5、防波堤

 高杉が、あの口笛を吹いている。途切れがちの、かすれた音階を。破れた壁の穴からその音色が、伝い続ける。土方は今日も、その穴に足を踏み入れた。高杉の目線は外じゃなく中に向いていた。手すりに背中で凭れ、部屋の方を空虚に見るその目つきは赤らんでいる。高杉が仕事で着ている、あのウサギのようだった。その赤らんだ目の先に、何がいるのかは知っている。それを目の中央に据えながら、時々かすれさせる口笛が完全に途絶えて、ふいに土方の方を向いた。目で、呼ばれる。体が勝手に吸い寄せられる。口笛を吹いていた唇に、隙なく覆われる。くぐもった声が出た。混じり合う息にまだ高杉の吹く音色のカスが残っている気がした。これを銀時が見たらどうなる。殴る気がする。誰が、誰を。わからない。わからないが誰かが殴って、誰かが殴られる。みんな痛い。高杉の爪が背筋を這う。耳朶に歯を立てられる。離れた歯から伸びる唾液の糸を感じた直後、「銀時だろ?」と囁かれた。そのろくでもない声が血を巡る。違う。違わねえよ。後頭部に這わされた指先に髪を掴まれ、奥歯を噛む。噛みしめた隙間から荒く漏れでた。
「てめえだろ、それは」
 土方を内に巻き込んで、その目は笑う。その眼差しが、土方をえぐる。高杉を通して見る銀時は、かなしい。痛みがわからないのが痛い。銀時の名前を出しながら耳朶に食い込んでくる高杉の、息に、思考は籠もる。ああ、こんなのは。
「てめえらは、穴だらけだ」
 口にすると、とてつもなくそうだと思えて、土方は堪らなかった。ふらついた体が、背後のガラスにぶつかった。どんと鳴ったガラスの振動に、体中が波打つ。ガラスの向こうで、「ううん…」という唸り声がした。銀時だ。すぐそこにいる。寝返りをうったのか、仰向けに跳ねた手首が、かすかに横目をかすめた。
「あるだろうが、お前にも」
 高杉の親指が、血の溜まる土方の咥内に差し込まれる。
 中でくいと曲げられた。その指を伝って外へツウと垂れ流れていく。
「ちょっとやそっとじゃ埋まんねえ穴が」
 高杉のその声に閉じる前、土方の眼には。
 銀時の読みかけだろう、ジャンプの頁がパタパタと捲れていった。


