った。草地に倒れたそれを見る。『年内、解体予定』の字面が、砂で汚れた。ブランコがぎいぎいと揺れている。草に引っかかった花火の残骸を拾い、ゴミ箱に捨てた。真下から見あげた外壁の剥がれた痕、今、手でおさえている脇腹の痕、これまでの高杉との痕、ここ数日、別の意味で散々つけられた痕、それらもいずれ灰になり、なにもなくなる。更地になる。
てめーらが骨になった暁には拾いにいってやる
銀時は笑う。そうか。じゃあ俺らは安心だ。真上で揺らめく光に、目を細めた。集合ポストの、唯一入っている"土方"の名前をなぞる。指の腹にざらりと触れた名前の感触を、擦り合わせる。そこに、ポケットから出したキーホルダーを差し入れた。手垢まみれのイチゴ牛乳が指から離れていって落ちる。落ちた音の余韻で、階段をのぼっていった。荒い息に籠もる。乱れ打つ脈に、支配される。最後の踊り場を曲がったそこに、滲む光、波打つ息の果てで、ふたつの影が揺らめいた。ぼそぼそ籠もる低音の声を拾い、影がちらつく換気窓に目を這わす。むっとくる湯気に、肌は汗ばんだ。隙間から覗いた黄ばんだ光に、混じり合う黒髪から滴る雫が降る。まったく澄んでいない濁った湯の中の揺らめく裸に目をそそぐ。
「おい垢か、それ。チンカスじゃねェだろうな」
揃ってこっちを向いた顔が、水飛沫をあげた。飛んできた鉄砲玉に、水浸しにされた顔面からポタポタ降り落ちる。ぬるいそれがシャツまで濡らして玄関にまわる。扉の先の、黄ばんだ光に取り込まれた。やつらの履物が並ぶそこに自分も脱ぎ捨て、風呂場へ向かう。脱衣所に散乱する服を踏みつけて、その先の木製ドアを開け放った。
湯に浮いていたのは垢ではなかった。灰だった。浴槽に灰皿を浮かべて煙草を吸いながら浸かる高杉と土方ふたりの目線が、タイルに立つ銀時をとらえる。
「お前ら、それ洗ってんの。汚してんの?」
そう言いながら自らも服を脱ぎ始めた銀時を、映す瞳がぼやける。湯気なんだか煙なんだか、わからない。滲みていく。パーカー・シャツとタイルに落ちて、体に残る痕に、こちらの雫が伝う。足首から抜かれたジーンズが濡れて深く青みがかる。ダサい柄のトランクスも一緒に抜かれる段になって、いや何脱いでんだテメェと突っ込んだ。
「俺も入る」
ぺたぺたと裸で近づいてくるのに、さっき以上に水鉄砲を飛ばす。ただでさえ狭ェのに入るかテメェみたいなデカケツが。入る入る。と突っ込んでくる片足で波打つ灰皿から、さらに湯に落ちていく燃えカスに土方が叫ぶ横では、てめェ汚ェもん入れてんじゃねえと殴る高杉の拳が飛沫になった。ぎゃあっチンコでシャドーボクシングはやめろ!!と喚きながら湯の中で足を滑らした銀時の石頭にひたいを殴られ、一緒になって沈む。鼻から口から耳から泡を出しながら土方は、灰まみれの湯の中で薄っすらひらいた目を揺らめかせた。それは百年後には、十年後には、来年には、次の季節には、明日には無い。明日にはない手を、掴む。今掴める手の、熱に脈打つ。ぐいっと引っ張り上げられる先に、水面が見えた。爪先がそこに届いて掴む水の、ぬくい光に導かれる。引きあげられた手はそのまま、やつらの肩にまわり、水面から出た最初に吸いこむ息が笑いになる。
「灰も垢もチンカスも飲んじまった」
穴という穴から色々垂れ流しながら同じ息で笑う残響、
それらぜんぶ灰になって、脆く、波に遠のいていった。
2018.11.04