4、微生物

 夢から覚めたら、銀時の目と合った。瞬間ひるむほどの、夢よりかなしい目に息を呑む。何かを言おうとした声は、音にならなかった。あまりに渇いて、口の中が夏だった。ああ嗄れる。顔が近い。どこにも触れていないのに、ぜんぶを触られている気がする。触れているのに、どこにも触れていない気のする高杉と、同じだった。一ミリも逸らせない。その死んだ目が、何も言わずにまた閉じるまでの、気が遠くなるような生きた数秒に、土方の脈はどくりと打った。目をあげて、ここがテーブルの下だと気づく。上から垂れてくる手首が見えた。それは高杉の脈だった。人の呼吸を掻き乱しておいて、二度寝を決め込んでいる銀時の息を、かざした手で受けとめた。なまあったかい。湿ったそこを、握りこむ。


 起きたのは昼を過ぎていた。油でぎとぎとの換気扇を指でなぞる。指でぐるぐる羽根を回すうち、引っ込んでいた吐き気がぶりかえす。テーブルの下では銀時がそこらじゅうに転がっている空き缶を手にとっては潰していっている。その音が頭蓋に響く。ガンガン響く。吐いた直後の酸っぱい咥内を水で潤して、幾重に揺れる部屋の視界で、高杉の姿を探すが、いない。さっきまでは、いた。便所で吐瀉する自分を、なにをするでもなくじっと見てきた。びくりと浮く肩に、高杉の湿った息を感じた。またもや磁石がひっつきそうな距離で、こちらのゲロくさい息を浴びた高杉の眼を覗きこむ。明けない夜の眼だった。噛み合うような数秒が流れ、あと数ミリで唇が合わさる間際、土方はその眼に投げかけた。
「お前、アレしか眼中にねえだろ」
 近すぎる瞬きが、こちらの息を嚥下する。ひびわれて見える唇が持ちあがる。
 笑った。
 立ちあがった高杉の顔が視界から外れ、膝から下の隆起を辿る。それもすぐ去って、残ったのは目の下にちらつく灰だった。それだけを、この場に落としていった。土方が「アレ」呼ばわりした先には、テーブルの下で伸びてる銀時の、上下する胸がある。膝を立てようとしては何度もテーブルの裏にぶつけ、ハッと覚醒しては再び落ちているのがアホだった。その銀時を指していた指を崩す。便器を掴む。高杉の目がこびりついて、吐き出しても剥がせない。さっきのあの笑いが、答えだった。どこにも出口のない、穴だらけの笑い方。それでも萎めない風船が、じっとトドメを待つような。なにもない。何も眼中にない。アレ以外は、とヨダレをぬぐって見遣る先、また持ちあがる銀時の膝がテーブルを浮かした。
「床が傷む。後、うるせえ」
 バキッと缶を凹ます手がとまる。テーブルを裏から振動させていた貧乏ゆすりもやみ、しんと静まりかえる。「小便…」直後、目の下のテーブルが喋った。その木目に向かって、勝手に行けよと返す。むり動いたら膀胱がジ・エンド…俺のかわりに行ってきて…。テメーここで漏らすなよ?じゃあせめて引っ張って…と、か細い声に下を見ると今度はテーブルから二本の手が生えた。はあと溜息吐いて、しゃがみこむ。掴んだ銀時の両手首はぬるく、脈打っている。逆さに目が合う。土方は、その死んだ目を探る。探ろうとした。そのぬかるみに沈んでいく何かを、見つけだす前に、ふいと逸れた。