「おい、洗ってる端から浸けてくんのやめろ」
 あと少しで洗い終えるところへ洗い桶にスプーンを落とされた。約一分前にはコップを置かれた。苛立つ銀時の目の下で、ゼリーのついたスプーンが水中へと潜っていく。微妙に足りない洗剤をむりやり水で泡立て、スポンジから絞り出たそれがシャボンの玉を生んだ。ふわふわと目の先を飛ぶ泡の塊には束の間の平和があった。なんとなく目で追う。と思ったらすぐ割れた。かわりに、そこに立つ高杉の、氷を鷲掴みで食う顔を見る。沁みた顔ひとつしないでガリゴリ噛み続ける。なんだこいつ、と臨戦態勢になったところへ唐突に伸びてきた手に触られた。ペタっと頬に吸いつく冷たさに跳ねた銀時の手から落ちたスプーンで、水も跳ねる。「つめてっ…」思わず掴んだ高杉の手首はびくともせず、頬にはりつき、離れない。「いや何、お前…」握る手首に力をこめたそこから、洗剤の泡が垂れた。すぐにでも殴れる距離にいる。瞬きを忘れた目が乾いていく。近すぎて、目の前の高杉が滲む。この乾きを、知っている。こんな風に滲んでいく高杉を、どこかで見た。
 アレは、どこだった?
 その日、真昼間の団地を、抜け殻の三人で飛び出した。籠もっていたら昇天する気温だった。偶然にも飛び出すタイミングが重なったことで、土方も同じ道をついてきた。土方の今日のTシャツはレオンとマチルダだった。記憶の中のマチルダが喋る。『大人になっても人生はつらいの?』ああ、つらいさとドロドロ溶けそうな脳味噌で銀時の中のレオンが答える。池にでも飛び込んだんですか?と言われそうなほどぐっしょり濡れたTシャツはお互い様だった。高杉は最初の日に着てきたアロハだった。似合わねえ。どこ行く気だよ。熱さで取っ散らかった銀時の思考に、あの犬小屋が入り込む。たぶんここにいる犬を高杉は知らないと思い、土方も同じことを考えたのか、ゆるくなった足取りに高杉が振り返る。なんだと傾けられた首に、土方が何か言うより早く、別にと返した銀時は歩きだす。犬小屋にあの白い犬はいなかった。昨日通ったときには、いた。餌も食べた。銀時に吠え、土方を舐めた。今そこは、からっぽだった。千切れたリードと空の餌皿だけがあった。ふいにふわっと高杉の髪が波立った。時間差で、その風は来る。道を、走っていく。
 駅前の、ショッピングセンターに初めて足を踏み入れる。ある程度涼めたら、どこでもいい。このへんで唯一の買い物スポットとは思えない廃れた吹き抜け空間をぐるっと見渡しながら、適当にぶらつく。とりあえず腹ごしらえ…と入った食堂は寂れていながら、どっから沸いたという中年層でひしめき合っていた。空席を探して奥に行く間、じめついた中年達の視線が無遠慮に自分達に這わされる。そんな中、目の先で揺れる土方に、銀時の目はいく。どこにいっても、よそ者を見る目の中で、土方のそれは少し違う。愚かなほど自分達を、たやすく受け入れる。
 二人がけの席に、隣から椅子だけ一脚持ってきて狭苦しく三人で収まった。四人がけの席にひとりで陣取っている周囲に眼球を巡らす。「おい白髪。鬱陶しいから、あっち行け。おっさんと相席してこい」その高杉の椅子をガンっと蹴って黙らせてから、一向に注文を取りに来ない店員を呼ぶ。椅子の背凭れを掴みながら体をよじって振り向く目に、チラホラ入ってくる。テーブルや椅子に引っかけられたものの存在に気がついた。
「雨ふんのか今日」
「知らねェ」
「傘持ってるやつ多い」
 運ばれてきた味はそれなりだった。
「お前、食堂開けるんじゃねえか。ここより流行る」
 途中、真顔でそう言った土方に銀時は、むせかけた。
 土方のその咥内から出てきた魚の小骨をじっと見る。「刺さるとこだった」言って、脇に避けられたその破片を、じっと見る。皿の上には骨しか残っていない。こんなふうに食われたら、魚も本望だろう…銀時の死んだ目が薄笑う。
 暇潰しに寂れたショッピングセンターを歩き回った。二階分の吹き抜け空間を、ぐるっと。二階の隅っこにクレーンゲームだけ置いてあるスペースがあって「あれって、バイトでお前が着てるウサギじゃねえの」適当に小銭を投入した。タグの紐を狙って、アームを操作する。そのたびツメが紐を引っかけ、僅かに持ちあがっては落ちる。その繰り返しを無心でやった。少しずつ、こちら側にずらしていく。そうしてウサギに狙いを定めるうち最終的に取るのに二千円もつぎ込んでしまった。まったくいらねえ…手に入れたファンシーなウサギを手に銀時が振り向くと、二人がいない。どうせ煙草と見当をつけ、銀時はウサギを抱いてひとり歩く。通りがかりの喫煙所に、それらしき影を見つけた。外に伸びた影を目の下に見る。漏れる会話に、笑いが混じるのを聞く。一歩、足を引いて、そこから去った。


