あした果てる



1、水平線

 閉めたつもりの蛇口から、ひとりでに降ってくる。
 空気を震わすその雫の一音は、ぬるま湯に沈みかけていた土方を打つ。
 睫毛の先に伝う雫が瞬きで落ち、湯の中の裸を揺らめかせた。浴槽の中だった。うつろなその目が、頭上の換気窓へ走る。今確かに、そこを人影が横切った。じめっとした闇を動かす夜の流れがある。ついで物音と、ぼそぼそ籠もる低温の声を拾い、不審さが増す。隣り合う二戸で一つの階段を共有するここに於いて、隣が空き部屋の場合、滅多な事では自分以外の人間は来ない。息を殺す。気配はちらつく。窓に目を這わす。ポタ、ポタ、と湯を震わす。見えない外気が、息づいて、視界が曇る。何事かを囁き合う声。おそらく男で、数は二人。ものの数秒で立ち去ったと思ったら、暫くしてまた通過する。何度か繰り返されたその往復が、息を次第に荒くした頃、会話の狭間に、次で最後…、と言う声が耳に入った。長いこと空き室だった隣に、誰かが越してきた。他人の息を感じる。抑えた声が、かえって、耳の奥を這いまわる。それが出たり入ったりして、隣なのに、うちの中みたいに音が近い。今にもドアノブが回され押し入ってくるのではと想像させる物騒な息遣いに、濃くなっていく。土方は立ちあがった。浴槽を跨いで、タイルを踏み、脱衣場に出た。適当に体を拭いてパンツ一丁で、暗がりの玄関へ行く。どうやったって軋む床からギイと鳴き声が漏れだす。ドアの覗き窓の目隠しをズラすと、そこに片目を近づけた。どこか黄ばんだ色で、外の様子が眼球に流れこむ。静けさに、気配だけが溜まっている。ねばっこいタイルに裸足が吸いつく。こんな夜間にコソコソ越してくる人間像を思い描く。踊り場の方からガンッと音がした。ほぼ引き摺る音と言っていい、何かが、また徐々に近づいてくる。来た、と思った瞬間の息が、レンズを曇らす。
 階段を下ってきたのは、冷蔵庫だった。
 ここの玄関を通り抜けられるか際どいサイズのそれは、視界に入った瞬間から生白い存在感を放ち、そうして、それを支える手も見える。あと少しのところで力尽きたのか、階段を下りた所で一旦置かれたそれは、梱包もされておらず既にいくつか擦れた傷が。雑に置かれた反動で、ふいに冷蔵庫の扉が開く。蛍光灯の下で開く冷蔵庫に、引きつけられる。唾を飲み込む音を、内側から感じた。その中は、空洞ではなかった。食い物でも飲み物でもない。
 人間が、冷蔵庫の中に入っていた。
 冷蔵スペースに無理矢理おさまっているのはどう見ても、成人男だった。肘と膝が、ぎゅう詰めに折り曲げられ、天井で擦られているワタは何かと思えばそいつの髪で、それは冷蔵庫によく馴染む色彩だった。真っ白とは言いがたい、どこか鈍い白。光の下では銀っぽい。髪色のせいで紛らわしいが、年はそんなにいってない。まあまあ若い。即座に悪い想像を走らせた次の瞬間、それが、もぞりと動いた。ひっ…と出かかった声を手で塞ぐ。
 死体に見えたそれは、生きていた。
 次いで、冷蔵庫を、外からガンガン蹴る靴の存在に気づく。
 手と足しか見えないが、いる。確実に、もうひとり。
 外から蹴られ続ける冷蔵庫の中で、元から脳細胞が死んでそうな白い頭がブレまくっている。その振動が、近所迷惑の次元を著しく超えていた。脳味噌を揺さぶられたことで気分でも悪くなったか、体のスシ詰め状態により口から内臓が出かけたのか、悪ふざけをやめ、舌打ちで冷蔵庫から飛び出てきた白髪の、うさんくさいアロハシャツに目がチカチカする。動くたび脇腹の包帯がチラと覗く。その影で、スソしか見えない連れの男の方にも、アロハの片鱗がちらつき、こいつらは一体どこへ行くつもりでこんな場所へ来てしまったのか。
「最後まで運べよ。俺を」
 そんな声が、ふいにドア一枚を隔ててハッキリと聞こえ、その、ろくでもない響きに耳が籠もる。狭い覗き穴の視界の中、男の白い頭が、風もないのに、そよいで見えた。男は、今の今まで自分が入っていた冷蔵庫へガンッと靴底をつけ、ぼりぼり包帯の上から腹を掻いたかと思えば、こちらのドアへ、ふっと空虚な横目を投げた。なんの意味もない、一秒にも満たない視線の流れ。
