3、青写真

 遠目に空の青を吸いこむ。そこを絶えず肉の焼ける匂いと共に煙が流れてくる。自分の吐く煙と混じり合って、風に煽られる髪の透き間に、バーベキューをする家族の光景があり、なぜかそこには異物が混じっている。紙皿と割り箸を無遠慮に受け取る、異物でしかない白い髪の男は何か冗談でも放ったようで、その家族の輪に、どっと笑いが起こった。離れた場所で手持ち無沙汰にそれを待ちながら、いやなんで待つ意味があるんだ…?と今さらな疑問が沸々、湧いてくる。別に、身内でもお友達でもない。帰っていいだろ、と煙草を捨てた。遠くの空から近くの足下に帰す視点に、ポタっと汗が降る。パルプ・フィクションの黒シャツのプリントが陽の色にざらつく。砂もない場所にスコップだけが落ちている。ここらで唯一の木漏れ日が、足下にまだらな光を描く。ふと目に入る、靴底からはみ出す淡いみどりに、短く、息を吸った。そこにある小さな芽に、視界は狭まる。急に自身の呼吸が体を巡る。無意識に数える葉の枚数は、四に足りない。そこにビーサンが戻ってくる。同じ木陰に入った。サンダル焼けの痕が、男の気配を濃くした。同じ光と影に敷かれる。は〜あっち゛い。地面の影が、腕をあげた。土方の視界が、足下から、やつの胸元へ。さらに上まで這っていった先で、顔の汗をぬぐう銀時の目と合った。
 バーベキューの集団から離れながら銀時の口角を見る。青痣の存在に今、気づく。新たな傷?三日前にはなかった。陽射しがうるさい。気のせいかもしれない。そんな土方の目線を感じたのか、ん何、やっぱお前も欲しかったの肉?とタレのついた唇で言う銀時は、生きるための処世術だよ処世ずとぅ、と最後は噛み噛みだった。他人のバーベキューに混じることがか。おかげで焦げた野菜少々と肉一枚いただきました。一枚かよ。うん足んねえから土方くん肉買って。と可愛くもないおねだりをされながら、バーベキューの集団から遠ざかっていく。となりで乾いた目をして歩く銀時の、光を弾く銀髪が歩くたびチラつく。
 階段で捕まったのが運のツキだった。暇なら散歩しようぜと連れ出され、遠目に見つけた他人のバーベキューに信じられないことに割り込んだかと思えば、いつのまにか今度は一緒に肉を買いに行く流れにされた。今は、何キロも先のスーパーへの道を延々歩かされている。この道なりにはコンビニのひとつもない。この道は日陰もない。このままでは肉を買う前に自分たちが焼き肉になる。さらに銀時が「たしか途中に安い自販機あった」余計なことを言い、水分欲しさにその自販機を探し回って逆に迷った。コインパーキング内にあったそれをようやく見つけ、びっちょりとした体で、地面にへたりこんだ。スーパー向かった方が早かったじゃねえか…。へたりこんだ地面が汗でプールサイドみたく濡れていく。見あげた自販機オール100円。高…と同時に呟いた。団地のを見てるから感覚が狂ってる。こないだから極安の飲みもんで極楽を感じてばっかな気がする。渇いているときに飲む水は、これだけのために生きている感じすら覚える。一瞬で無くなったポカリ缶を凹ます音がバキボキ鳴った。「ハトの日…」銀時が電線にとまる鳩を見あげて脈絡なく零す。土方は燃え滾る地面に尻をつけながら、ガキの頃に仰いだ空の高さだと思う。海に浸かっていくような空だった。自分がどこにいるのかわからなくなった。横にいる存在と目が合った。空虚な目。なんの意味もない、一秒にも満たない視線の交わり。底が見えない。もぐる前から死ぬ。こんな目は。そしてそこには、高杉を感じる。高杉を見る時は、銀時を感じる。なんなんだろう、こいつらはと思って見おろした膝の間にポタッと降る、雫。
「舌が食いてえ舌」
「タンって言え」