 デパートの屋上によくあるコイン式遊具に跨って、吹き抜けから下をぼけっと俯瞰する銀時を見つけた。見事なまでに怪しさしかない。土方はその背中に歩いていく。近づいた銀時の小刻みに振動し続ける膝の間には、先ほどクレーンで狙っていたウサギが乗っていた。
「おい不審者」
 ブレた顔がこちらを見た。明らかに許容体重を超えた重みで墜落しそうな飛行機に跨った銀時は、振動したまま、膝の間のウサギを手を使ってピンと立ててきた。裏声で『土方くん。ぼくを買って(はあと)』。
「卑猥なウサギだな」
「ウサ杉だからな」
「ウサ杉ってお前」
『土方ァ、三千円で俺の体、買えよ』
「ぶっ、やめろ…って三千円もつぎ込んだのかよ」
「いや二千円」
「上乗せしてんじゃねえか」
 バカな会話の流れを切って、「で、ウサギじゃねえ方は?」と聞いてくる銀時に、「そこの文房具屋」と答え、立ちあがった。あー待って待って後1分。飛行機の上で言いながら銀時は喉をのけぞらせて逆さに、土方を見た。その土方の後ろについて狭い文房具屋に踏み入る瞬間、ふっときた匂いに、銀時は喉を締めつけられる。それはどことなく懐かしい色を帯びて、奥の高杉まで続いていた。陽も射していないのに、その後ろ姿を見ると、黄ばんだ光に舞う埃を吸う気がした。肺いっぱいに、それは来た。今日まで生きてきた、どの時点の、どの場所を振り返っても、高杉はいる。いるせいで、銀時は散々だった。若干、咳き込みながら土方との間に割り込むと、思いきり足を踏まれる。胸に抱いたウサギには、何も突っ込まず、顔をそむける。銀時は目の前の棚に視線をずらした。『どこに書いても絶対消えないマジック』という手描きのポップを見つけ、へぇ、どれどれ、と手にとった試し書き用のマジックを高杉の手で試した。何してんだテメェは。引っ込めようとする手をぐっと掴んで、おお書ける書けると、高杉の手の甲にインクを走らせた。試しに擦っても取れない。
「何だ、この汚ェ数字」
「番地。団地の。覚えろよ。タクシー乗っても道を説明できねェバカ杉くんが、迷子にならず、おうちに帰り着けますようにってな」
 拳か蹴りかが飛んでくるのを予測して身構えた銀時は、無言でその手のメモを見下ろす高杉が、拍子抜けだった。「土方くんも何か書けば」とバトンタッチしたら、実は試したかったらしい手が素直に受け取った。抵抗もせず、黙ってメモ帳になっている高杉が不気味ながら、覗きこんだ土方の落書きを目にした途端、銀時は殺されるかと思う。それは世にも奇妙な、ウサギの顔だった。下手糞すぎる。笑いすぎて捩れそうな腹に、やっといつもの高杉の容赦ない蹴りが来て、咳き込んだ。死ぬほど咽せても、笑いはやまなかった。
 しつこく笑いをひきずったまま一階に降りるまでのエスカレーターでしゃがみこんだ。はあ、とそこで息を落ち着かせる。吹き抜け空間に漂うイルカのバルーンを、ぼうっと見あげる。肩で振り返ると、高杉も土方も当たり前にそこにいた。目を細める。
 降りた先、中古CDのワゴンセールが目に留まった。適当にばらついて、物色する。日本語の曲名がない。うろつく間、延々とバックにかかる名作映画のカバー曲に鼓膜を浸したまま巡らせた目に高杉を映す。近いと、つい余計な口をきく。
「今かかってる曲、なんて言ってる。訳せよ」
 上を指して聞くと、こっちにズれる胡乱げな目がある。
「よく吹いてんだろ、これの口笛。お前」
 CDケースを握る高杉の、手の甲に目がいく。さっき自分と土方で書き殴った番地とウサギの絵が、その手にあった。絶対消えないという謳い文句の、今は濃いそれが、何日で薄れていくかを、滲む目で思った。

「どこへ行こうと
 最後の息は お前にとっておく
 同じ虹の果て」

 一息で言って、声を途切れさせた高杉の眼がふいに自分を刺す。
「え」
「これぐらい聞き取れよ」
 さっさと別のワゴンに向かう背中を見て、「あ、あーへぇ、そういう歌詞…」と遅れて返すが、高杉には届かず独り言になった。終わったと思ったら、また最初に戻って流れだすその曲に、銀時は浅い息を繰り返す。