 冷蔵庫になすりつけられた白髪が起こしている静電気、
 という至極どうでもいいものに視線をそそぎながら土方は、気づけば手首の脈に触れていた。今の今まで自覚していなかった息を急に感じた。ドクッ、ドクッ、という血の流れで霞むレンズに土方は瞬く。
 泥だらけの靴が二足、冷蔵庫を挟んで立つのが見えた。
 白い冷蔵庫についた、二重に重なる靴痕が目につく。
 どこまでも不穏な空気を纏った二人の男の手によって、なんの掛け声もなしに再び冷蔵庫は浮きあがった。まるで同じ息を持つみたいに、水平に。……そう見えたのは、どうやら一瞬で、次の瞬間にはガクっと傾く。やつらの半袖に寄せ集まった細かな皺の筋と、「ちっ、テメーと運ぶと身長差で傾く、……」の声が、ガンガンぶつかる反響と共に、乱暴に閉まった対面のドアの向こうにふっと掻き消えた。
 途端、いつも通りの夜に戻ったレンズの中、
 耳鳴りがするほどの静寂がきた。ドアから離れた土方は、ふらり戻った畳との境目に放置してあった灰皿を蹴ってしまった。吸殻と灰の残骸が、足の甲にかかる。土方にはそれが、ぬくかった。網戸から、なまぬるい風の流れ。網目を通して、Tシャツを着たハンガーが揺らめくのが見えた。干して、すっかり忘れていた。日常の殆どは、目につく瞬間から忘れていった。日々は瞬間的に絞めつけて、ただ目の前を流れている。
 そのときドンっと、壁が殴られた。
 その振動が、畳を伝って、波打った。舞い散る灰が、砂っぽい。


 上昇する間、飲み口の溝に溜まったコーヒーを見る。時代の移り変わりと共に住民の高齢化が進み、後年、後付けで設置されたエレベーターは、稼働年数の割に振動が激しい。五階建てのうち、踊り場に連結している三と五の奇数階のみ停まる。のろい速度で、乗っている間ずっと謎の破壊音が響く。踊り場に置かれた自転車が階ごとに通過する。車体に書き殴られた番地のマジックが、かすれてブレる。音立ててエレベーターが開く。灰汁のような澱みが、ぬるりと肌に纏わりつく。足元に点々と散らばる吸い殻に視線を落とした。昼でも薄暗い階段を半階分、降りる。重い足取りで自宅前に降り立った、ポケットの鍵を探る間、越してきて間もない隣へ目をやった。換気のためか、そこは今日も僅かな隙間を開けている。連日、日の落ちるまで生ぬるい風を通し続けるそこの、絶妙に中が見えないドアの隙間には、かけられたチェーンだけが光る。そこは、ひりつくような日没前の匂いを集めて、逆に何も寄せつけない。土方の焦点が、正面に戻る。自宅の鍵穴に差し込んだ鍵を捻る。開いた感触が手首へ伝わる。汗のはりつくシャツを早く脱ぎたかった。
 入ろうとドアノブに触れた土方の手が、ふいにとまった。
 扉に、ラップの箱が二本、はりつけられてあった。
 土方は、鍵を差しっぱにしたまま凝視した。どこにでも売っている、ありふれたラップの箱が、二本セットにしてドアに貼りつけられてある。のしには『ご挨拶』という汚い筆跡が、じわり滲んでいた。インクが尽きかけては上からなぞったみたいな字のかすれ具合が、ひどく、埃くさい色で迫ってくる。
 土方の手が伸びて、ラップの箱を剥がしとった。綺麗に剥がれずドアにもレンズにも薄っすら跡が残った。隣のドアへ目が走る。その隙間から漏れだす強い光に、舞い散る埃で、視界はかすんだ。かけられたチェーンの。確実に中にいる、生きた人間の。
 入ってすぐ、むっとくる部屋の空気に鼻を詰めた。畳に敷きっぱなしの布団を踏みしめ、そのラップをびっと出してみた。透明の、薄い膜を通して、暗い壁を見る。毎日見て、あれだけ強いのに今日も、目の奥を伝う陽は、よわくなっていく。


 それから数日後の道ばたで土方は煙草を吸っていた。