 肉のパックを手に取ってはカゴに入れてくる銀時は遠慮がない。ざっと脳内で計算していたが、くだらぬ会話でわからなくなった。目の先で揺れ続ける半袖からちらつく腕は日焼けていて、空調に乾かされた汗の臭いが鼻をつく。極暑に極安に極楽に極寒と、休みなく極めすぎて、体がおかしくなってきた。
「そういやスーパーで国産のタンを見たことがねえ。日本の牛には舌が無えのかね」
 アホなことを漏らしながらレジに並ぶ銀時は順番が次まで迫ったところで「あ、氷」と呟き、列から抜けた。野菜売り場を抜けていくその背中を目で追ってるうちに順番は来て、ピ、ピ…、というバーコードの読み取り音を耳に、積まれていく肉の赤を見た。ひとりで袋に詰めたやつを三袋持って自動ドアを出る。出てすぐのそこで銀時が待っていた。振り向いた髪が傾きかけた陽射しを吸って、他を見えなくさせる。ん、と渡されたビニール袋に詰まっている氷を目の下に見て、手を出す。同じもう一袋を首の裏に当て、「アー」腑抜けた声を出す銀時の輪郭が、陽射しに溶ける。同じように肌に直にビニール袋を当てると、頭の芯の熱まで溶かした。こちらの手からレジ袋のひとつを取っていった銀時と、歩きだす。
 なぜかさっきとはまた別の道を歩きながら、今更だがこの肉どこで焼くんだと思った。それに銀時が答える。「うちに餅焼く網がある。たぶん肉もいけんだろ」オイお前らの荷物って、いるようでいらねえもんばっかだな。「いるだろ冷蔵庫は」それ以外…と返す土方の体にすっと銀時が寄り、肩が擦れ合う。前方から来た自転車が後ろへ過ぎて、時間差で生温い風が髪を浮かす。
「荷物選んでる余裕なんてなかったからな」
 風に煽られた髪からちらつく顔が、陽に擦り切れた。おかげで肉が焼けるけどな。と付け足すその目から、こいつらの歩いてきた道が見える気がして土方は、両手にぶらさげている肉の重みを指に食い込ませる。少しして銀時が立ちどまる。ここ寄ってっていい?いつのまにかポルノ映画館の前に立っていた。口が開いた。近道なのかと思って黙ってついてきてしまった。無人の受付をちらと見てから、ガラス貼りのショーケースに顔をはりつけてポスターを吟味していた銀時が「団地モノ…」ボソリと言い、こっちを向く。あれ二枚買ってこい、券売機はアッチな、と奥を指す。持っている肉の袋でその顔面を殴ってやろうか。見てえならテメーひとりで見ろ、俺は帰る。と引き返した肩に腕を回され、頬に生ぬるい息を吐きかけられる。いいからいいから。ちょっと涼むだけだって。そしたら帰っていーから。はあ?馬鹿馬鹿しくなって、肩に回された手を払う。振り払った拍子に、見慣れたマヨネーズがヤツの指に引っかかっているのが残像で見え、「てめえ…」土方は一段と声を低めた。きらっと反射するそれは、土方の部屋の鍵だった。今の一瞬でこちらのポケットに手を忍び込ませていた。油断も隙もない。マヨの腹をむにむに押しながら、よろしく〜と目で笑う。心意が読めない。なにかある。既におっ始めている映像に目を眇めながら暗がりに入るとヤニの匂いがした。あ吸いてえと思う。引き返したいのに、しっかり腕を取られている。そのまま喘ぎ声の中へ。狭い通路を腕引かれながら進む。足元の闇がたまに明滅する。吸殻や、粘ついたガムなんかが点々と続く。空席だらけで、さっさと座ればいいものを銀時は急にとまって突っ立った。「あ、いた」。いた? つられて銀時の肩越しに目を凝らす。闇の中。明滅する誰かの体を朧気に捉える。椅子を三つも使って横たわっている男の体。その肌色に光が入り混じる。エビのように背中を丸め横向きで眠っている。呼吸の間隔で上下する。
「……高杉?」
 闇に溶け込むその体は高杉だった。土方の口から、小さくその名が漏れた。その微かな声ひとつで、びくっと持ちあがる目の下の肩が、おもむろにこちらに寝返った。首を捻り、邪魔くさそうにあがる目に、酷く、ざわつく。その目はこの世の闇を全部持ってるみたいに一度の瞬きを挟んで、刃物に近い細まり方。よくない光。昔、暴力がはじまる寸前の、波打つ空気を土方は思いだす。煽られる。拳をつくる。かつての日常が血の臭いで沸騰する。