 ただ、繰り返す。


「ここらに吹く風って、海っぽい」
 外に出た瞬間の膨らむTシャツから、肌色が覗く。無意識か、まだ痛むのか。時々、脇腹の傷痕に手を当てる銀時の、風を受けての呟きが土方の耳に、はためく。
「事実、近ェからな」
「近い?どこにも見えねェじゃねえか」
「いや、このバスの終点は海って聞いてる」
 時刻表を見あげて言うや否や、無言の高杉が停留所の錆びたベンチに座った。え?と目で追った先で足を組む高杉に、横の銀時が舌打った。ったくガキの放課後じゃあるめえし、と、その口が言った。今日半日の流れを思い返す。クレーンでウサギを取り、文房具屋で手に落書き、ワゴンセールのCDを物色し、極めつけは終点の海に行く。確かに青臭い。思いながら土方も、付き合うのだった。どうせ何もすることがない。
 車内にも傘がちらつく。終点までの間を、不規則に揺られていた。終点だからいらないというのに、銀時が降車ボタンを押した。点灯する「次、停まります」。高杉の「降ってきた」という呟きに窓に焦点を絞る。こつっ、こつっ、と数滴の雫が窓を飛沫いたと思ったら、次の瞬間には殴りつける雨に変わった。車両で、傘を持たないのはこの三人のみだった。夕立だろ、と土方は目を瞑る。閉じてすぐ、終点を知らせるアナウンスが流れた。次は××終点です。傘などお忘れ物のないようにお願いします。
 初めて降り立った終点は、なんにもなかった。激しい雨に殴られて、川と化した道を見る。これが海なんじゃねえの?銀時が呟いた。その声も霧散する。瞬く目は霞がかり、視界に降りかかるもの以外、何も見えてこない。躊躇なく高杉が雨の道に踏み出した。口閉じてねェと飲んじまいそう、という一言で銀時もあとに続く。一瞬でずぶ濡れになる二人を数秒目にとめ、土方も足を踏み出す。踏み出した先から、浸かっていく感触があった。一歩が重い。川の中をざぶざぶ進むのに近い。確かに口を開けたら飲みそうだと思い、鼻で息を吐く。吐いて、また吸う繰り返しに、むっとくる臭いは何かが懐かしい。海あがりに歩く体から放つ臭いだと気づき、土方は目を凝らす。近くの、濡れた肌色が目に入る。
 どしゃ降りの中、最初に目にしたのが、たこ焼き屋だった。人けもない道で、こんな天気でも、営業していた。道に立ち止まって、それを見る。まわりの余った生地を中に掻き集めるようにして、ひっくり返す手つきを、ぼうっと見物していた銀時が、「おっちゃん、一パックくれ」と言った。いやどう考えても雨でべちゃべちゃになんだろうが…と睫毛を瞬かせた土方の前で、銀時は着ているTシャツを脱いだ。一気に見える肌色の面積が広がった。顔や末端の日焼けと違い、あらわになったそこは白かった。典型的な、ドカタ焼けだった。小銭と引き換えに受け取ったタコ焼き六個入りのパックを、脱いだシャツで覆って雨から凌ぐ。「公然わいせつ罪」「海では誰もが脱ぐだろうが」見通す先には、高杉の影だけがあった。ぐしゃぐしゃのTシャツの下でごそごそと爪楊枝に刺して、みるからにデカくて垂れそうなそれを口に放り「あ゛っつァ」と口を抑えて跳ねる銀時を置いて、土方も歩きだす。
 小降りになってきた。雨はやみかけにも関わらず、鼓膜を殴りつける音はやまない。雨音と思っていたそれは潮騒だった。その切れ端が、風に運ばれてくる。生臭い磯の匂いが、吸いこむ空気に混じる。火傷した…と舌をだす銀時が次に見つけたのはセブンティーンアイスだった。近寄っていって、ポケットから出した小銭を数え、足りなかったのか振り向きざまに「百円貸して」と手をだしてくるその顔はまさしく青臭い放課後の光景だった。差し出す百円がたぶん永遠に返ってこないのも。引き換えに、「食えよ」と押しつけられたタコ焼きのパックを見下ろす。銀時が濡れたTシャツをぐっと絞ってボタボタ落ちる水滴が、足下の水溜りに波紋を生んだ。「つ゛めてッ」今度はアイスに沁みた顔でびくっと跳ね、跳ねた拍子にイチゴの部分が欠け落ち、落下していく。落下先の銀時のジーパンにみるみるそれは滲んでいった。やっていることはガキだが、上半身裸なうえ、穿いてるジーンズにべったりつけたイチゴの赤に「ますます犯罪臭えぞ、お前」。
 冷めたタコ焼きを胸に、高杉に追いつく。黙って差しだすと、直接、手で掴みとった。頬張る口から漏れだす、咀嚼の音を聞いた。ソースに汚れた指を擦り合わせ、そこから飛んでいく鰹節の粉が目を流れる。砂が入ったみたいに、目の奥が沁みた。