 たまに昼夜の食事を分けてもらうかわりに、洗濯機のないやつらの衣服を一緒に洗濯してやる。ある日カレーパンの中身のカレーをごはんにかけて食っている土方を見て、「お前…かつての高杉と同じことしてんなよ。バカに見えんぞ」と銀時が髪を掻き毟った。そこから、二人分も三人分も変わらねえと差し入れるようになった銀時の料理に餌付けされ(シチューの残り汁で、なんでオムライスにかけるデミグラスソースが出来るのか?)、銀時の買い出しメモは日に日に増えていく。明らかに渡した金額分をオーバーしては今週足りなくなったと言ってくるやり口はヒモそのもので、お前はヒモか?と口に出た。「腹減ってるときにスーパー行くとつい買いすぎちまうんだよなァ」仕方なく追加で渡してやった二千円を、受け取る指の、皮がめくれた肉を見る。包丁で切りでもしたか。「あ?あー…噛まれた」と、なんでもなく答えた銀時を思わず見た。直後、背後では冷蔵庫からバラけて落ちてきたヤクルトに舌打って、しゃがみこむ高杉の背中。声を潜める。
「犬とかじゃなく」
「犬?」
「高杉にか」
 訝し気な視線が返ってきた。それがどうしたとその目は言っている。噛むのは喧嘩の範疇なのか。喉奥までこみあげた以前からの疑問が口からこぼれ出た。
「お前らって、デキてんのか」
 間。
 言われた言葉を咀嚼する銀時の顔が色を変えた。
「 は ? 」
 地の底からの一音に鼓膜が震える。寒気を感じる目の影が迫る。瞬間的に身構えた時、機嫌が底辺の高杉が、振り返って、ヤクルトのカラ容器を投げつけた。それが銀時のデコにヒットする。そこまでの威力はないそれにずるっと床に尻をつけた銀時は今度は妙な静寂を纏いながら、おもむろに落ちた容器を拾い、逆さにひっくりかえして、底に僅かに溜まる残滓を見あげた。万華鏡でもあるまいに、くるくると回す。な、何してんだと聞くと、「抑えてる…」と言う。何を。怒りを?拳を?そうして、ひっくりかえしたまま底をトントンと叩き、そこに溜まるヤクルトの残滓を己の咥内にポタリ落とした。立膝に顎を置いて、土方に上目を向けた。これは本気の目だ。土方はこちらに向いているはずのこの殺意が肌をかすめただけで微妙にズレ、別のところへ、めりこんでいくような、体の感覚を覚えた。裂けたと思った肌は、微かに切れただけで、あとには血の線を残すだけの。乳白色に濡れた唇が、ボソリ動いた。回る舌に、低く籠もる。
「俺と高杉が、なんだって?」
 氷点下の、声。震える空気。喧嘩で負け知らずだった土方の、肌が一気に粟立つ。やつらを繋ぐ糸はかすっただけで、命をもっていかれる。土方は、けっして解けないその糸の、かすっただけで死にたくなるような、かなしい周波を知りつつある。存在さえあやふやになるこの団地で、命を繰り返してきた土方の日常はいつのまにか、やつらで巡りはじめた。


 年齢も出身地も知らないやつらの下着が自分のそれと絡まってごちゃまぜに洗濯機の中で日々回る。ご近所付き合いの範疇を超えてねえか。そうか?と軽く流される。ベランダから取り込む三人分の洗濯物の、アイロンかけたてみたいな熱さが指に触れる。
 うちの洗濯機で回っていたそれを着て、本を物色する高杉を、他人の距離で覗き見た。本の狭間にちらつく高杉は、何を手に取るでもなく背表紙をただなぞりながら歩く。こないだまで通行人に過ぎなかったその空気と、今は関わりがある。近づいても、こちらを知る目で振り向かれる。合流して外に出て、煙草を吸った。侵入した大学の敷地内は、団地のベランダから遠目に見ていた印象より、狭かった。そのうち銀時も出てきて「無駄に探したろうが」と機嫌の悪さを醸し出す。その銀時の上から下までを改めて眺め、「お前、不審者にしか見えねえな」しみじみ呟いた土方に、くっと高杉が笑う。
「いやお前もだよ不審者2号」