「三秒前」
 横の銀時がボソっと呟いた。つられて脳髄で、ゆっくりと数えだす。高杉が腹筋の力だけでむくりと起きあがる。床に両足をつける。ここまで二秒。銀時が肉の袋と氷入りのビニール袋をまとめて土方に押しつけた次の瞬間、銀時が土方の背後に回るのと、土方の鼻っつらに高杉の足の裏が迫ったのは同時だった。背後から腰のシャツを引き千切る勢いで引っぱられたため、咄嗟に避けきれなかった土方の鼻にそれは入る。どろっ。鉄錆の臭い。首を沿った視界に、高杉の足首を掴んだ銀時の顔がブれ、土方は持ってた肉の袋を落とした。ふっと二人の息が離れる空気に、濃い風の流れ。血の出る速さで、ひゅっと目の前を切られる。闇に目が馴染みだす。息つく暇もなく迫り来る高杉をかわして座席に飛び移った銀時の、体の線がブレまくった。その重みで沈む座席から羽が舞う。着地に失敗して、つんのめった銀時がうつ伏せで床に落ち、そこに落ちてた肉の袋を振りかざそうとする高杉が薄っすら見えた。鼻血をおさえながら土方は、ふざけんなと吐く。これから食う肉で汚ねえ天パ頭を殴るつもりか。それが通じたのか、そうなる寸前で銀時が躱す。
「それ今日の晩飯」
「そうか」
 という短い会話の直後、互いの体をサンドバッグに見立てた拳の応酬が始まった。一発ごとに乾いて響く。おそらくそれなりに脳味噌がシェイクされているはずだが、上下を時々入れ替えながら律動する二人の男は、それよりもっと奥にある互いの何かをシェイクしているらしい。蚊帳の外にされた土方は、やつらから前方のスクリーンに視点をずらして、その生々しい光を顔にビチャビチャ浴びる。どっちもうるさい。肉と肉がぶつかる。ただの生き物になって、交わる音は、こんなにも。


「こうなった経緯は?」
 答えはない。本当にないのかもしれない。あるいはすぐ忘れるか。こうしてまともに直視したのは初でも、今までも壁を通して、しょっちゅう伝わってきた。言葉を暴力に変えただけで、やつらには日々の会話と大差ないのかもしれない。
 無言の高杉の煙草を吸う息だけがある。その煙が、ピンクの光と混じり合う。同じく煙草を咥えた土方の手には、ウサギの着ぐるみが抱えられていた。ピンクでファンシーなそれは、高杉の仕事着らしい。着ていた高杉の汗と匂いを吸って、どこかぐったりとしている。横から無言でくれたポケットティッシュから一枚抜いて、丸める。鼻に突っ込んでいた古いのと入れ替える。じんわり血を吸い取られる感触を待ってから離す。
「サボってていいのか」
「たった今、配り終わった」と、これには返事があった。ポケットティッシュを裏返す。そこに印刷されたフリーダイヤルを見下ろす。他に客はいない。貸切のピンク映画のだらしのない光に明滅する高杉の顔へ横目をおくる。ぐちゃぐちゃに混じり合う色の光の中、口角に薄っすら血の痕が見える。映画に目を戻した。頭に何も入ってこない。
 ロビーに出て男子便所の扉を押したそこで銀時が顔をあげた。鏡越しに、目が合う。顔から滴る水が、締まりのない顔を伝っていく。それを手の甲でぬぐって、ジャアジャア出ている水道の蛇口をそのままに、こちらを見てくる目は大分、醒めたようだった。土方は鼻に突っ込んでいたティッシュを抜いた。
「盾がわりに、俺を連れてきたってか」
 その目が僅かに泳ぐ。あーいや…、と歯切れが悪いのは血が垂れ流れるから。
「タイムセールがあるからって、なんでわざわざ遠いスーパー行くのかと思ったら、そういうことか。妙にキョロついてると思った。探してたんだろ」
 何かを言おうとする顔に、血のついたティッシュを投げて黙らせた。
「あいつがここでサボって涼んでるのも、わかってたのか」
「いや、勘…」
 勘?