「思ってた海と違う」
 行き着いた海を前に、しゃがみこんだ銀髪からパラパラ雫が散った。たまに残滓が降るだけで、雨は、あがりかけていた。防波堤から眼下の海を覗きこむ銀時の、しゃがんでずり下がったジーンズから下着がちらつく。そこにも散らばる苺を、土方はじっと見る。
「これ、どっちかっつうと『ソナチネ』で、クレーンに吊って沈めてた海だろ」
「じゃあ沈むか、お前も」
「やってみろ。道連れにしてやる」
「それで溺れんのはテメェだけだろ。カナヅチが」
 カナヅチなのか…と耳をそばだてながら土方は煙草に火をつける。ソースの濃いタコ焼きのせいか、異様に喉が渇く。セブンティーンの横にコーヒーのある自販機もあったと思い、「喉乾いた。買ってくる」と言う土方に、銀時は舐め終えたアイスの棒を差し向けた。唾液塗れのそれを受け取らずにいると、その棒で渇いた土方の唇を叩いてきて「間接ちゅー」棒読みで言った。なにやら余計に渇いた。そのとき、やつのしゃがむ足下に擦れた泥の跡が見えた。高杉の足下にもその跡はあった。ひとり自販機まで引き返していく土方の歩いた後にもその跡はついていた。雨の中、ろくに足元も見ずに歩いてきた。うまく避けていたら汚れずに済んだかもしれない。途中で一度だけ振り返る。ふたりにすると、本気で海への沈め合いが始まる気がしたからだった。予想は外れ、銀時と高杉の二人は、静かにそこにいた。土方は二人の過去を知らない。名前でさえ全部は知らない。殴り合おうが、罵り合おうが、やつらは出会ったときから二人だった。離れて歩き出すと、声は聞こえなくなった。自販機を目指して歩く土方の耳には、もう防波堤に打ちつける波の音しか拾えない。


「ラーメン啜る音…」
 飛沫く波の泡を目の下に見て、漏れた銀時の感想だった。垂れてきた鼻水を啜る。なにかを啜るときの音に、この波は似ている。きれいな音には程遠い。汚い濁音だった。肌寒くなってきた。露出したままのそこに上から灰の塊が降ってきて再び、「あ゛っつァ」と悲鳴をあげる。テメっ俺は灰皿じゃねーんだよ!!肩にかかったそれをパッパと払いながら斜め後ろに眼を飛ばす。高杉の髪が風に煽られる。その風に水が混じっていた。雨の残滓か、飛沫く波か。生乾きのTシャツに頭を突っ込む。「うわ、くっせえ」発酵した汗臭にずぼっと包まれ、よれた襟から顔を出そうとして鼻の出っ張りでひっかかる。日が暮れてきた。完全に日が落ちたら、このあたりは真っ暗闇に違いない。きっと何も見えない。今は見えている高杉も、気配でしか感じなくなる。存在が、その息だけになる。
 ふいに高杉の手が銀時の背中をかすめた。肩で捩れているシャツを腰までひっぱりおろそうとするだけの、なんでもない手つきだった。ふと銀時は今朝、触れられた頬を意識する。自分達にとって、触れるは殴るに近かった。痛みで存在を確かめた。なんでもない高杉の熱が、日々の中で時々、肌をかすめる。そうして銀時のシャツをおろそうとした高杉は、突然その手をとめる。なにかに奪われるように真横へ走った目が、空の、ある一点でとまる。その唇が薄っすら開く。銀時といえば、捩れたシャツを掻き集めるように高杉にぐっと掴まれているせいで、ますます鼻にシャツが引っかかって息苦しい。覆われた鼻・口が窒息寸前でもがく。内に籠もる自身の息で、はりつくのと浮きあがるのを繰り返すシャツに、いやなんだこれ。殺す気か。新種の嫌がらせか。
 すうと細めた目に、自販機から戻ってくる土方が点で見えた。
 同時にこちらの空気を奪って吸う高杉の息が、背中にかかる。
「銀時、あれ見ろ」
 そのとき、鼻とシャツの間にできた隙間に手を突っ込んで、ようやく息を確保した銀時は、「誰が見るかよ」と青筋立って、高杉の見つめる先を見なかった。
「テメェが見ろって言うもんは大概俺の見たくないもんだろうが。グロいのとかオバケとか」、オバケの部分は小声で言った。その手を今まで何回食らったか。
 手で衝立をつくるようにして頑なに見ない姿勢をつらぬく。点から棒になりつつある土方のほうへ足を踏みだした。強く掴まれ、伸びるまでひっぱられていたシャツから、案外あっさりと離れていく高杉の手を感じた。歩きながら、見ないと言ったもののやはり気になるのが人間の性で、衝立にした手の隙間からチラと横目をおくる。なにもない。指の隙間を広げてみても、なにも見えてこない。
「?」
 立ちどまった。なにもない日暮れの空にじっと見入る。
 そこへ合流した土方が、なにげなく言った。
「今そこに虹、出てたな」
 すぐ消えちまったが、と同じ空の方向を見て言う、その黒い瞳に、「虹?」と繰り返す。土方のそれが遠くを見て、よわまる。銀時はもう一度、「虹…」バカみたいに反芻した。
 この日、銀時と高杉は、一緒に見られたはずの虹を、見逃した。
「それならそうと言えよ、バカ杉…」
 文句を言おうと振り返った海の手前、

「……高杉?」

 そこにいた高杉は、どこにもいなかった。