 今度は銀時が、ぎゃはは…と腹をおさえて笑った。部外者でしかない図書館で、ばらけて流れた時間はそれでもひとつの日暮れに向かっていた。帰るか、という言葉が自然と口から出た。この地に来て、それなりに住み着き、帰るという言葉を使ったのは初めてだった。
 ポストに葉書を投函して戻ると、普通にうちの便所から銀時が出てくる。水洗のゴボゴボ音を背景に、おかえりケーキ食う?と言ってくる。台所では、ここは工事現場かというほどの爆音で、ミキサーが回っていた。回されている中身は色合いからいって、どう見ても洗剤だった。その前の椅子に膝を立てて座る高杉の眼は、その汚い泡立ちにそそがれていた。どっから出した?と聞けば、食器棚の奥、と答えた。その横では、使った事のない、うちのナイフを握りしめた銀時が、まんまるのチーズケーキを切り分けている。ケーキの中心に焼き印されたキャラクターは笑顔のおじさんだった。ナイフにべっとりついたスポンジのカスから、視点を銀時の手へ。手首に食い込む輪ゴムが見えた。飽きもせず汚い泡立ちに目をそそいでいる高杉の目まで汚く泡立ちはじめるようで、土方は自分の家なのにどこにも座らず突っ立たまま、所帯じみたこの空間を、ミキサー音で掻きまわすしかない。
 粉物屋で、お好み焼きを揃ってひっくり返す。高杉と俺のは、はしっこの方が折れて、グシャっとはみでた。「もう、もんじゃだろ、それ」と突っ込んできた銀時の口周りに付着した白い泡が、しゅうっと溶けて無くなるのが、揺らめく鰹節の向こうにある。夜にもならないうちから飲んだくれている中年客に溶け込み、夜から仕事があるというドカタ姿の銀時と、これは休憩かどうか怪しいウサギの頭を脇に置いた高杉と、失業中で何もすることのない土方が、汗だくでお好み(そのうち二つは、もんじゃと化した)を焼いていた。銀時は喉乾いた一口くれと入ってきたなり土方のジョッキに口をつけた。「でけえ一口だな、この後仕事だろ」「九時からだから」締めには、ヤキソバを三人で分けた。どの口も、ソースやマヨや青のりにまみれている。箸を置いていないこの店では、コテで食べるしかなかった。銀時は極力、高杉を見ないのが、逆に高杉ばかり見ているようにみえる。
 その帰りの道ばたで、口論しているやつらの顔を夕日の昏さにぼかす。
そうなると他の物が一切入らず、曲がらなくていい角を曲がるやつらを、どこで気づくだろうと放置していたら、いつまでも違う道を歩きまわる。終いには、蓋の開いた側溝にも気づかず、踏みだした銀時の片足が見事にそこにハマった。長い無言が漂う。濁った雨水に片足を浸けたまま、ようやく高杉以外のものを取り込みはじめた銀時の目が一気に夕方に染まる。こっちを見た。「ここ、どこ」と、放心顔で言った。


 高杉は今日も前触れもなく塞いできた。あ、と思った時には、吸う息に高杉のものが混じっている。頭の芯まで、その匂いが突き抜ける。そこには、これっぽっちも性を感じない。こちら側に入り込もうとする兆しもない。吸われ、食まれ、噛まれても。銀時の指を噛むのとは、意味が違う。あんな傷を残す強さはない。痛みもない。何も残らない。なぜ受け入れてしまうのかもわからない。わかるのは、高杉の端々に空いた穴の存在だった。そこから漏れだす、底抜けの渇きだった。高杉から伝う銀時を、唾液で飲み込む。銀時が冷蔵庫に物を取りに行った束の間の空間で、銀時を置いて煙草を吸いに出た外で、孤独に打ち寄せる高杉の、閉じない片目を見返す。今も。銀時を待つエレベーターの密室で、煙草を咥える口の端を食まれている。