 勘で迷いなく入って淀みなくチケットを買わせ、まっすぐ高杉の寝そべる席に、ろくに見えない闇の中を歩いていった?それをまるで普通の事と疑わない銀時の目が、「悪い、交じりたかった?お前も」と見当違いな謝罪を言った。そして、そうともいえないことを土方は自覚している。あのとき。三秒前のカウントの前から、ざわめいていた肌の感覚がなんだったのか。自分を置いて、やり合う二人に、煽られかけた。もう随分と使っていない感情を、言葉のかわりに振るいたかった。理性が、霞んだ。


 駐輪場のフェンスに沿って三人、歩く。網目にちらつく倒れた自転車を横目に、三つの手に振り分けられた肉の袋を、視界に揺らす。横にも縦にも並ばず、ばらけて歩いて駅まで会話もなく来て、切符売り場で、三人の人間が並んだマークを押す。出てきた三枚の切符の重なりを持って振り返ると、路線図を見あげて突っ立っているやつらの、似通った空気が同時にこちらに動いた。三枚の重なりから、それぞれの手に切符を渡す。小学生の引率っぽい空気のわりに料金は大人で笑える。改札を抜けるその後ろをついてくる銀時と高杉の向こうに暮れた空を見る。その空はホームに来て、さらに一段と落ち、近くの存在を濃くしていく。
「電車なんて久々、乗る」
「この時間にバスはもうねェ」
「電車だと、どんぐらい」
「乗ってる時間は短いが、駅から嫌ってほど歩く」
 車両が滑りこんでくる風に煽られた。二人の間に挟まれた土方は、開いた扉からぞろぞろ出てくる人間を脇に避けようとして、どっちにも行けず、何人かの肩にぶつかられた。これ乗んの?と車両を指してこっちを見てくる銀時の目に頷く。乗り込んだ車内の冷房が肌を刺す。ガラ空きだった。高杉の組んだ膝を、向かいに見る。空いているのに座らない銀時は、両手で吊革に掴まって窓の外の夜景に目を飛ばしている。発車の振動の中、銀時と高杉を同じ視界に揺らす。銀時の両手に引っ張られて捻じれた二つの吊革。隣の車両の、女子高生ふたりが膝で座席に乗りあげて笑う声を微かに拾う。「ちょお、点でしか映らへんねんけど!」数秒おきに響くシャッター音は、たぶん夜空の月に向いている。
 ご乗車有難うございますのアナウンスがやみ、暫くして、銀時に離された吊革がぶつかって弾けた。どすんと音立てて、こちら側に座った銀時の、膝の間で揺れる肉の袋を見て、土方はそこに滲む血に気づく。自身の膝の上にあるそれも、高杉の横に置かれたそれも、じわっと血が滲みでている。
「降りるのって終点?」
「の、ひとつ手前」
「じゃあ微妙に寝過ごせねえなァ…」
 そう言いながら、おりていく銀時の目蓋に夜が波で打ち寄せる。対面の高杉の顔にも、さざ波を生んだ。ビニールの中で溶けた氷が、銀時と高杉、それぞれの口角に押し当てられている。そこにも血は滲む。じわじわと血は滲む。中で揺らめく水が、夜の光を吸って、すこしだけ海の夢を見た。青く、揺蕩う。やがて、肩に来る重み。


「あ酒がねえ」
 改札を通る直前、銀時が言って背後の売店に引き返していった。高杉はといえばそれを待つことなく改札を出て、ひとりで歩いて行ってしまう。仲直りなんてものは、こいつらにはなさそうな概念だった。駅から一歩出れば外灯もろくにない、闇に塗り潰された道に向かって高杉を呼びとめる。振り返った高杉はそれ以上に塗り潰されていて、凝らしていないと夜に見失いそうだった。