 吸いこむほどジワっと燃える当たり前の光景を鼻先に見ていた。目に入るものすべて、どぎつい。空も、道路も、電柱も、住宅も、人間も。それらを煙を肺に溜めるのごとく取り入れる。吸ってる煙草が焦げてきた。そんな道ばたに、自分以外の濃い影をふっと感じて、土方はボンヤリ目をあげる。
 隣人だった。
 夜間の覗き穴から見た、あのときの二人組。レンズを通さない、生で見る隣人は逆光だった。土方の立つ道の上を、歩いてくる。相変わらず南国な出で立ちで、互いを鬱陶しげにしながら、足並みをバラつかせて、やって来る。やつらが交互にアスファルトを擦るビーサンの音が、土方の意識に入り込んできた。あの日、覗き穴を介して出会った、冷蔵庫みたいに空虚な銀髪と、それを足蹴にしていたスソしか見えなかった連れの男が、今はっきりと土方の立つ道に揺れていた。ジ、と立っていると焦げつきそうな道で、のろく近づく二人組の歩みが、この場を支配している。ふらり土方は電柱の影になった。あっというまに間近に迫った二人組の吐く息を、瞬間、吸った感覚に陥る。
 ラップ二本で、挨拶されたのだから挨拶し返すべきか。
 のしに滲む、ご挨拶という筆跡を思いだす。
 あれには一応、紅白の蝶結びの水引も、かけてあった。
 ……結局、やつらが過ぎ去るまで、視界を、そのへんの住宅に絞る。室外機…錆びたアンテナ、蔦の這う壁…サッシ窓…を陰気に映す土方の目に、突如びゅんっとムチみたく何かの残像が、走った。うおっ。一歩引く。引いてわかった正体は、尻尾だった。白い犬。力なく振られた尻尾越しに、空の餌皿が、ぼやける。土方の焦点は暫く、数秒おきに右へ左へ振られる尻尾でリズムを刻まれていたが、あ…と我に返ると、手にさげていたスーパーの袋を覗きこんだ。食えそうな物はトコロテンしかない。食うか?と聞いてみる。すると上目に土方を見た犬が起き上がって近寄ってきた。トコロテンの袋を開封しようとした土方の指に、ざらりと濡れたものが這った。フェンスの網目から出た犬の舌が、土方の指を舐めている。トコロテンの方には目も向けない。べたついた手の汗を、必死にベロベロすくいとって、そこにある水分だか塩分だかを飲み込んで嚥下する犬の毛をぼうと見ていたら、ふいにふわっと波立った。土方の髪も少し遅れて波打つ。道を、風が走っていく。
 犬と別れた。唾液まみれになった手を風に乾かす。
 団地に戻りかけた土方は少し歩くと、またもや、あの二人組に行き当たる。
 どうやら揚げ物屋に寄り道したらしいことは、ハムカツのはみだした紙袋でわかる。油の滲む紙底を支えるヤツらの手を瞳に揺らしながら、土方はなるべく距離を詰めぬよう歩いた。前の二人に歩調を合わしてみるが、普通にズレる。あっちはあっちで足並みが、てんで揃っていない。どちらかが、どちらかに合わそうとする素振りがまるでない。それでも不思議と離れない。それ以上は、離れない。
 生々しい風が二人のいる方から吹いてきて、土方もいる道を、刹那に流れ去っていく。それを受け流せず、もろに食らった土方の視界が砂になる。ざらつく視界の中、部分部分をすくえる会話の狭間で「…杉、」と呼ばれる名前を聞いた。呼ばれた男が、右の白い頭を鬱陶し気に鷲掴み、ふいにこちらへ目を流す。交わった。一秒にも満たないそれに、息を支配される。つられて振り向きかけた白髪天パが、手元のハムカツを横から噛み千切られア゛ッ!!と声を道に響かした。ここらの住宅中に響く声で。


 日々は、同じ映像で明けるのと暮れるのを繰り返す。ものの数秒で色褪せ、見ているものに確かなものは何もない。早送りも巻き戻しもできない日々の一瞬に土方はただ生きている。今この瞬間の土方は闇にいた。昼間吸う空気とは違う。ねっとりとした夜の中、今日も同じ道を歩いている。歩くのに合わせてブレる自分の手が、空を切るたび、どこにも繋がっていない感覚で、息ばっかり乱れた。静まり返った団地群の中を、自分の息だけがうるさく続いていく。住棟の隙間に置かれたブランコが、こちらを見ている。風もないのに揺れているブランコに、足早になる。