サウナ状態で、吐く息まで熱っぽい。肺いっぱいに煙の溜まっていく感覚に、眩暈がした。唇の薄皮で、高杉と繋がって糸になる唾液の線が、目の下に光った。吸い続けていた煙を、離れたことで吐き出す。一瞬、真っ白になった視界に、すうっと高杉が霞み、見えなくなった。自分達は、さみしいんだろうか?土方は口をぬぐう。高杉は、さみしいのか。自分は、さみしいのか。口さみしいのは煙草で十分だった。自分と同じ男の唇に、求めるものは何もない。そこには何もない。何もないから、いいと思える。突如、近づいてくる重い足音に、高杉との距離を置いた。煙草を咥え直す。そのタイミングでエレベーターが開く。開いたと同時に上がった銀時の素っ頓狂な悲鳴に、耳を塞いだ。先に降りていると思っていたのを、開けてみれば中にいた土方達に死ぬほど飛び上がった銀時は「寿命縮まった」をしきりに繰り返した。エレベーターはてめーらの喫煙所じゃねーんだよ。
 その翌日、エレベーター前にひとり突っ立っている銀時がいた。近づくのを躊躇う空気を肌で感じた。高杉も銀時も。たまに、何も寄せつけない波がある。ここにいて、どこにいるのかわからない。目の前にいても、全然別の場所に立つような、そんな目をした。それでも声をかけると、ゆっくりとその目がこちらへ動いた。ああ、お前か、と言って、すぐにいつもの調子で「ラーメンの残り汁ぜんぶ啜ったら腹パンパンでよお、今ジーパン脱いだら解放感半端ねえわ、絶対…」ニンニク臭い息をわざと吐きかけてくる。近い顔に、汗が伝っていた。首から鎖骨にかけて、ぐっしょり濡れていた。今は、何の痛みを隠してる?
「お前、押してねえぞボタン」
 指摘すると、え?とエレベーターを見る。光っていないボタンを目にして、ふ、と息を吸った。吸いこまれて吐き出されるその息に、土方は酷くひりついた。
「ああ…、どうりでいくら待っても来ねえと思った」


 真ッ昼間、団地から高杉と外に出た瞬間に、大量の花火セットの入ったダン箱を「ようけ余っとるから兄ちゃんらにやるわ」と突然知らないおっさんが押しつけてきた。いらねえ、と高杉が普通に答えた。それを無視して、こちらの足元に置き、おっさんはガニ股で違う住棟へと入って行った。普通に答えて普通に無視された、そのときの高杉の顔が蘇り、ぐっと笑いを堪えた土方は堪えて俯く。そこに散る火花を、灰になるまで見続ける。
 夜が明けかけている。目に散る火花が次第に薄らいできた。片っ端から点火していく花火は無情緒で、それぞれの手で散りつづける火を延々と映す目は、閉じても燃えているようだった。膝の間で散らしている火も、もう終わる。よく見たら高杉の片手に握られてるのは花火じゃなく煙草だった。「もうお前、花火吸えば?」あくびまじりの銀時の戯言が妙に近いと思い、横を見ると、こちらの火に新たな花火をかざす銀時がいた。土方から銀時へ、銀時から高杉へ分けられていく火、燃えて繋がる線が宙に尾を引いた。終わったのから順に、バケツに放っていく。大量の残骸がバケツの水面に浮いていた。「お、最後の一本ずつ」銀時が呟いた。それに高杉が火をつけた。それぞれの目に、散り続ける。次第に終息に向かうのが、音でわかる。人生も、花火も、同時には終われない。花火の果てる瞬間を、俺達は誰も見ていなかった。団地に射す朝が、思ったより眩しくて、そっちに目を奪われた。一番先に、果てたのは誰か。土方にはどうでもいい。ただその刹那、銀時が細めた目には。花火でも朝日でもなく、高杉が映っていたように思う。