「食うだろ、肉?」
 そんなことしか言えない土方の口は突如、なまあったかい感触に塞がれた。目を閉じずに飲み下したそれは血の味がした。銀時に殴られた高杉の味だと、頭の片隅にそんなどうでもいい思考が走る。焦点が定まらない。間近に、こちらを覗きこむ暗い目があって、どうしようもない。真横を過ぎ去っていく電車が、光で自分達を轢いていく。磁石が近づきすぎて、ひっついただけ。そんな吸いつき方だった。唇の皮を食んでくる刺激に、荒くざわめく。最後に土方の下唇を吸って離れていった高杉の顔は、なんでもない。そこに戻ってきた銀時が大量の缶チューハイの入った袋を土方に持たせて、肉の方は高杉に押しつける、「やっと手ぶらになれた」と身勝手なことを言い、伸びをした。静けさに、銀時が鳴らす関節の音が響く。点滅する信号を浴びて、どこか青みがかった銀時は振りかえって、
「お前ら、青い」
 目の奥をどこか、さびしくした。
 団地に着いて、エレベーターに乗り込んだところで郵便を見るのを忘れた事に気づく。両手が塞がっている土方にかわって、見てきてやるよと銀時が返事も聞かずにひょいと降りていく。まあいいかと任せ、銀時の体重分、減った箱の中で高杉とふたりになると、さっき触れた感触がまだ空気に残っている気がする。確かめたくても、何を確かめたいのかわからず喉の奥で言葉は死んでいく。間もなく、集合ポストの方から銀時の声が飛んできた。
「なあ錠前ついてっけど暗証番号、何」
 あ、と声に出た。高杉の目がこっちにズレる。さっき噛まれた下唇を急激に感じる。おい聞こえてる?と催促する銀時の声に我に返って、三桁の数字で返した。銀時の指がそれに合わせ、ダイヤルを回していく。「えーと、…、2、8、お、開いた」
 戻った銀時に「ほい、暑中見舞い。それだけだった」、葉書を肉入りのレジ袋に差しこまれる。見たのかよ。見えるだろ葉書だし。
「ちなみに、なんで328?」
 別に、と返した。若干、かすれた。上昇するエレベーターの、階と階の狭間で暗くなる一瞬にちらつく背後の二人は、左右の角にそれぞれ凭れて、そのどちらも、底まで見透かす目をもっている気がした。
「428じゃなく328?」
 さらなる追い打ちは、エレベーターの上昇時間を遅くさせた。328の語呂合わせなんて探せば他にいくらでもある。そもそも誕生日や日付の可能性もあるし、何の意味もない数字の羅列でしかないかもしれない。それでも、まっすぐそこに着地する銀時は、何なのか。そこを、ごまかせない自分は何なのか。密閉した空気に、土方は吸える息を探す。
「ま、いいけど」
 銀時の声は、水面を僅かにすくっただけで、あっさり離れていった。僅かでも、すくわれた水の感覚を飲み込む。昼間、足下に咲いていた小さな芽を、ふいに思う。こちらの無言にも頓着せず先にエレベーターから出ていく銀時に視線をおくる。ここまで冷蔵庫運ぶの、どんだけ苦労したか。運んだのは俺だ。そこで初めて高杉が口をきく。ちらっとだけ振り返って、すぐまたそっぽを向く銀時の汗に濡れた首筋。やつらの背中が目の中を泳ぐ。ポケットから出てきた銀時の手の中の鍵に、マヨネーズの精が踊るのを見て、眉間に皺がいく。盗られていたのを忘れていた。当然の顔で、銀時が、うちの鍵穴に差し込んだ。おいと土方が咎めようとした時にはもう、ズカズカと中に入り込んでいる。お邪魔しまーす。同じく我が物顔で入って行く高杉がふと振り返って、「もう合鍵渡す仲か?」と斜めに傾く顔が、銀時の手で適当に点けられた玄関の電気に明るくなった。窓ではなく初めて玄関からヤツらを入れた現実が、足下の、揃えて置かれたビーサンからも這い伸びてくる。