ぽつぽつ置かれた車は、圧倒的に県外ナンバーが多い。この土地は永住より圧倒的に出ていく方が多い。中には、廃車同然の、潰れた車もあった。住んでいる人間はいても、風化という言葉がよくハマる。歩いても歩いても暗がりにぬっと同じ造りの建物が続く。ひたすら平行配置された団地群は、うっかりすると入るべき住棟を間違う。壁の棟番号が剥げて読み取れない棟が土方の住処だった。そこに向かって重たく歩いていった。暗く塗り潰された入口へ足を踏み入れる。人感センサーで頭上のライトが点く。照明はそこだけで、集合ポストの錆び色は、ほぼ闇に等しい。夜目がきく土方は、手元の暗さに構わず、ポストに付けた三桁のダイヤル錠を淀みなく合わせていく。ここに越してくる前、使い古しでよければと言って渡された。番号は設定し直してくれていいから、と告げた女の横顔はいつでも夕方の記憶に溶けている。土方は番号を変えなかった。ダイヤルを回す。最後の一桁が合ったと同時、開いたポストの中を屈んで覗く。
 広告チラシを掻きだしてからも、まだ中に入っているものがないか探る土方の手は、暗がりの中、暫く空洞をさまよった。そういえばまだ隣人のポストに名前が入っていない。先に押したエレベーターが一階に着いて口を開く音がした。寿司デリバリーのチラシを見つつ乗り込み、階のボタンを押そうとしたときだった。闇に乗じて後ろから、微塵の気配もなく男が乗り込んできた。新たな重みに箱の床が振動する。ぎょっとした。隣人だった。背の低い方。と思ったら入口のライトがぱっと点いて、その下を足早に通過してくる白い頭も見えた。こちらへ向かってくる。それでなくとも狭苦しいエレベーターに男三人乗るのか…、という思考で、開くボタンを押しかけた土方の背後から低い声がかかった。
「いい。閉めろ」
「え」
 振り向いた先。目が合うのは二度目だった。道ばた。生々しい風。油の滲む紙底と、それを支える手。ハムカツを噛み千切る歯。こないだより近い目に、早くと急かされ閉のボタンの方へ指を持っていく。凄まじい剣幕でこちらに向かって走ってくる白髪の男が、こちらに届くギリギリで閉めだされる。てめええ高すっ…の声が閉じた箱の中に余韻で残る。なんなんだと土方は思った。上昇するエレベーターの、階と階の狭間で暗くなる瞬間に映しだされる片目の男を、確かめる。そういえば前回も、前々回も、左の目は髪に隠れていたような気がする。箱の外では階ごとに、所狭しと置かれた自転車や車椅子なんかが見える。
 着いた先、開のボタンを押して待った。降りる気配がないので振り向くと、出ろと顎で促される。あ、じゃあお先に。と言い置いて土方が出るや否や、男の指が閉ボタンを連打した。男を乗せたまま箱はまた閉じられる。そのまま下降していくエレベーターに、なんなんだと土方は思う。思ったと同時、今度は階段の踊り場から何かが飛び出てきて、心臓に悪い連続だった。白い頭の方だった。階段を使って来たらしく、ぜえひゅう切れた息を継いで「どこいった」とだけ聞いてきた。むっと汗の匂いが散った。「今また降りた」とエレベーターを指せば、膝に手をついて息を整えていた白い男が土方へ顔をあげた。あ゛ー酒がいったりきたりしてる、と、みぞおちを抑えながら、そいつは今来た階段をまた駆け下りていった。数段飛ばしで階段を降りていく男のシャツが手すりをかすめながら見切れ、着地音らしい残響が徐々に遠のいていく。土方はもう動く様子のないエレベーターを見た。男のいた場所が濡れていた。こっちを見あげた男の鎖骨に溜まっていた汗を、思う。同じく汗ばむ土方の体が、団地を使って鬼ごっこを繰り広げるやつらの息に籠もった。