 吐く息に、ふっと蛍光灯の紐が揺れた。それをパシッと片手で掴んで止める。テーブルに置いた袋から僅かに肉の血に滲んだ葉書の端を摘まみ取る。切れかけの光の下、裏返して、明滅する筆跡をなぞる。内容がない。こちらの近況にも不自然なほど触れてこない。本当に触れたい部分からは数ミリずつズラした安否確認だった。余計な一行があった。「最後に言伝です。いずれ骨になった暁には俺が拾いにいってあげまさァ、との事です」。ぐしゃっ。土方は葉書を握りしめる。蘇る。歩いた道。よく集った場所。青や赤や漆黒の空の下、俺らがバカやってた横で、いつも余ったあんぱんを齧っていた顔によく八つ当たった。今、つくった拳の行き場は過去の映像にしかない。気安く殴れる距離にいない。色々と持て余した顔で煙草を咥えると、先にとっくに高杉が吸っていた。人んちの畳で堂々とくつろいでいる。夜に塗りたくられた窓の前で、風に吹かれている高杉の、吐く煙に充満する。それが急に膝を伸ばした足で窓を閉めかかるので、暑いのになんだと思ったら、餅を焼く網を抱えてベランダを渡ってきた銀時を閉めだしているのだった。なにやら喚き散らして片手でガラスを叩く銀髪が夜の中にある。その夜には高杉も土方も映りこんでいる。自身の生活圏に、自分以外の存在が伝う。それは土方の喉を、やわらかく詰まらせた。
 肉だけ焼くという銀時の宣言通り延々、肉だけ焼肉がはじまる。十代の頃は草なんているか、肉だけ食わせろとがっついていた。それが今は野菜を挟まないと胸焼けしてくる。体が過ぎ去ってきた歳月を感じる。口が油まみれになってきた。それでも齧る。歯で引き裂く。溢れる肉汁で、べとつく。口の端のタレを舌が舐めとって、脱いだシャツでゴシゴシ顔の汗をぬぐう。湿った畳が光ってる。網の上の一枚に伸びた箸同士がぶつかる。狙いを定めすぎて生焼け状態で掴んでいくバカを、テーブルの下で蹴る。焦げたやつを全部こっちに投入される。空き缶の山に肘が当たり、崩れた。時々、銀時の目が無遠慮に部屋を巡る。女ッ気ねえなァ…いねえの?と粘っこく絡んできたと思ったら、扇風機の風を独占している高杉に急に矛先を変え、すべての煙をそこに行かせようと団扇を仰ぎまくる。餅を焼く網で焼いているからか煙が異常なほど沸いて、互いの顔が認識しづらくなっていく。酔いが回る。網戸から抜けていく通報されそうな煙の量に滲みて、酒をひっくりかえしながら突っ伏した。じわっと沁みだす水にゆらめく目の先、飛ばないように置いたリモコンの下で、残暑見舞いの葉書が浮き沈みを繰り返す。……「なんで428じゃなく328?」ひっく。嗚咽。高杉の手に鷲掴まれている銀髪からハラリと散った毛を、花びらに空目した。この白いのをむしって束ねていけば、天使の輪でも作れそうだと土方は虚ろに笑う。