 一枚も皿がない。缶詰からシーチキンを出そうとして目を彷徨わせた。洗うのを後回しにして洗剤に浸けたままの皿を見る。コップも全部そこだった。缶詰に直接マヨネーズを絞りだす。ブチュップパッ。残り少ない。スプーンですくったシーチキンを口に運びながら壁へ目をやる。数秒見て、そこからテレビへずれた。昼の二時だった。窓がぎらついている。子どもの声がしている。裏の空地に週末のたびビニールプールを出す親子がいる。騒がしく意識のふちにかかる水飛沫に、土方にとって遠い日々の海が波打つ。海水を掻く手の波の先で、泳ぎ続ける肌色を覚えている。見失えない背中だった。それを共に追っている、時々わざとこちらに、いらぬ波を起こしてくるやつは泳ぎながらガムを噛んでいた。ガムを噛むと水中でも息ができるんですよ。アホか。息継ぎの合間の会話がくだらない。途中のブイにつかまって振り返った浜に、自分達のいたパラソルを探した。そこに彼女がいるはずだった。水滴が、視界を伝う。どこ見てんですかアッチですぜ土方さん。肌を叩かれ肩越しに伸びてきた手が指す方角を見て、ああ…と頷いたが、あのとき本当は見つけていなかった。泳いでいるうちに方向感覚はどんどんずれていった。随分遠くまで泳いできたなあ。陸でも水でもよく通る男の声が隣にあった。まだ浜の方へ遠い目を向けていた俺に、海水を思いっきりかけてきたやつの目には多分ちゃんと映っていた。自分達のいた場所が。
 置いてきた、場所が。
 開けた拍子に外れた網戸を入れ直すためベランダに立った土方は、どっと鳴いて降りかかる蝉のせいで他の音は何も入らなかった。部屋の中で映り続けるテレビの画面も音がない。子どもたちの声もどこかにいった。ジリ…ジリリリ…耳元でひたすら鳴る目覚ましに似た蝉の声だけがある。起きたくても抜けだせない夢の中にいるようだった。朦朧とする。歪んだ網戸のフレームはなかなか溝に嵌らない。握り閉めたそこは皮膚も爛れる灼熱で、バターが溶けていくように肌を伝う汗。口に咥えっぱなしの煙草を誰かに取ってほしかった。
 フィルターを噛む。灰が降る。
 刹那。ひとりのベランダに、それは、唐突に訪れた。
 それはもう目の前の景色ぜんぶ、吹っ飛ばすごとく、鮮烈に。
「なっ…、」
 最初、鳩か何かが飛んできてぶつかったのかと思った。
 違った。突然の破壊音に反射で動いた土方の目に飛び込んできたのは、鳩みたいな平和なものには程遠い。壁を突き破って、こちら側に落ちてくるそれがギラリ反射する。水飛沫にも似た銀色で、降りかかる。そのデタラメなパーマに絞る焦点が眩んだ。
 暑苦しい頭から、破片で降る文字をぼうと見る。
 『非常の際には、ここを破って…』の文面がバラバラになって落ちてきた。いっ…てえなクソ…と人のベランダで、語気荒く寝返りを打った男が、ア、と逆さの視界に見えた土方の足に気づいて喉仏を反った。んん?深爪…指の毛…と辿って動く男の眼球が、野郎の素足だと認識した途端あからさまに濁った。もちろんそれは、つっかけを履いた土方の足だ。かくつきながら持ち上がる白銀の髪が、ゆっくり土方の影になる。
「あー…どうも……こんにちは?」
 そこに蝉の鳴き声が狂ったように、かぶさった。
 瞬間の夏の命に狂っていた。
「あ、先日は、ラップをどうも…」
 喋った口から煙草が落ちかける。網戸を支える手の皮がひりつく。
 非常の際には、ここを破って隣戸へ避難出来ます。足下のバラバラになった破片の文字を繋げて土方は思った。アア確かにこれは非常といえる。
 派手に破られた避難壁の穴は、でかかった。もはや男の上半身は完全にこちらにある。板の裂け目から見え隠れする、同じ構造でありながら知らない向こうのベランダに、揺らめく影があった。ああたぶん、こうなった過程の、もうひとりが、そこにいる。自分のとは違う煙の匂いが、破られた箇所から、足下に寝そべる男を伝ってこちらへ流れこみ、自分に混じる。風が眩しかった。葉脈のような光が幾筋も、目の奥を巡っている。境目を超えて、こちら側に倒れ込んだ体の。起き上がる気がないのか、無防備に晒された手首の青い脈打ちを。もわっと吹きつけた風にそよぐ髪の隙間で、夏の青を映す瞳が痛そうに瞬く。
「なんでE.T…?」
 逆さの視界に映る、土方のTシャツの柄に若干笑った男の眼が、水平に波打った。